『第二章:学園の生徒は今日も〈前編〉』
*
暗い森の中。
彼は歩いた。歩き続けた。
たった独り。好奇心に駆られて迷い込んでしまった森の中で。猛獣が闊歩する夜の国で。
気付かぬうちに、彼は森の奥へと進んでいっていた。
『……助け、誰か―――』
彼の周りに人間は一人もいなかった。そう、一人たりとも、いなかった。
*
*
四月十日の早朝、HR開始の三十分前。
遠野はすでに、学園の自教室に到着していた。
自席に着き、彼は、ふ、と吐息した。
学園校舎は各学生棟と職員棟がE字状に連なった構造で、二年科教棟はE字の中央の一線。教棟は二百メートル近い長さで五階建て。他教棟も同様で、一つの棟に二十五クラス、千人以上の生徒を容易に収容できる規模だ。
遠野のクラスは、五階フロアの中央に位置する、陸上科D組だ。
窓際、その最後尾の席に座る遠野は、生徒机の半分を占める可動式ディスプレイを暇潰しに弄っていた。
と、いっても、学園関係のテキストや資料をサーフィンしているだけだが。
新東合学園。――生徒数は約三千人。全国から集められた有能な継承者や襲名者、能力・種族希少者の育成と研究を目的とした総合教育研究施設。その指導範囲は多岐に渡り、一般学から国学、神話学や地政学。特定専門分野の指導までも受けられる。単騎決戦・国家的代理として要求される格闘戦術や戦闘訓練などの実習もあり、全科目における設備・資材は万全だ。
そして、この学園の地下に本拠地を構えるのが、神州を牛耳る継承者たちの大組織。神州神話機構だ。
学園とほぼ同等の広さを持つ地下階層が四つ。それぞれ指令室や実働部、研究部や開発部の層に別れており、第三層の最奥には学園生徒会があるらしい。
……まあ何にせよ、俺には関係の無い話だな。俺が連絡を許されているのも第一階層の指令室まで。伍長相当官には似合いの待遇か。
呑気な気持ちで画面に視線を落としていると、ふと正面に嫌な気配を感じた。
案の定、それはやってきていた。高飛車で高圧的な女性の声が耳に入った。
「あら、遠野・和時。今日はまた随分と上機嫌ですわね。昨晩入ったビデオ店でムフフでエロスな上物でも見付けたんですの? そうですわね!?」
「ちげーよ。エロビデオ一本で機嫌が良くなる野郎がどこの世界にいるんだ!」
言った途端。教室内にいた数名、というか男子全員が一瞬だけ動きを止めたのは、まあ触れないでおこう。――それよりも、と遠野は目の前に立った女子生徒をねめつけた。
「俺の機嫌はさておいて。波坂、お前、ここにいていいのか? 生徒会の仕事はどうした。新年度始まったばっかりで、忙しんじゃないのか? サボりか? 殺されるぞ?」
そう言った眼前に立つのは女子生徒。同級生の、波坂・伊沙紀の顔を見上げた。碧眼と視線がかち合う。
勝者の笑みを湛える少女は、少しツリ目がかった大人びた容貌を持っている。
手入れのきいた水色の長髪はアップで纏められ、腰までしな垂れたその一房と、制服の上からでも分かるメリハリのついた身体のラインが妙に艶めかしい。ニーソとスカートの間も黄金比でなおさら。――が、彼女の襟元に着けられた階級章は、黄地に赤のラインが三本、星は三つ。〝大佐〟相当を示すものだ。
右手を腰に当てて、左手を机上に載せて遠野との距離を詰めた波坂は、しかし愛想良く言った。
「ご心配には及びませんわ。今年度の予算は去年済ませましたし、厄介は政府に預けてますから、そこら辺の事は三月までに終わらせましたの。貴方、ワタクシの補佐ですのに知りませんでしたの? そろそろその考えなしのアホウを治した方がよろしくてよ。――まぁぶっちゃけ、暇ですわ」
波坂は、遠野と同じくヒト種だが、有能な異能魔術師で、かつ神役継承をした襲名者だった。入学早々に学園を取り仕切る生徒会に入ったほどの大物だ。流石は現首相の愛娘。
しかし、彼女はそれを鼻にかける素振りもなく、無能者である遠野に――言動が不規則でよく毒づいてくるが――話しかけてくれていた。
「そーかよ。なら、今日の昼メシ、一緒に食堂にでも行くか? 奢るぞ?」
「あら、ワタクシに好きさせる気ですの? 大盤振る舞いですわね。今年から追加された三大珍味のフルコース頼む気満々ですけど、それでもよろしくて?」
やけに優越感に溢れた微笑で問いかけてくる波坂。彼はデスクの電源をオフにしつつ、
「別にいいさ。親からの仕送りが余りに余ってるからな。……あいや、待てよ。フルコースとなると個室になる。それはマズくないか? 総理の一人娘が男と学食デートってのは。大丈夫か?」
「で、デート。……それはまた何と甘味な響きが」
「どうしたんだまた。ボソボソ独り言言われても分からんぞ?」
「う、五月蠅いですわ。少し思案していただけですわよ! 構いません。ご一緒させていただきます! 昼休みに会議が入ってますから、四限終わったら即個室ですわよ!?」
「分かったからそんなに捲し立てるな」
波坂の剣幕にやや押され気味の遠野だが、ふと、ついついと彼の右側の袖が誰かにつままれた。
「おはよ和時君。――ねぇねぇ和時君、二年D組の教室って、ここで合ってる?」
「ん? ああそうだぞ、空。昨日はよく眠れたのか? ワンピースは別に返さなくてもいいからな? ―――っておい! 何でお前がここにいるんだッ!!」
ノリツッコミみたいな返事になってしまった。
振り向いた先、学園の制服を着た矮躯の少女、蒼衣・空がいた。休眠したおかげか、昨日よりも肌艶や血色が随分と良くなっている。
空は、のほほんとした笑みで、とんでもない事を口にした。
「今日からこの学園に編入する事になったんだ。よろしくね?」
「はは、悪い冗談だろ。この見た目で高二とか常識的に見ておかし過――――」
「あァ、そーいえば今朝、自宅のデスクに役員通知が来てましたわね。編入生が一名遅れて入ってくるとか何とか。まさかウチの小隊だとは思いませんでしたけど」
遠野の言を遮った波坂は、更に空と彼の間にするりと入り込んだ。彼女は笑顔で挨拶をした。
「たしか空位だった大尉相当官として赴任する、継承襲名者でしたわね? ワタクシ、ヒト種の波坂・伊沙紀と申しますの。貴方と同じ継承襲名者で襲名神は裁きと退廃を司る大神イザナミ。異能と魔術を専門にしていますわ」
波坂が告げた言葉を聞いた瞬間、空が軽く目を開いたのを、遠野は雰囲気から悟った。
「……ど、どうも。空です。リュウ属ワイバーン種で、一応、継承襲名者やってます……」
「一応とはまた随分な言い草ですわね。今や国家を先導する継承者、特赦権利すら持つ継承襲名者を一応とは。まあプライバシーの問題だと受け取っておきますわ。よろしくお願いしますわね」
波坂の実に外面のいい巧みな挨拶に、初対面の空は、遠野の方にひょいと顔だけ出して、
「か、和時君! この人、和時君みたいに良い人だね」
「騙されるなよ空。コイツ、お前が気付かないうちに手を回して、弱みを掴む気だぞ」
「へ?」
「精々シッポを出さないように気を付けるんだな」
「あら、入学初日から無能者だとバレた貴方が言う事ですの? 学年主席の無能者さん?」
「俺は隠してなかっただけだ。それにお前、俺が囲まれてたときずっと外野から見てただろ? 何がしたかったのは知らないがな」
「お、覚えてましたの? 質問攻めで何も見えてないのかと思ってましたのに」
つい、と波坂は恥ずかしげに顔だけ逸らした。
頬が少し朱色になっているのは予想が外れていた事への羞恥か何かだろう、と彼は思った。
「確かに質問ばかりで煙たかったが視界の隅にちらつくし、美形なぶん目につき易かったからな。それに、その髪色の事もある。――何よりも、あんだけドス黒いオーラを醸し出してたら、否が応でも視線が――」
しなやかな軌道。波坂の手刀が彼の頭に直撃した。彼女は顔を赤くして、
「婦女子にドス黒いなんて失敬ですわ! 謝罪はいいですから賠償金を払いなさいな」
守銭奴の波坂はとんでもない事を言う。が、何故か空もそれに同調して、
「今のは和時君の方が悪いよぉ。ヒトの悪口は言っちゃいけないんだよ?」
「空、お前までコイツの味方かよ。というよりか、波坂も普通に罵倒してた気が……」
「ご、ごめん」
「何で謝るんだ。馬鹿が」
「……ふん。言葉の暴力で検挙できますわね、今の」
いつの間にか平静に戻った波坂は、何の恨みかこちらを悪人にしようとしている。
「和時君、悪者なの?」
「ちげーよ。つうか波坂、出来ねえ事を言うんじゃねえ」
「あら、金と権力さえあれば、十分できますわよ?」
平然と言い放った。なまじ本気の顔だった。
*
*
HRでの自己紹介もほどほどに、空は与えられた席に座って一時限目の講義を受けていた。
……ふふん。ふ~ふ~。
空は上機嫌だった。何故なら、右に波坂、左には遠野が座っているからだ。正に両手に花。
「――人類が変革を経てから十年。そのわずかな時間で世界情勢は大きく変わりました。異属や魔術に対する対処法が無かったがために暴動の鎮圧は困難を極め、先進大国を含めた大多数の国や組織は陥落。世界大陸の四十パーセント以上が無法地帯と―――――」
鼻歌まじりに空は授業を聞く。特にやる事は無い。授業の形式は講義型で、宿題提出はレポートのみ。授業中は、正面の黒板代わりの大液晶に映される画像と講師の音声を、要点だけ記録端末に保存さえすれば、もう殆ど寝ててもイイ。
……ここら辺はぁ、全国統一だからぁ、楽でいいなあ。テストや実践の結果さえ良ければ評価もらえる、から、ねぇ。――でもーたまーに、イジワルな先生がいたりして、ぇ………。
目蓋が重くなり出し、頭がふらふらと揺れ始めた空。と、そこへ、
「――はーい、それじゃあ先生が話してばっかりだと退屈なんで先生が。誰かにこの情勢と継承者の関わり合いを説明してもらいましょー。――そうですねえ、じゃぁ編入生なのにおねむをしてやがる空さーん。いいですかあ?」
「ほ、ほえ? ――は、はい、何でしゅか、しぇんせいぃ?」
「あはは、お寝ぼけさんは学園外周させちゃうゾ? ――世界情勢と継承者の活躍について、空さんが説明してくれるかな?」
目元を両手で擦りつつ、空は椅子から立ち上がった。まだ眠いが、やる気を無理くり出して、
「あぁ、はい。分かりました……。えっと、――この十年で世界は悪化したといえます。その理由は大きく二つです。ヒト社会としての世界情勢の下降と、世界環境の偏りからです―――」
*
*
空の説明を、遠野は授業と同じくいつも通りに傾聴していた。
要約すれば、こうだ。
人類が変革してから数ヶ月は、その原因と神託の解明が最重要とされ、世界では治安という概念が疎かになっていた。そのためか、神秘という力を手にした人々は、一部だがテロや暴動紛いの行為を起こすようになったのだ。対処法も何も分からない不思議な力を前に、警察や軍隊は苦戦を強いられ、そのうち自分たちもその力を無許可で使用し始めた。その頃から、治安はいよいよ混成を極め、たった一年で崩壊した国家、政府も少なくない。
中でもよく保ったのは、旧米国と露西亜の二つだ。数年前に旧米国政府とは通信途絶。旧露は森林地帯の多い東シベリアを放棄し、首都周辺と東欧とで襲名組織を結成した。大国二つの消滅に、神州政府は亡命や移民を数多く受け入れた。旧露、旧米合わせて数百万にのぼるといわれている。
現在の神州には、択捉を初めとした北方諸島や樺太の資源があり、学園にいる継承者も元米人や露西亜人がままいる。現に、学園生徒会副会長は、元々は北欧の生まれだそうだ。
しかし、何よりも世界の情勢崩壊を早めた原因は、継承者の有無、だった。
神役継承。――世界の均衡を保つために、諸元の神より賜った人類の責務。世界の予備バッテリーとして、己が霊体の心臓部である魔力炉が生む魔力を常に、一定量世界に奉納するという事。その役目は天寿を全うするまでで続き、拒否する権利は人間側には無い。
そこまでは良かった。が、その継承者の数によって、周囲の環境には大きな差が生まれたのだ。襲名、継承ともに最多を誇る神州は、変革以前の異常と呼ばれた気象は皆無。何をするにしても潤った環境となっていっている。それとは逆に、継承者の数が少ない国や地域では、干魃や台風、環境の弱体化が大きく見られていった。
それまで神役に半信半疑だった人類は、その事実を契機に、神役継承の重要性を認識し、継承者を上位存在、神として祭り上げた。襲名者が権力を掌握しているのは、そのためだ。
この出雲がたった十年で、継承者のために半分以上の土地が献上され、大改造の末に研究施設群が乱立して郊外にもその手が伸びているという現状は、その最たるものだろう。
「――わたしたち継承者は、奉献者である事から、国家の代理となれる存在になっています。襲名者自身が、国際法上の一国家としての権利を有し活動できる。国家的代理の理論です。これによって襲名者が国家そのものの代理として活動を行う事ができるようになりました」
懇切丁寧な説明を終え、空は椅子にかけ直した。すると、
「はいはいイイですよ空さあん。長々とありがとーねぇ。それじゃあ、他人任せにする楽さに気が付いた先生はぁ、次のエ・ジ・キをお、選んじゃおっかなー。――んーっと、それじゃあ、小隊長の岩戸さぁん? 神州機構の概要と全部長の事でも教えてくれない?」
講師は、嫌味の無い目を細めた微笑みを、岩戸・スズメに向けた。
はい、と空の一つ前の席に座る岩戸が、短く返事をして立ち上がった。
規範通りの制服の着こなしに、黒髪を肩で切りそろえた髪型。どこにでもいそうな清楚な彼女は、暗記した事を復唱するようにさらりと質問に答えた。
「――神州神話機構は、研究開発の二部と陸海空の実働三部から成り、その全部長として機構を牛耳るのが、神州を統括する三貴神のうち一角を唯一襲名した、ツクヨミであるファブニル種の〝夜盗神月竜王〟こと蒼衣・龍也です。竜王は、前身である出雲研究所の頃より継承襲名者の代表として参加し、五年前、機構が設立すると同時に全部長に就任。多方面から変革についての研究を行い、彼はこの世界の存続に多大なる貢献をしています」
そして、と岩戸が言葉を繋いだのを遠野は聞いた。
「現在、竜王は新東合学園の三年として在学しており、生徒会長として学園の運営も一任されています。彼は行政府と密接なパイプを作る事で、迅速かつ的確な政策を施しています。やり口は絶対王政と揶揄されていますが、彼無くして今の神州は無いとも言われています」
「おお! いいよいいよ。みんなお勉強してますねえ。これならもう先生いらないんじゃないかなあ。――よぉーしっ、今度からは先生お昼寝するからみんな自主勉でもしててー」
何言ってやがるこの教師、という生徒全員からのツッコミをさらりと受け流して、のほほんとした笑みを浮かべ続ける講師。岩戸は何事も無かったように着席して、再び机の上のノートに面と向かって教科書の書き取りを再開していた。現在進行形でやってたよこの委員長。
しかし、と遠野は思った。教室内、先程のやり取りはどこへそのへで講義が再開されて、私語もせずに授業を聞く事に没頭する生徒たちを見渡して、
……たった数年で、これほど統率された軍隊を作り上げ、他国にすら影響を及ぼす竜王。リュウ属の中でも希少な狼竜種にして、継承襲名者のトップときたもんだ。とどのつまり、
「――何でも、出来るんだろうな……」
小声で独語した遠野は、視線を次々と移していった。空へ。波坂へ。岩戸へ、だ。
どれも継承襲名者で、士官として尽力している。自分とは大違いの、ヒトたちだった。
*
*
二限目の終了後、それは何気ない口論から始まった。
D組の、白亜の教室に、甲高い叫び声が響いた。幾枚の窓ガラスが砕ける快音と共に、
「――謝れェエ‼」
ガラス片と一緒に波坂が中庭に落ちていく。
後に続く形で、空も五階から飛び降りた。
波坂は身を翻して気流操作でふわりと着地。空は直に着地して足元のタイルにヒビを入れた。着地後すぐさま二人は身構えて、互いを睨みつけている。
クラスの皆は窓際に集まって二人の騒動を観戦しようとする中、遠野は破られた窓越し――遠野の席のすぐ傍――で二人を交互に見た。小さく吐息して、彼は忌々しげに呟く。
「……全く、お前ら二人ときたら。他人を種に喧嘩するんじゃない」
ほんの数分前。それは波坂の何気ない嘲笑から始まった。いつもは二人で談笑していたが、今日は空も混じった三人で会話をしていた。――すると、不意に波坂が口にした彼への罵倒が、空の感性をひどく逆撫でしたようで、空は波坂に謝罪を要求し始めたのだ。
しかし言った手前、それも日常の一部分程度の事に対してだったため、波坂も強い態度をとってしまった。結果、芯が硬すぎる二人は折り合いがつけられず、一触即発の雰囲気に。
空の叫声で生まれた衝撃波により窓ガラスは砕け、波坂は外に追いやられ、今に至る。
……何を二人とも拘るんだ? 俺の事でそこまでする必要があるのか? 鬱憤が溜まってるのなら他の所で吐き出してほしいんだが。
二人の会話を遠野は思い出していた。
『無能者の貴方に、継承者の気持ちは分かりませんわ。政策や予算が機構関連で優遇されるのは、継承者あっての世界であり、世界あっての国家臣民だから。不等に多いのは正当な報酬というもの。何も出来ない貴方には分からない世界なんでしょうけど。諦める事ですわね?』
『――波坂さん、それは、言い方がヒドイよ……!』
『あら。当然の事でしょう? 貴方もそう思ってるんですのよね? 無能者、遠野・和時』
『違う! 波坂さんっ、謝って!!』
波坂もそうだが、あそこまで空が怒鳴ったのは正直驚きだった。何が癪だったのかは分からないが、まあ少なくとも何も出来ない自分には、どうしようもない。
見守るしかない。
轟、と眼下で空気が破裂し、撃音が奔った。地表には水蒸気が筋のように発生していた。
……始まったか。身構えてないと、俺は気絶するかもな……。
*
*
空の放った衝撃波を、咄嗟に波坂は魔力波を放って緩和させた。
体勢を整えた彼女は息を詰め、そして少女の放った衝撃波の威力に奥歯を噛んだ。
相殺し切れなかった衝撃波に押されて、五メートルは吹っ飛ばされた。空との距離、十五メートル。
……何て力技。これで平常攻撃ですの? 竜撃になったら洒落になりませんわよ!
「っ、本当にマズいですわね。幾らヒト型のままとはいえ分が悪すぎますわ。――幸い、あの子は怒りに任せて攻撃してくるだけですから、まだ勝負になりそうですけど」
腰をやや落とした波坂は、空をその瞳で捉えた。直後、彼女の碧眼が、金色に輝いた。
視界が暗転する。
暗闇の中、周りの物が全て陰影をつけた青白い発光体となって見え始めた。
波坂の視覚は今、魔力だけを認識している。先程まで空がいた場所には、眩しいほど強い光を放つヒト型があった。――神経を少女に集中させて、彼女は異能の目を見開いた。
……ワタクシの異能を食らいなさい、蒼衣・空!
呪いが空間を奔った。
空は、一瞬で身体が凍り付いたように身動きをピキリと停めた。少女の霊体に干渉を続けながら、ふっ、と波坂は口端を歪めた。
異能〝邪眼束縛〟。――敵の霊体――霊体は魔力と同じ霊子で構成される――に強制介入して束縛し、魔力運動を停止させる。肉体を動かす霊体、物理の上位存在である魔力が縛られ動けなくなった場合、肉体も同じく縛られて、その場に固定される。つまりは金縛りとなるのだ。
縛る力を強めれば呼吸、心臓の脈動をも止められる。異能の中でも高位に位置する力だ。が、しかし、、
『――!』
束縛の数秒後。空が全身から放射した高圧の魔力によって、波坂の干渉は弾き返された。
パスを強制的に切られ、一瞬だけ頭の中が切られたような激痛が走る。素早い判断で波坂は数歩、額に手を宛がいつつバックステップで後退した。すると、空が、
「和時君に謝ってッ!」
「ふっ、謝るとでも思ってますの?」
答えた瞬間、一直線に空が突っ込んできた。
しめた、と波坂は、空の右半身にだけ束縛を一瞬行使した。右側だけブレーキをかけられた空は、左に残った慣性で勢いよく右へ回転。そのまま地面に転倒していくも、空は攻撃する事を選択した。
うが、と体勢不十分でありながら空は、口から衝撃波を吐いたのだ。無作為に無軌道に放たれた衝撃波は、散弾のように辺りにぶちまけられ、波坂に猛威を振るった。
……無茶苦茶な!
間一髪で致命傷は避けたが、腹部に少し食らった。一撃だけで膝が崩れそうだった。――少女の馬鹿げた力を波坂は内心でなじる。手を宛がい、応急で治癒魔術を掛けた。
空は束縛による転倒に加えて、衝撃波を放ったため受身も取れずにタイルに打ち据えられた。が、ややあってから少女はむっくりと起き上った。
疲れているようには見えないが、服も髪も乱れてボロボロだ。口元から赤い魔力光をチラつかせつつ、空は水色の少女に冷たくこう言った。
「謝って波坂さん。じゃないと痛い事するよ」
いよいよ少女は本気になろうとしている。だが、波坂はあくまで態度を崩さなかった。
「何をそこまで熱くなってますの、蒼衣・空? 幾ら友達が馬鹿にされたからといっても、しつこいと嫌われますわよ? 少なくともワタクシに、謝罪をする気は皆無ですわ!」
喋っている間も、波坂はひたすら外界魔力を精製した。邪眼を少女に向けながら、可能範囲で体内に貯蓄し、限界を越えれば魔弾として再集約だ。
……能力的に劣るヒト種の、対異属用戦術の一つですわ。
と波坂が思った直後だった。いきなり、空が動いた。
『――ッ!』
身体をくの字に折って、小規模の竜撃を放ってきたのだ。
波坂は吃驚した。まさかここで竜撃を!? と。
小規模だが掠っても致命傷ものだ。発射後だったが、波坂は邪眼を駆使して空の口をわずかに束縛して照準をずらした。威力は軽減できなかたが射線をぶれさせる事は出来た筈だ。
迎撃用にすぐさま両手を振って火炎弾を撃つ。加減を一切加えずの全力弾だ。
二人の中間に爆発と熱風が発生した。
周りの損害が気になるが、庭はともかく校舎の防御は二のD小隊が受け持ってくれている筈だ。心配ないと判断し、波坂は戦闘に集中し直した。
「……謝って! 波坂さん! 和時君にひどい事言わないで! 和時君は無能者で、ずっとそういう事言われてきて、ずっと嫌な思いしてきたんだよ!? それなのに波坂さん、何回も和時君に無能者とかアホとか言って! ――あれじゃあ和時君があんまりだよ!!」
空の物言いに、波坂は、自分の感情が一気に冷え込んだのを自覚した。彼女は無表情に言い返す。
「何ですのそれ。遠野・和時が嫌な思い? あんまり? ――傲慢な言いぐさですわ。ならば一つ問いますが、蒼衣・空。貴方に、あの人の気持ちが分かっていますの?」
「分からないよ! でも、嬉しくないのは確かだよ!! 波坂さんにはそれが分からないの!?」
〝竜撃〟の二射目を空は口内に溜めた。
途端、波坂は地面を蹴った。右へ、射線から逃れる弧を描く軌道から接近する。空と肉薄するまで四メートル。空は慌てて身体を向け直すが、もう遅い。
〝竜撃〟の二射目がきた。射線上だが、圧縮不十分で威力は脆い。ヒト種の魔力放射でも十分相殺可能だ。懇親の魔弾を右手に込めて、波坂は右の拳を繰り出した。
「……おお!」
砕いた。高圧魔力のぶつかり合いに水蒸気が発生し、膨れ上がるようにして辺り一面が水煙に飲まれる。
狙い通りの出来事が起こる中、波坂は構わず飛び込んだ。空の眼前に、だ。
……分からないのかですって。分かってましたわよそんな事! 彼の惨めさくらい―――。
水蒸気の中、攻撃される可能性を無視して、波坂は空の目の前に敢然と立った。そして叫んだ。
「分かっていましたわよ! あの人と初めて話した時から。彼がどれほどの傷を負ってるかなんて! 親しくなれば嫌というほど理解できましたわ!! でも、――仕方ないじゃありませんの。ワタクシは、あの人を傷付ける側のヒト。いてはいけない人間。
それでも、ワタクシは、彼と少しでも一緒にいたかったんです!!」
ワタクシは醜いイザナミ。蛆に塗れた女神。そう、だから何でもするのだ。
「――たとえ憎まれ口を叩いてでも、ワタクシは彼の心の中に留まりたい!!」
きっ、と波坂は空を睨み付けた。少女は一瞬たじろぐ。
何故この子なんだ、と心底そう思う。
今、自分がどんな顔をしているかなんてどうでもいい。この馬鹿で無垢な少女に、彼が手を掛けてやったこの少女に、分からせてやりたい。彼の、優しい気持ちを。
「貴女がどう言おうと構いませんわ。ですが、彼が求めてもいない事を代理人のように語る事だけは許しません、絶対に。蒼衣・空。あの人は何も出来ない。ゆえに誰からも礼も受け付けない。ただ己の行いに満足するか否か。それだけで、彼は十分だと思っているんですわ!」
「……違う」
「違いません! 蔑みも嘲笑も無力も無能も全て受け入れて、彼は己のモノにしたんですわ」
水蒸気の霧が風に撒かれて薄れ、晴れてきた。急がなければ。しかし、
「違うっ」
少女は首を振って否定する。だから、彼女は言ってやった。彼に向けるような、嘲笑いを浮かべて。
「――貴方が否定したいのは、自分を否定し笑ったヒトではなくて?」
「……違う! 違う違う! 違う違う違う違ァ――う‼」
空は叫んだ。そして波坂の黄金に光る瞳を直視して、少女は問い質してきた。
「違う。違うんだよ! 和時君の考えはそうかもだけど、和時君がどうこうじゃないんだよ! 波坂さんは何で助けようとしないの!? 大切に思ってるなら助けてあげるのが普通じゃないの!? 自分のしてあげたい事をしてあげるのが、お友達じゃないのっ!?」
「何を今さら。あの人が、和時さんが一番嫌いなのは、何も出来ない自分が助けられる惨めな自分なんですのよ!? それを知ってしまったワタクシにこれ以上何ができるといいますの!?」
「なら試したらいいじゃん! 何がしてあげられるか、試したらいいじゃんか!! それをしないでいたら、いつか本当に、欲しかったものがどこにもいなくなっちゃうんだよ!?」
殆ど霧が晴れた。残りは自分たちの周りだけだ。彼女は、下唇を噛む思いで告げた。
「それでも構いませんわ! 彼がそれを望むのなら、ワタクシは臆病者でいいですの!!」
不意に、波坂は自分と空との間に高圧魔力を放り込んでやった。一つの衝撃波が生まれる。突然の出来事に空は後方へ飛ばされ、タイルに叩き付けられる。タイミングを計っていた波坂は背後へと跳躍して難を逃れた。
が、その数秒後、
「波坂さんの……、馬鹿ァ―――っ‼」
十メートルほど先、ぬらりと立ち上がった空がいきなり絶叫を放った。
「なっ……!?」
少女を中心に熱く濃い白煙の渦が生まれた。
今度は爆発ではなく故意に、大量の魔力によって無理やり作り出されたものだった。その事に波坂は目を見開く。この量でこの濃度の白煙を、自ら生み出すという事は、つまり、
……まさかここで獣化を!? ――頭にキていたのは、お互い様のようですわね。
水蒸気の煙幕が、大翼の羽ばたきよって吹き飛ばされる。中からは、悠然とした威容で屹立する山。竜盤目の頭蓋に鳥の如き形状、重厚な鱗を持った蒼飛竜の姿があった。
蒼鱗の飛竜は、両肩の主翼を広げて、天に向かって地を轟かす咆哮を放った。
『――――!』
「っ! ……あれが、蒼衣・空本来の姿、という訳ですのね?」
体長三十メートルを超える飛竜。その獣眼はぎろりと動き、こちらの肢体を捉えた。
飛竜の顎からは、すでに加圧による赤い魔力光と、わずかながら火が漏れ出ていた。
*
*