『第九章:力有する者〝有者〟』
*
満月の下。爆炎や砂煙、魔力の残滓が舞い散る中。
蒼衣は右手を天にかざした。
すると、まもなくして周囲に降る月光が粒子のように固まり、集まり、やがて鉄骨の如き大きさにまで成長した。
歯を剥いた笑みを湛えて、彼は青白く発光するそれを右腕の振り抜きで投げ飛ばす。
投げ捨てられたバットのように宙を暴れて飛ぶ光柱は、一直線に遠野を狙った。二十メートルの距離が一瞬で詰められる。直撃コースだ。――蒼衣は、更に笑みを濃くする。
しかし、光の柱は爆散した。
轟、と柱は巨大な火球によって相殺されたのだ。
……良い。
歓喜に、彼は身体が震えるのを自覚した。――良い。良い、と。
「……お!」
先程確認した時よりもなお後退した位置から、〝有者〟は両手を大きく振りかぶっていた。無手のまま彼は宙をクロスするように切り裂いた。が、その直後、
「――ッ!? 魔力の放出だけで爆風を生むか……!!」
竜巻並みの旋風が砂煙と一緒になって蒼衣を襲った。来る砂塵から顔を左腕で隠し、残った右腕を背後に伸ばす。腰を低くして飛ばされぬように彼は踏ん張り、そのまま右手に魔力を集約した。
数秒後、暴風が弱まった瞬間。
彼は自らの魔力を光に変換し創った細長い光槍を、槍投げの要領で投げた。視界不良で目標は殆ど憶測だったが、微かに感じる気配を頼りに投げている。当たらなくてもこれはいい、
……ハハッ。魔力と砂煙で視界も霊感も完全に遮る。良い手だ!
だが、
「だが甘いぞ! 貴様が相手するは神州最強という事を忘れるな!!」
彼は両椀を直上に向けた。瞬く間に、上空には四十近い月光の槍が生まれる。
肺に吸気。痺れるような空気だ。先程投げた槍はどうやら避けたようだが、砂地を踏む音はあった。それを頼りに、蒼衣は腕を振り抜きにいく。
「――射殺すがいい、〝月光柱〟!!」
宙を漂っていた四十の光槍が、豪雨の如く力任せに落とされた。
槍の一本一本が大地を穿ち、快音が響き渡る。目の前がまた、砂ぼこりに覆われていった。
どうだ? と蒼衣は喉を鳴らして笑い、問いかけた。まだ生きているのだろう? と。
応じは、すぐ返ってきた。それも眼下。
突然、地中から遠野は姿を現したのだ。空中で身を屈める彼が目の前に見える。
遠野はすでに手刀の構えを取っている。その鋭い双眸がこちらの喉元を見据えていた。
「ほお。錬金術で掘ったか?」
「理論構築だけは、嫌ってほどやってたからな――!」
叫びと同時、遠野は手刀を放ってきた。
風を斬る手刀。蒼衣は上半身を無理くり左側に振って急所だけは回避するも、
「……っ!」
右の耳を根本から持っていかれた。
魔力で切先を増したか!? と蒼衣は彼の行為に毒づきつつも、斬られた耳を押さえて大きく後方に跳躍した。遠野は追ってこない。蒼衣は舌打ち一つ。
……どこまでこちらの戦法を読む。竜撃も打ち込めぬか!
リュウ属の異業〝竜撃〟は、一極化すれば威力こそ大きいが外れやすく、魔力の消費も激しい。この手合いでは深追いしてきた相手に有効的なのだが、遠野はそこを弁えているようだ。
間合いから更に十メートル距離をとった蒼衣は、失った右耳に無理やり魔力を宛がう。肉が腫れるような感覚が残ったが、不完全ながらも耳は元の形を取り戻した。すると、遠野が、
「獣化が可能な異属の本体は霊体であるため、高い霊力と魔力があれば見た目だけでも再生が可能、か。教科書で読んだ通りだな。実地で学んでいるようだ」
「ハ、ぬかせ! どれだけ平静を保とうとも、貴様の魔力は先程から攻撃を通したくて堪らぬと疼いておるぞ? もっと怒りに任せて来んのか?」
「問題無い。外したおかげで今はまだ冷静でいられる。――次は取るぞ」
遠野の言葉に、蒼衣は歓喜して歯を剥いた。
……良い。もっと刃向かえ。それでこそオレが見込んだ男だ! 叩き潰してやる!!
蒼衣は満月を見上げ、口を大きく開けた。腹の底から胸部、喉、口を軋ませて、
「――!」
力の続く限り、蒼衣は竜咆を挙げた。
周囲の魔力が、咆哮に呼応して月光を星屑のように乱反射させ、煌びやかに舞い出す。渦を巻くように、そして流れるように舞うのだ。
星屑は量を幾度にも倍増していき、やがて彼の背後に集約していった。流れは天の川の如く流麗で、しかしその光景は胸のうちが冷え込むような恐怖を与えてくる。
一本、また一本と、蒼衣の後ろに神力によって創られた光の柱が積まれていった。
「――どうだ? 和時よ。貴様は知るまい。オレの神としての深淵を」
先程まで青白い発光を灯していた光は、今や黄金に光り輝き、ひときわ異彩を放っていた。
蒼衣は、黄金の一本を指先一つでひょいと浮かせ、ゴミを捨てるかのように遠くへ投げた。
「青はただの物質だ。だが周囲の魔力、月光により陰性に染められたそれらを同時に転換し、融合させた時、オレの〝月光柱〟は姿を黄金色へと変える。それが、アレだ」
蒼衣の笑みの先には、彼が捨てた柱が宙をゆらりと舞って落ちようとしていた。
落ちた。
その瞬間、柱は小規模だがヒトを吹き飛ばすには十分なほどの爆発を起こした。
「満月の宵でなければ造り出せない、オレの秘技。〝光爆柱〟だ。
貴様が食らったところで死にはしないが、――先の光柱とは威力が天地ぞ?」
*
*
光爆柱とやらを数本避けたところで、遠野は歯軋りした。
こちらの不利に、顔が歪む。
蒼衣は先から立ち位置が全く変わってない。指揮者のように手を動かして、光爆柱から逃れようとするこちらを巧みに弄んで愉しんでいるようだ。
舌打ち一つ吐いて、遠野は眼前に来た光爆柱を紙一重で避けにいく。が、寸でのところで彼は、はたと気付き横っ飛びした。
コンマ何秒、光爆柱は勝手に爆ぜた。どうやらコレは、蒼衣の意思でも爆発可能のようだ。偶然気付けたのは、蒼衣の笑みがわずかばかり濃くなったからだ。
「……厄介だな。竜撃や空の神力でなら一掃できそうだが、生憎それは無しだな」
ここに連れてきていない事もそうだが、今までずっと慕ってきたヒトと闘わせる訳にもいかない。それに、この闘いにもはや大義名分などは皆無だ。捕らえよとの任を受けた者が、任を与えた者を捕らえる。矛盾が過ぎる。だから、遠野は私怨だけで動くと決め込んでいた。
……波坂をやってくれた礼だ!
紫電の如き速度で、彼は雷撃を蒼衣目掛けて奔らせた。
行った先、あいにく光爆柱を盾にされて当たりはしなかった。が、遠野はこれ幸いとバックステップで間合いを更に空けた。
腰を落として遠野は身構える。一息の後、遠野は脳内をフル回転させた。
頭の中に溢れる、異能の情報を確認していくのだ。取りあえず、見付けただけでも異能の数はすでに数千を超えている。よく分からないモノも含めれば桁は無造作に増えた。
そこから戦闘に使えそうなモノを選別し放っていくのは、並々ならぬ徒労だった。タグも添付も索引もなされていない大辞書から、一つの語句を探しているような気分だった。
遠野が身構えたまま動かないのを見て、蒼衣は訝るでもなくただ光爆柱を増産していた。というよりか、見る限りでは勝手に増えていっているような気もする。
リュウ属は元来魔力量の多い種族だが、中でも、蒼衣の種族である狼竜種は、異属有数の魔力貯蔵量を誇る。加えて、蒼衣の神力は周囲の魔力を基盤とするモノだ。実際に彼自身が使用する魔力は想像以上に少ない。おそらく、持久戦では圧倒的にこちらが不利だ。
遠野の魔力も、基本蒼衣のそれと同じ周囲の魔力、いわば大泉を精製して生み出される。その魔力も無尽蔵という訳ではないが、霊地である出雲でならかなりの量は眠っている。だが、それにも限度があった。魔力が枯渇してしまえば、遠野に勝ち目はまず無い。
……光爆柱は大泉も使うようだな。狙ってやってるのか……?
とは思いつつも、遠野は構えをとり直した。幾つか強力な異能をストックできたのだ。
初めはただ怒りに任せて乱射していたが、今は平常心を取り戻して、闘う事に全身を傾けている。時折脳裏には波坂の恨みが過るが、逆に良い油、もとい気付け薬となっていた。
肺に吸気、そして呼気として吐き出す。緊張に感化された魔力で肺が痺れるが無視した。両手に魔力を込めて熱を意識する。一瞬火花が走り、やがて勢いよく燃える炎と化した。
遠野は掌よりやや大きいその火球を手元に置いたまま、片足を引いて腰を落とした。前傾姿勢から、彼は、勢いよく蒼衣の許へと駆け出した。初動から全速力だった。
速い。
間合い五十メートルを一気に詰めにかかった。途中、光爆柱が豪雨のように降るが、肉薄したものに限って火球を連続してぶつけ回避し、蒼衣に接近していく。残り二十メートル。
遠野は疾駆。止まらず、ただ眼前で笑みを顔面に張り付かせた敵へと奔った。
出来る。
そう、強くそう信じている。幼い日、父親から執拗なまでに言われていた言葉。何でも出来るという教え。
――そうだ。俺には、何でも出来る力がある。今なら、今なら出来るんだ。誰の手も借りずに、己がやりたい事、自分の本当にしたい事が、今ならば、
「――出来る!!」
あと十メートルという所で、投下される光柱が倍増した。だが当たらなければ無意味だと断じて、目の前に来たもののみ爆散させて行った。耳はもはや爆音しか寄せ付けない。
倒すために彼は走る。近付き、そして討つ。
幾多の異能をぶちまけて、彼は王の眼前に辿り着いた。殺意に満ちた視線と視線がかち合った。
だが、
「……おお!!」
叫びを挙げて所有者は迷わず、全霊を込めた一撃を竜王に繰り出した。
*
*
暗黒の中で、少女は自分がいる事にまず気が付いた。
辺りは何も見えず、何も感じられない。ここは、どこだろうか? 自分はどうしてここに?
少女は自問した。
確か、皆いなくなって、自分とあの人だけになって、そしうたら――おかしくてどうしてだろうって―――? ――いや、どこか違う気がする。
……二人だけになって、そしたら、
「急に、落ちて……」
そう呟きかけて、しかし少女ははたと目が覚めた。
天日干しされたばかりの布団の良い香りが全身を覆って、鼻孔をくすぐってきた。逡巡。少女は今までの事を一気に思い出した。
……そうだ。二人で行こうとしてたんだ。でも急に和時君が……!
「――和時君!? どこだよ!!」
布団から飛び上がろうと少女はもがいた。が、どうしてか身体を揺さぶっても振っても布団はどこまでも自分に纏わり着いてきた。
どうして? と思うのと、理解が追い付くまでの時間はそう大差無かった。何故ならば、少女は布団に、
「って、わたし巻かれてる!? 紐でくるまれてるしィ!! ――う、動けないぃ……っ!!」
うがあ、と少女は自分を包装していた毛布を、口から吐いた炎で無理やり焼き切った。寝心地の良い呪縛から解き放たれる。制服も少し焦げたが構う事は無いと、少女は立ち上がった。
周りを見回し場所を確認したが、良く知らない所だった。雰囲気や彼の移動時間を考えれば、職員棟のどこかだろう。布団や畳、小さい調理台があるとなると、宿直室だろうか。
「――なら、まず下に降りて校舎を回ってグラウンドに行かないと」
行き先を口で言って確認した少女。ここに来て一ヶ月弱の彼女では、付き添いがなければまず迷う。遠回りだがこの道順ならばまず迷う可能性は皆無。否、ごくわずか、だ。
そうとなればまずは部屋を出ようと、少女は出口へ駆けてノブを掴んだ。しかし、何度回してみも開かない。どうしてと首を傾げて、少女はノブをよくよく見る。すると、
「……ってコレっ、鍵かかってるよ! しかも何でこっちに鍵穴が!? ――っは、もしかして錬金術で入れ替えた!?」
用心深い彼ならやりかねない。異能の力を覚醒させてまともに魔力操作もできるようになったんだ。
空を隠すついでに練習台にしたのだろう。彼の事だから罠はまだまだある可能性が高い。この一ヶ月でよく分かった。顔には出さないが彼は結構黒くて粘着質だ。
だが、その用意周到さに少女は怒り心頭だった。少女は思い切りドアを蹴り破って、
「和時君の……、馬鹿ァア!!」
見当も着けずに少女は廊下を全速力で駆け始めた。
唇を固く結び走る少女は、目に涙を溜めている。今にも大粒の涙を流しそうな少女は、思った。
……絶対に、嫌だ! もう、誰かがいなくなるのは嫌なんだから!
何故か、空は強くそう思っていた。初めての親友の喪失もあった。それに今は、大切な二人が死闘を繰り広げている最中なのだ。
かなりの距離が開いているが、先程まで大きな戦闘があった事はすぐ分かる。こんな場所の魔力まですでに食い潰され、残滓が漂っているだけなのだから。
こんな戦闘、侵士襲撃の際の比などでは無い。信じられない規模での争いだった。
故に、少女は走る。走って走って走って。あの二人を止めに行く。
間に合うかは分からない。――でも、
「……嫌だ! 皆がいなくなっちゃうのは、もう嫌なのっ!!」
あの時みたいに、と空は思った。襲名を果たして初めて学校を訪れた時、友達だと思っていた皆に裏切られた。いるのに、全員が他人に思えてならなかった。
あの時と今は違う。でも似ているのだ。もしもこのまま戦いに決着がついてしまったら、少なくとも、元の関係に戻れる事などない。最悪、二度と見える事叶わない人だっているかも知れないんだ。だから走る。
一心不乱に、走った。
少女は。蒼衣・空は。カグツチは。ただただ、二人の許へと全速で駆けていった。
不毛な争いに終止符を打つために。
*
*
開校から数年も経っていない筈のグラウンドは、すでに焦土と化していた。
無数の穴に瓦礫の山。土は爆炎で黒ずみ、豊潤にあった魔力は、今やその残滓すら見せないでいる。
月も、かなり地平線に傾いてきていた。
荒野同然のグラウンドに立つ人影は二つ。双方とも立つ事すらもやっとのふうで、肩で荒く息をしていた。すると片方が、一度深呼吸してから崩れた姿勢で口を開いた。遠野が、
「……どうした? もう光爆柱の補充はしないのか? 手を休めてるうちに、残しておいた分が無くなってるじゃないか」
「ッハ、ぬかせ。オレにはまだまだ力があり余っておるわ。大泉の助力なくなった貴様なぞ、相手にもならん……!」
蒼衣は苦悶を漏らしながらも全身に力を込めた。途端、彼の身体から魔力、星屑が噴き出た。――彼は崩れるように膝を着き、血反吐を吐いて咳き込んだ。
「体内整調すらまともにできてないのか。それのどこが、あり余ってるって言うんだ? こっちも相当消耗したが、まだ土くれで打剣くらいなら作れるぞ」
だがその言葉に、彼は小さく長く笑った。
「……良い、良いぞ有者! これこそ死闘と呼ぶに能うもの。待ちに待った時!
来るがいい! ――このオレが、全てを叩き潰してやる!!」
何故、と遠野はふと思った。
――蒼衣・龍也。世界において初の神役継承者にして襲名者。神州最強と目される月天の竜王。変革より彼が行った事は全て強行ではあったがどれも善的だった。異属の調査から、神秘の法治まで。神役に関する全ての研究も世界に対して公開し、変革後の世界の先導者として生きてきた。まさしく、善き独裁者だ。
だというのに、何故。何故彼はこうも争いを起こす事に執着するのだ。闘う事、命を賭す事に固執し、そこに喜びを見出す。神の、政治屋の重責が、彼に道を踏み誤らせたのか。
……それとも、他に何か目的でもあるっていうのか?
ヤツは言った。世界を我が物として、世界に平和とやらをもたらす、と。どう考えても虚言だ。他に、何かがある筈だ。他の、彼なりの思惑が――――。
駄目だ。思考がまともに働かない。答えがまるで出てこない。致し方ない。――やはり、
「――息の根止めるか」
平然と言い、片足を引きずりながら遠野は前へと進んだ。視界の奥で、立ち上がろうとする蒼衣の許を目指す。ただ、殺すために、だ。
一歩。また一歩と、その距離を縮めていく。が、しかし。もう十メートルも無いというところで、不意に二人の間に立つ者が現れた。
その者は音も無く動き、ただ間に入って両者を制止させた。
闇色の豊かに伸ばした長髪が風になびく。身に着けるは侍女の正装。流麗なる面貌に映えるのは、銀色の瞳。――そう、彼女は、
「……麻亜奈。貴様―――」
何故ここにいる、と誰かが問うた。黒の女は首をゆっくり横に振ると、静かに、
「龍也様。もうお止めになって下さい。こんな不毛、もはや意味などなしていない事、貴方様ならば早々に分かっていたでしょう。今ならばまだ間に合います。故に、どうか……!
立ち止まって頂く訳にはいきませんでしょうか、――龍也様!」
背ばかり見える遠野には櫛真の表情までは分からない。だが、声はどこか悲痛さを滲ませ、自責の念を帯びていた。彼女の言葉は、そのまま、自分自身に向けて発しているようにも聞こえたのだ。
何故かは分からない。だが、少なくとも、
「……俺は、蚊帳の外か」
不要を感じた彼は、静かに息を潜めて、体力の回復に努め始めた。神力はまだ持続してはいるものの、限界はとうに超えていた。――ここで終わるのならそれも一興だった。
*
*
予期していなかった者の登場に、彼は幾ばくか動揺を得ていた。
何故、という思いが頭の中を反芻する。
ことが近付くごとに彼女は躊躇いを見せ出し、とうとう自分の無理強いに嫌気が差したのだと思った。だから彼女の枷を解いた。
自分は苦心して、目の前の女性が被害者的立ち位置になるよう計画を練り直した。しかし、彼女は事もあろうか蒼衣家の侍女服を着たまま、のうのうと戦場に出てきた。自分の目の前に、だ。
胸の中に、しこりのようになって苛立ちが募る。これでは何のためにやってきたのか分からないではないか、と。無意識のうちに拳に力が入った。
両腕の筋肉が力みに軋んで痛みを訴える。だが気にせず、彼は彼女の瞳を真っ直ぐ見据えてやった。さも不機嫌なように、低い声で言い放つ。
「不毛だと? どこがだ? 計画は順調に進んでいる。もうあと少しすれば、神州からは邪魔者が消え、オレの意志の許、世界は導かれていくのだぞ?」
「それが間違いだと言っているのです! どうか思いとどまって下さい。貴方様がいなくなったら、私めは一体どこに行けばいいのですか!? ――あの時から、あの時龍也様が手を差し伸べて下さった時から、私めの居場所は貴方様の膝元だけなんです……!!」
蒼衣は初めて、櫛真が声を荒げるところを見た。
叫びや激昂するなどではない、ただ縋るような声で、必死に切願をしてくる。淡々として寡黙な彼女からは想像もできないほど、取り乱している事が蒼衣には痛いほどよく分かった。
だが、それも志の前では霞んでしまう。
元より順番、道理からして、目の前に立つ少女よりも、幼い日道に迷った自分を助けてくれた女性への謝恩の方が先に立つのだ。櫛真との主従関係も、蒼衣にとってはその女性あってこそのものだった。
故に、彼は告げた。目の前の少女よりも、ただの意地と意義に固執してきたからこそ、
「……それがどうしたというのだ。主従の誓いも居場所も、元を質せばただの金銭のやり取りにしかすぎぬ! そんなもの、ただの上辺だけの関係でしかないっ!!」
黒髪の少女は震えたように目を見開け、次に項垂れて唇を噛んだ。
だが、彼女は訴える事を諦めてはいない。では、と櫛真は前置きを入れて、ある言葉を口にした。
「――では、貴方様にとっては、私めとあの女とでは、初めから釣り合いなどとれないというのですか。――たかだか一度。それも暗がりの中、顔すらよく見えずに数時間を共にしただけの、卑しい女の方が! 貴方様にとっては大事なのですか!?」
「なん、だと……!?」
きっ、と彼女が顔を上げた。目元がわずかに赤らんではいるが、表情に臆する気配などは微塵も無い。懇願し続けてくる視線が、胸の中のしこりを一層大きくさせた。
彼は眉根を寄せた。胸中の違和感が拭えずにいるものの、彼は眼前の少女に対し一歩詰め寄った。どうしても、その言葉だけは許せなかったのだ。それは自分の全てを否定する言葉だったから。
だが、その時だった。 不意に、血の昇った頭に一筋ばかりの訝りが生まれた。
疑問だった。オレは、ただの一度さえ、あの森での出来事を誰かに口にした事はなかった筈だ。無論この少女にもだ、と。
「貴様……」
何故知っている、とそう言いかけて、しかし蒼衣は、胸のしこりがまた大きくなるのを感じた。
訝りが。疑念が。疑問が。――降り積もっていく。
不可解が、増していった。
少女とは北欧のある村、別荘で偶然出会った。早朝、独り身になったから雇ってくれと玄関を叩いてきたのが始まりだ。自分はこれを了承し、一緒に〝お願い〟を叶えないかと誘った。すると彼女は嬉しそうに頷いた。――だが、何かおかしい。
どうして、彼女は独り身になってすぐ、蒼衣の別荘に駆け込んだのだ?
ヤツは、家が貧しく親戚もいなかったからと答えた。事実、彼女は世情に疎く教養もまるでなかった。だが彼女は平然と、日本語しか話さない自分と会話をしていた。北欧の地方村で生まれ育った筈の少女が、だ。問うた事は無かいが、ずっと疑問には思っていた。
不可解はまだあった。彼女は、研究者である自分の補佐だというのに、頑なに身体検査を拒んでいた。結局、自分は彼女の情報を魔力波動の上でしか知らない。その魔力波の波動測量すらも、ごくたまに、限った時期にしか検査を受け付けようとしない。
これをずっと自分は、不調だと知られたくないやせ我慢だと考えていた。
しかし、もしもそれが、検査をすれば分かる、過労や不調以外の事を知られるのを恐れたのだとしたら? ずっと人狼だと申告してきた彼女の嘘が、ばれてしまうのだとしたら?
他にも訝りや疑念はいくらでもある。だが、彼は一度としてそれを問い質した事は無かった。構う必要も無い他愛事だと思ってきたが、たぶん違う。きっと、自分は、
……恐れていたのか? オレが? 慈悲で拾ってやった女子一人に?
いいや、と彼は目を閉じて内心で頭を振った。再度、櫛真の銀眼を捉えて彼は問うた。
「麻亜奈、――貴様、何を隠している!?」
彼女と出会って初めて、蒼衣は櫛真を問い質した。
直後、蒼衣は錯覚を見たような気がした。少女の顔に喜色が現れたように見えたのだ。かすかに、頬が綻びかけたように、見えた。
彼の問いかけに、櫛真はまず深呼吸をした。大きく胸を広げるように吸って、吐いて、
「……申し訳御座いませんでした」
聞こえるか否かというほどの小さな囁きだった。
少しすると、櫛真の侍女服のスカート、その裾が、内側から小さくなびき始めた。身体から溢れることで生まれる魔力の微風。獣化の際にはこれが大規模となって目隠しの濃霧となり、無防備を隠す役割を果たす。が、今の櫛真が起こすそれは余りにも微弱だった。獣化する訳ではないようだ。
眉をひそめた蒼衣は、しかし次の瞬間目を見開けた。ヒトの姿が、変化していく事に気が付いたからだ。――あり得ん! と彼は内心で叫んだ。
櫛真の姿が、ヒトのまま変わっていく。
背ははやや伸びて、胸の膨らみなども相応に。背中の半ばを少し越す程度だった長髪は、今や腰にまで届いている。目鼻立ちも更にくっきりし、淡麗でしかし魅惑的なものになった。
一息の後、そこには、妙齢の美女となった櫛真・麻亜奈がいた。
蒼衣は息を詰めた。見間違う事などあり得ない。脳裏には幼い日の記憶が克明に蘇っている。彼はそれを心のどこかで否定するが、今眼前に立つ少女と、頭の中にいる彼女はまるで―――、
「……ッ!」
吐き捨てるように舌打ちし、彼は片手で自分の顔を無造作に押さえた。
酷似などではない。そんなレベルの話ではなかった。何もかもが、全て、同じだった。
「獣化可能種といえども、ヒト型、ましてや獣化した状態でも、容姿を変える事だけは不可能だ。――しかし、唯一それが行える存在がある」
そう、それは、
「不定形な実体を持ち、ヒトとしての姿を持たない、変革後に人権を獲得した種。ヒトが狼と化す人狼などではない。精霊が、ヒトに化けた存在。麻亜奈、貴様―――」
蒼衣は叫ぶ。
「――精霊か……!?」
そこで初めて、彼はある答えへと辿り着いた。
初めて出会った時、彼は彼女に名前を聞いた。彼女はたどたどしくも自ら名前を答えた。それを適当に自分は解釈した。が、あの時、この少女が答えた通りの韻で、多少の言い間違いを考慮すれば――それは、こう言えるのではないのか?
「クー・シー、……マーナ。――月の、犬精……」
苦悶に満ちた呟きに、流麗なる女はゆっくりと頷いた。もはや嘘偽りなど持たないというように、表情はひどく澄んでいた。彼女は謝罪の言葉を口にした。少し大人びた声で、
「これまで申さずに虚言を吐き続けてきた事、深くお詫び申し上げます。龍也様。私めは、あの時貴方様を助けた淑女、その本人で御座います。信じずとも憤りを感じるのもまた然るべき事ではありますが、どうか、私めの妄言に御身の人生を棒に振らないで下さい」
「……何故、お前は黙っていた?」
彼の少し怒気が籠った声に、しかし櫛真はやや気落ちしたように答えた。
「怖かったのです……。嘘をついた事、願いはもういいという言葉。それらを打ち明けた時に貴方様が、私めを追放するのではないかという怖さが。そして、自己を憂いてばかりで龍也様の苦悩を考えずにいた私めが、怖かったんです」
「……貴様を追放だと? オレが、本気でするとでも思っておったのか?」
だから怖かったのです、と櫛真は首を振って言った。
「おそれながら、貴方様は私めを赦して下さると確信しておりました。だからこそ、願いを成就させる事のみに苦心なされてきた龍也様が、その願い自体を失った後の事を思うと、私めは告白する事ができずに、――今まで悩み続けてきたのです」
ふ、と彼は細く短く吐息した。そして、棘の少なくなった穏やかな声で、こう告げた。
「麻亜奈よ。貴様は従者だろうに。僕を養い僕を使うのが主人の務め。僕はただ主人の命に従うのみ。貴様の悩みは、埒外を向いているという事に、何故気付かなかったのだ?」
「私めは従者である前に、――あの時、貴方を気紛れで助けた醜いただの精霊なのです!」
彼の諭しに、彼女はとうとう声を荒げ、言葉を連ねた。それは、彼女の生涯そのものだった。
「――深く外界からも閉ざされた森の中でいつの間にか生まれ、ただ与えられた〝外敵たるヒトを食え〟という使命に駆られて、私は昼夜問わずヒトを食い漁った。――毎日、毎日毎日毎日、延々と同じ行為同じ光景を続けたんです。そのうち、私は私が何であるかが分からなくなっていった!
気色悪い血糊を全身に浴びる事に摩耗していった私は、ある日馬鹿な事をしでかしてしまった!」
そう、それは、
「――森の中で迷った子どもを、愚かにも助けてしまった……!!」
ほんの息抜き程度だと思っていたのに、と櫛真は涙を押し殺すように、そして心から悔いるようにそう言った。
「興味本位で訊いたヒトの世界は、とても広く温かく感じられて、私はその子どもに興味を抱いてしまった。でも、それではいけないと気付いて、怖くなって、私は子どもを森を出る前に突き放した。そうしたら、」
「そうしたら、――ガキは一緒に帰ろうと泣き喚いた、か?」
彼の沈んだ声に、櫛真は罪悪感に満ちた顔で頷いた。
「その時の私には、もう耐えられなかった。森は、外敵でもない子どもを食えと絶えず私をそそのかし、子どもは〝一緒に〟と懇願してくる。血迷った私は、訳も分からず対価をと言ってしまった」
アレか、と蒼衣が自嘲した。櫛真はもはや頷きを返しはしない。が、
「――子どもを無事村へ送り届けると、彼は言いました。……願いは、何かと」
「女は答えたな、苦笑まじりに。自分の世界が広くなってほしい、と」
今度は櫛真の方が自嘲した。ごくわずかだが、口元を歪めた。目は悔恨に染めて、
「子どもは首を傾げました。でもすぐ柔らかな笑みを浮かべて、絶対叶えると言って、温かな灯りの点いた村へと駆けていきました。最後まで、私に手を振って……」
「だがその時子どもは、何気なく叫んだ筈だ。また会おう。自分はこの村の別荘に住んでいるから。だから、良ければ来てほしい、と」
しかし、来たのは、
「彼女と同じ美しい黒髪を持った、オレと同い年くらいの少女一人。本当に来てほしかった女性は来ず仕舞いで、オレは少し落胆した。――故に励みにと、隣にただ寄り添い続ける、雇った従者を、あの時の女のように思いながら、な」
いいえ、と美女は蒼衣の言葉を否定した。私は行きました、と彼女は言った。
「子どもを食わなかっただけで森を追い出され、行き場を失くした私は、変化や憑依をするでもなく、ただ適当な人の姿をとって、彼の別荘を探しさまよいました。その結果、一人の少年に従者として雇って頂きました。共に、〝世界を望んでくれないか〟と言われて―――」
嬉しかったです、と彼女はそう口にした。本当に嬉しかったです、と。
「狭く息苦しいあの森から、貴方様は見事、一両日にも満たない間に私めを広大な世界に導いて下さった。広く深い、貴方様の膝元に」
「高々そんな事で、貴様は満足したと言うのか? お前の世界は、たったそれだけで広くなったのか? ――オレが、ただ手を差し伸べただけで、お前は……!」
「――はい」
櫛真の迷いのない明言に、蒼衣の顔がやや俯いた。歯軋りする音が聞こえるのではというほど、彼の身体は震えていた。だが、櫛真が動いた。おもむろに彼の許へと歩み寄った。
そして、彼女が彼の目の前に立つ頃には、彼女の姿は、皆の知る元の櫛真・麻亜奈のものとなっていた。――彼女は意外にも、ひどく柔らかい口調で、彼にこう言い聞かせた。
「坊や。本当にごめんなさい。私には君しかいなかったの。嫌われるのが嫌で、ばれるのが怖くて、私はずっと嘘をついてしまった。君の傍にいられるのなら、このままでいいのかも知れないと、そう思いながら。――でも」
でも、
「――私の愚かな願いを、君は本当に叶えようと必死に努力して、でも自分では出来ない事を悟って挫折し、君はそれが出来る人を探した。間違っていたのね、私も、君も。――最初から最後の最後までずっと。他人を、頼りにしてしまっていたんだから」
彼女は苦笑して、俯く彼を優しく抱擁した。目尻から涙を数本落とし、
「……死なないで下さい。私めを、独りにしないで下さい。もう、独りで月を眺める夜を過ごすのは嫌なんです。――だから、お願いです。死なないで、下さい……!」
少女はすすり泣くように哀願した。――ややあってから、まず聞こえたのは小さな失笑だった。
「ハハ、――よもやお前にまで願いを突き付けられるとは思いもしななんだなあ。それも、死なないでくれとは。――本当に、初めの願いは叶ったのか? オレは、まだ叶えておらぬと思っていたのだが……」
ん、と櫛真が首を縦に振った。そうか、と蒼衣は呟いて、次の言葉を紡いだ。
「良かろう。貴様の願い、この神が叶えてやる。――だが、」
告げようとした寸前、櫛真が目を見開けた。口から苦悶と共に主の名を呼んだ彼女は、ずるずると彼に縋って、しかし地面に力無く倒れた。先程まで彼女の鳩尾があった位置には、蒼衣の拳があった。――涙を湛えたまま彼女は気絶していた。
彼は小声で、眠る彼女に軽く微笑んだ。
「済まぬな麻亜奈。貴様の願いは、オレが初めの願いを成就させるまでお預けだ。なあに、心配する必要は無い。ヤツとの決着が着いた時、オレが立っていれば、お前との願いは必ず果たす。約束しよう。……まぁ、そうでなかった時でもオレを恨むなよ、オレの〝月〟」
何故ならば、
「……世界に平和をもたらしたかったのは、何も、お前のためだけではないのだからな」
小さく鼻で笑った蒼衣は思った。オレもまた、平和を願っていたのだからな、と。
蒼衣は前を見る。ヤツがいた。自分を倒すに相応しいと確信していたヤツが、だ。
「待たせたな、和時よ。どうやらオレは、死ぬにはいかなくなったようだ。だがここで命を乞うほど安い男でもないのでな。済まぬが、最後まで付き合ってもらうぞ」
「いいのか。副会長は、俺に土下座までしてアンタを止めてくれと懇願してきたんだぞ?」
構わぬ、と蒼衣は答えた。残りの魔力半分近くを用いて創った青白く光る台に、櫛真を載せて大広場にまで運ばせる。運び終わると台は脆くも崩れ去り、周りに溶けていった。
視線を、遠野に戻す。操作系の異能で鋳造した土剣を携えて、彼はすでに構えていた。蒼衣も応じるように、全身の激痛を堪えて、月光を集約させた青白い刀を一振り現出させた。
「――どちらが勝っても、もはや何も言う事はあるまい。オレが神州に乱を起こし、お前は乱を鎮めようとしている。これが、我らの仕舞いとしての恰好だ。良かろう?」
「そうだな、と取りあえずは返しておく。神力を得たおかげで、アンタを恨む理由も消えた。ほとほと、闘う理由は無くしているんだが。まあ、ここまで散々やってきたからな。――良いさ」
ぴしゃり、と一瞬にして空気が張り詰めた。乾坤一擲。
両者は刀剣を互いに向けて構えて、次の瞬間には、
「おお……!!」
静寂の中に、互いの猛りと激しい剣の打ち合いによる剣戟だけが響いた。
終幕は降り始める。双方、相手を叩きのめすという一心で、敵の眼光を捉えていた。二人にはすでに周りなど見えてはいない。
塵ほどにも残っていなかった筈の魔力が、彼らの周りに激しい渦となって生じていった。
*
*
鈍い動き、しかし重い一撃でもって両者は打ち合っていた。
一合ごとの間隔は遅い。だが、間に割り込めるような隙などありはしなかった。鬼気迫る勢いは強烈で、一撃一撃が火花を散らして死闘は苛烈を極めていく。
空気は張り詰め、しかし魔力は唸り軋みを挙げる。
剣戟の快音が連なる。もう一合、また一合と。止まる事を知らずに剣を振るい、互いの命を食らいにかかる。
闘う理由など忘れた。
賭ける熱意も想いも忘れた。
全て、どうでもいい。
今は、この目の前にいる〝敵〟を倒す。ただそれだけだ。それだけしかない。今の自分たちの存在意義は、そこにしかない。だから、全身全霊、全力をもって敵を倒しにいく。
業など無い。力など無い。残ったのはこの身のみ。我が身をもって、敵の身を滅ぼすのだ。
叫びを挙げて剣を叩き合わせた。数拍の間鍔迫り合いするがすぐ離れ、再び打ち合いを始める。打ち合いを止める気すら皆無だった。――しかし。
――止めて。と、そうどこからともなく声が聞こえた気がした。
彼は止まらずに、敵の懐へと入り逆袈裟を放った。寸でのところで交わされるが、逆にその身の翻しによる横からの薙ぎを食らいそうになった。
咄嗟に剣を盾代わりにして軌道を変え、彼は凶刃から逃れた。しかし、敵は更に懐に突っ込んでくる。力任せに正面から迎撃しにいくものの、突きの連撃に思わず後退を余儀なくされた。
攻撃を紙一重で回避した彼は、そこから構わず反撃に出た。
そこからはまた剣戟の応酬だった。打たれては打ち返しの連続。息継ぎする間も無い。呼吸すらも意識の外にあった。
――止めて。そんな叫びが、耳に入ってきたような気がする。だが無視した。
今、この戦場にヒトが来る可能性などあり得ない。対策部の別働隊は作戦行動中で、唯一あるとすればカグツチの少女だが、彼女は気絶させて眠らせた。数時間は起きない筈だ。もう、数時間以上経っている。
――止まって! と幾度となく悲鳴が聞こえている。これはどこからなのだろか。いや気にしてはいけない。気にしていては、この目の前にいる〝敵〟に敗けてしまう。
敗けてはいけない。敗ければ、誰かが哀しむ。だから敗ける訳にはいかない。
全身が軋みを告げる中、彼は大上段から土剣を振り下ろした。
が、その時だった。その一撃が相手の刀に防がれようかという瞬間。一際大きな悲鳴が、
「止めて――――――ッ!!」
鼓膜を打ち鳴らした。
一瞬、意識が遠のき土剣を握る手が緩みそうになる。数歩後退し、彼は頭を振った。朦朧とする意識の中で彼はぼんやりと前を見た。――夕日が、天を紅く染めていた。
「……な!?」
一瞬で意識が醒めた。何事だと声を挙げた眼前、そこには見た事もない光景が広がっていた。
遠の彼方まで続く、黄金色に輝く芒の原。そして芒の唯一晴れた草地の小丘に、彼は立っていた。周囲全てを見渡す限り、どこまでもその景色は、広がっている。
金色に光り、そよ風で海原のようにたおやかに揺れる芒の上には、紅と紺に塗れて二分にされた天蓋。紅く焼けた夕日と、蒼く光り輝く満月とが悠然と浮かんでいた。
「……天を照らす夕日、天を食らう満月。されど、何者にも侵されぬ金色の海原。三の頂きは常に拮抗し荘厳、貴く清らかなり。――三貴神の、世界?」
呆然と彼は呟いた。
が、ふと彼は、背後に気配を感じた。異質な空気に、ぞわりと背筋が震えた。
誰だ、と語気を強めた口調で振り返った視線の先、――たった一人の、少女が佇んでいた。
小さな、矮躯の少女が、だ。
空か、と安堵しかける寸前、少女の異変に気が付いた彼は、顔を強張らせ、息を詰めた。
焔の如き紅蓮の長髪。――澄んだ海を思わせる清廉な碧眼。
容貌は見紛う事なき蒼衣・空だった。しかし、眼光は光を失って、吊るされたように佇んでいる少女は、何故か、その髪と瞳の色が完全に逆転していた。
遠野は動揺を隠せなかった。上手く動かない足を引きずって少女の許へ駆け寄る。
やはり空だ。目は虚ろ。気絶した状態だが、空は立ったまま呆けている。
訳の分からない展開と状況だったが、空の間抜けな姿に、遠野は思わず嘆息した。眼下、手中を見ると、集中が切れたせいか土剣は霧散していた。
全くと、そう思いつつ、しかし彼ははたと思い出した。自分は先まで闘っていたんだ、と。
辺りを見回す。すぐ奴は見付かった。少し離れた草地。力無く呆然と周囲を眺める蒼衣の姿があった。
戦意は感じられず、刀も消えている。さしもの竜王も、この異変には驚愕を隠せない様子だった。すると、彼は。ほんのわずか口を動かして、何かを呟くのが遠野にも見えた。
「……どこまでも続く芒の原。もしやここは―――――」
と何を言い切る前に、がくりと彼は膝を折った。
堪える動作もとれずに彼は跪き、そしてそのまま倒れ伏していった。
「……会長!」
こんな状況で倒れられては困ると、遠野は急いで彼の許へと走ろうとした。
と、傍で棒立ちになっていた空も兄に倣うように、糸が切れて前のめりに沈んでいった。――舌打ちして、遠野は踏ん張って空を抱き留めにいった。
「……っ」
とうに身体に力など残っていない。矮躯を支えただけで全身が軋んで筋肉は悲鳴を挙げていた。自分も薄れそうな意識の中で、声にもならない苦悶が喉から漏れた。
堪え切れない。遠野はそのまま空と一緒に崩れた。
数秒ほど意識が飛んだ。が、全身から来た鋭い痛みにふと我に返った。周りを見る。一瞬の間に、周囲が芒の原から元の学園のグラウンドに戻っていたのだ。空の変貌も、いつの間にか戻っている。
「――どういう事だ、これは?」
彼は眉をひそめて呟いた。
疑問が口を突いて次から次へと出てきそうになるが、答えなど出ないと諦めて、遠野は取りあえず辺りをもう一度確認した。
酷い有様だった。
グラウンドの至る場所は抉れて掘り起こされている。侵士の襲撃による修復すらまだだったため、グラウンドは、もはやグラウンドと呼べる代物ではなくなっていた。
まさに一面焦土の海だった。
その上、その中心地には、神州の最強である筈の竜王がボロボロの姿で気を失い、広場には側近の櫛真が寝かされている。唯一意識があるのが、一週間前まで無能者だった遠野だけ。その遠野もまた、眠る空を抱えるのが精一杯という有様だ。――全く、
「……起きてるのが俺だけってのは、意味深だな。まあ運が良かったと、そう思うか……」
しかし、
「この三人、全員病院に連れていく必要があるな。さてどう言い訳したものか……。事態が事態なだけに、竜王の権威を失墜させるような言動はできない。この国にアンタはまだ必要なんだ、会長。――天を照らす女神が、未だ神州には現れていないのだから」
それまでの黎明を守り通すのが、月神たるアンタの使命だ。
遠野はそう思い、次に視線を下に落とした。すうすう、と小さな寝息を立てている蒼髪を持った童顔が覗ける。
世界が黄金色に変貌した時、この少女も同時に、紅く、豹変していた。
……もしかして。
と、彼の中に一つの可能性が、予感が芽生えた。おそらく、蒼衣も同じ答えに至っていたのだろう。倒れる寸前に言いかけた言葉。――もしかすれば、あの世界は、
「あれは、高天原……?」
あの時の少女の髪色は、紅く燃えた、天を焦がす夕日に見紛うほどそっくりだった。
否、まるでではなく、夕日そのもの。
……空、お前は一体なんなんだ?




