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『第八章:舞台上の強行』

      *

「――グガッ!?」

「フンっ、……任務は完了した。撤退するぞ、青二才が……!」

 星が煌めく夜天の下、白亜の学び舎へ一直線に続く四車線の道がある。

 標識や舗装された地面は無残にも砕かれて抉られていた。沿道の施設も幾か所か、叩きつけられたように割れている。

 遠野を殴打した草薙は、夜天を貫く轟音を放つモノを捉えた。堅牢な装甲板を纏う侵士部隊だ。奴らに鋭い双眸を向ける草薙。しかし、相手は臨戦態勢のまま動かない。

 鳩尾を打たれた彼は、狂化状態も解けてアスファルトに倒れ込んでいる。草薙は殺気を消して、遠野を肩に担いだ。囮作戦を用いた情報収集の作戦は失敗したものの、

「っ、……一機だけは半壊させたか。独りでやったにしては上出来だろうよ」

 舌打ち一つ。吐き捨てるように言った赤鬼は再度、林立する侵士を一瞥してから腰を落とした。

 膝の屈伸に全身の膂力を集中させて、次の瞬間、鬼は学園とは反対方向に大跳躍した。

 その飛距離百メートル弱。大砲の如き豪速で鬼は跳んだ。背後は確認しない。すでに侵士らに設定された防衛線――学園の領域から約二百メートル――は越えている。追撃はないだろう。

 放物線を描いた後、路上に大きなクレーターを作って着地する。

 そして、草薙は重戦車みたく走り出した。

 部員らとの合流場所は、近くの住宅街である小丘。そこにある公園だ。

 道中、建物が多いため道に迷いかけた。が、草薙は壁を突き破って行く事にした。どうせ近隣の大半は機構の息が掛かったものだ。問題はあるがどうとでもできる。そう割り切ってから、三十分が経過した。

 目的地に到着した。

 鉄の遊具が閑散として佇む公園。暗いため分かりづらかったが、ヒト型が三つ見えた。その者らに近付いていくと、身長の高い人がこちらに気付いた。

「――お、戻ってきよった。で、どないやった? 部長はんの戦果は? 独りで行けるっちゅうて豪語しよったけど。やっぱ負けたんやろ」

「菅原先輩! 言い方がありますって。遠野君大した戦果上げてなくても、やっと手に入れた異能使って頑張って目立とうとしたんですから!」

「う~、和時くぅん。だいじょーぶぅ?」

「ッけ。お前らちっとは心配気ってものを見せて見ろ。侵士七機によく水色の異能だけでよくやる。――別働隊のは俺様が潰した。向こうに残った侵士は多くて十二だ。再度挑戦するとしても、作戦を考える必要がある」

 肩に遠野を載せたまま口を開いた草薙は、しかし適当なベンチを見繕って重い荷物を投げ捨てた。

 岩戸が軽い悲鳴を挙げたが無視。寝ぼけたように身体がぷらぷらとしている空は、わぁーと慌てていた。流石に、一日に二度も獣化して人を運べば当然か、と鬼は内心で思う。

 関西から出雲。侵士の別働隊から逃げるためのとで二回、空は獣化して皆を載せて飛んだ。単独ならともかく、モノを幾つも背に載せて飛行するのは魔力の消費が著しい。急激な魔力の消耗に、頭が上手く働いていないのだろう。帰国までは随分と落ち込んでいたのだが。

「――んで、岩戸ちゃん。取りあえず分かった事を纏めてくれるか?」

 遠野を置いたまま輪を作った皆。菅原の言葉に、岩戸は一瞬だけ遠野に視線をずらすが、

「え、あ、はい。――端的に言いますと、学園は侵士隊と元からの設備が相まって、要塞化しています。約十機の侵士が情事学園周囲を巡回。防音や遮光の結界が三重になって周辺一帯を覆い込んでいます。籠城の構え、と見えます。低く見積もっても攻略には中隊、大隊規模が必要かと」

 岩戸の説明に、神妙な面持ちで菅原と草薙は頷いた。空は未だ足がおぼつかない。が、ややあってから、

「――俺が寝てる間に何喋ってたんだ? ……? 空、お前また獣化したのか……」

 遠野がいつの間にか目を覚ましていた。遠野君、と岩戸は安堵の息を漏らし、空は小さく微笑んだ。

 上体を起こしてベンチから立ち上がった彼は周囲を見回す。公園、戻ったのか、と呟いた。

「部長はんが暴れとる間に分が悪くなりよったさかい。しょーないんで撤退したんや」

「何か分かるかもでやった特攻ですけど収穫は少なかったです。侵士一機倒しただけですし」

「……わぁー、和時君だぁ」

「空、お前はあっちの砂場で遊んでろ。重症だなコレは。――それで、これか?」

 目線を落とした遠野は腹部を片手で擦る。やわだな、と赤鬼は察したようにぼやいた。

 遠野も輪に加わった。彼はまず腕組みし、次に口元に手を宛がった。嘆息するように、

「全く。何がどうなってる。侵士襲撃の調査隊として派遣させられたはいいが、実際に所有していたのはその命令を下した会長本人。神州にとんぼ返りしてみれば、学園にはすでに侵士が跋扈。……犯人と捕縛せよと命じたのはアンタじゃなかったのか……」

「そやなあ。会長はアレで結構イイヤツやからのう。波坂ちゃんは苦手みたいやったけど、そっちの方がやっぱ正解やったんかのー。四国の大精霊が暴走して起きた伊予二名の騒乱を、一人で鎮めた兵やし、野望かなんかがあったのかも知れへんな」

 はあ、と肩を竦めた菅原は、しようない、と言葉を繋いで、

「部長はん。これからどないすんや? 手始めに、そこにおる下手人の妹君でも尋問させるか? 叩けばホコリくらい出るやろ。何しろ、カグツチやさかいの」

「断る。第一アイツには飛行機の中で散々聞いた。少なくともアイツは何も知らない。知っているとすれば仕事上の付き合いが多かった補佐の副会長や、研究所のヤツらだろう。

 ――これから、全国にある研究施設に連絡を取るつもりだ。情報を掻き集める。明日あたりに再度特攻を仕掛けて実地の情報も得る。それと、」

 それと、

「岩戸、お前は、いなくなった全生徒と職員たちの消息を続けて追ってくれ。さっきの会話からすると、学園の中まで侵入できずに何も得られず仕舞いだったんだろう?」

「はい、でも遠目では視認しました。表層部に人影らしきものはなかったので、もしいるとしても地下階層だと思います。収容人数を鑑みればぎりぎりでいけるかと」

 そうか、と返した遠野は、しかし近くをうろうろしている空を見付けだして、他の皆に、

「ひとまず俺の自宅に行っておいてくれ。岩戸、場所分かるだろ? ――俺は少しあの馬鹿と話さないといけない事がある。それと書記、言っておくが、カグツチの罪はすでに波坂が注いだ。イザナミの波坂が、だ。分かるな?」

 めでたいことやな、と菅原は肩を竦めて苦笑した。

      *

      *

「――おい、空」

 彼の呼び声を耳にして、空は上手く働かない頭ながらに振り返る事を選んだ。彼が見えた。

「なに?」

「他のヤツらは自宅に行かせた。少し、話したい事がある。――お前は、どうしようと思っているんだ? 問うのか、それとも逃げるのか?」

「――――」

 彼の問いかけに、空は何となく口を噤んでしまった。彼は言う。

「曲がりなりにも俺は部長だ。少なくとも、戦意の無い部員を前線に上げる訳にはいかない。今のうちにお前の心根を知りたい。――言え」

 真面目な、しかし棘のある言い方に空は内心で失笑した。

 こんなどうしようもないわたしに何でここまでしてくれるのかな、と空は思う。彼が優しいヒトだからだ。だから、昨日からずっと考えてきた事を少女は口にした。

「――大丈夫だよ、わたしは。何が起こってるのかはよく分からないけど、お兄ちゃんと麻亜奈さんが悪い事しようとしてるとは思えないんだ。だから、聞いてみようと思ってる。それでダメだったら、止めるために頑張るつもりだよ……?」

 でも、と空は繋ぐ。ひどく悔いる口調で、

「――でも、ほんとは逃げたいんだと思う。耳も目も塞いで逃げたい。わたしはほんとにダメな子なんだね。せっかくカグツチの自分が受け入れてたのに、伊沙紀ちゃんが殺されかけて、お兄ちゃんと麻亜奈さんがその犯人だったっていうのを、わたしは理解しようとしてない」

 そうか、とだけ返事があった。静かで、慰める訳でも鼓舞する訳でもない声。ただ聞き届けたと首肯するだけの返答だった。

 ごめんね、と心内に詫びを込めて空は項垂れた。

 己の小さな体躯が見えた。本当に小さい。小学生かというほどの成長ぶりだ。何故か中学に入る前に身長は伸びを止めた。虚弱で身体も強い訳じゃない。だから、空は思い詰めていた。

 わたしさえ風邪を引いてなかったら、伊沙紀ちゃんはああはならなかったのに、と。

 体調不良など起こしていなければ、絶対にあの時侵士は倒せた。あの風邪は、蒼衣と櫛真が家を空けたので夜更かしをしていたせいだ。あれさえしなければ、と何度思い返した事だろうか。神役を得て神になったとはいえ、守りたいものを守れるとは限らない。

 ……わたしが、風邪さえひいてなければ―――。

 襲撃の日からずっと納得できずにいた、自責の言葉だった。

      *

      *

 液晶の発光が薄暗い室内を照らす中、蒼衣はコンピュータを片手で操作していた。

「――ほお。侵士一機は大破、もう一機も使用不可にまで追い込んだか。他の機体にもそれなりに損傷を与えたようだな。――ハハ、良いぞ。良い抵抗ぶりだ」

 喉を鳴らして蒼衣は笑った。

 手際よく侵士たちに対策部の対処法を送信しつつ、しかし彼は言い放つ。後ろに黙って控えている、黒基調の侍女服を着た彼女に。

「麻亜奈よ。ヤツらはオレたちの思い通りに動いておるぞ。この様子ならば、明日の暮れ頃にでも再戦して来るだろう。――愉しみよの。良ければ想像以上のモノを目にしたいものだ」

「想像以上であっては困ります。この作戦のために、長大な時間と労力を費やしたのです。失敗も、期待以上であっても計画が狂う事になります。龍也様の長年の計画が……」

「ハハハ。失敗は気に食わんが、想像以上を望んで何が悪い。目の前に全員が現れれば全員を叩くだけ。そうすれば手っ取り早くこの国はオレの物だ。良いではないか?」

「――分かりました。ならば、私めはこれまで通り、龍也様の思うがままに動きましょう」

 櫛真の言葉を、蒼衣は鼻で笑った。コンピュータに最後のキーを入力してから、彼は背後の彼女へ向き直った。距離は二メートル。櫛真は静かに、じっと立っていた。

「不服か? 今さら何を迷っている。この計画、否、この願いは、貴様と出会ったあの日よりすでに分かっていた事であろう。その結末がどうなろうと、気に留める必要は無い」

「――――」

「ふん。迷うのは構わぬが、空のヤツのように風邪など引かれてもらっては困るぞ」

 私めは……、と櫛真は言いよどんだ。が、彼には届かなかった。蒼衣は逡巡して、

「――そうだな。麻亜奈よ。この作戦がオレの期待通りに進んだ時、オレとお前は近い位置にはいるまい。丁度、お前の名には櫛の文字がある。クシナダでも襲名するがよい」

 彼の告げた言葉の意味に、彼女は軽く目を見開いた。

 何かを言おうと口を開けるが、悩んだ末、黙って閉じた。無意識のうちに拳に力が入る。堪えるように櫛真は目を伏せていた。彼女の俯きを蒼衣は了承と受け取って、しかしほんの少し吐息を漏らした。

 一瞬だけ、表情に陰りが入る。彼は再度外部モニターに振り返った。夜天が映っている。

 黒に近い紺の背景に丸い月。星を捉えられないカメラでは、もう満月を迎えようかという月だけを映しだしており、時たま幾筋かの雲が途切れ途切れに映り込むだけ。明日の宵になれば月は満ちて、魔に属する異属の力は増大する。月神たる蒼衣が、最も快調となる環境だ。

「……九年。長かった。オレにはもはやこの道しか残されておらぬ。無論計画に失敗などあり得ぬ。たとえ望み通りの結果が得られずとも、結果的に、世界は広さを得る筈だ」

 決意の色に満ちた声。無論、聴覚に優れる狼属の櫛真に聞こえない筈が無い。なおかつ、背後の櫛真の機微な動きも、異属である蒼衣にも十分認識できた。櫛真は、やはり何かに耐えるようにじっと制止していた。葛藤するように俯き、下唇を噛んでいる。

 蒼衣には分かっている。彼女が本当は自分を止めようとしたがっているのを。だがそれはできない相談だった。いや、分かっているからこそ彼女も止められないのだろう。

 他でもないこの計画が、彼の理想であり信念であり、果たしたい願望だったのだ。そして、その願いを成就させようと幼い頃に約束を交わし、共にここまる至ったのが彼女。

 彼女は迷っている。愚かな行動に出た自分を本当に止めるべきかどうかを。だが、自分がそれを否定すればどうなるかくらい、分からない櫛真ではない。

 この謀反。最悪の場合討たれるだろう。投降すれば櫛真ならまだ居場所をくれるかも知れないが、おそらく自分は無理だろう。はなから止まる気など彼にはなかったが――――。

      *

      *

 どうしてそこまで願うのですか、と彼女は心底そう思った。

 話してくれた事はないが、言われなくても分かる。彼の深淵には〝誰か〟がいる。

 私めではその者に勝てない、と櫛真の心持ちは一層落ち込んでいた。

 今、自分は迷っている。勝てないから迷っているのだ。彼の者への亡念を崩れさせ、自分が勝って彼を止めるために、自分は自分で自分の罪を注がなければならないのだろうか、と。

 項垂れていた櫛真は目線を上げた。先程までモニターに向かっていた彼が、再びこちらに振り返っていた。この九年で何度も見た笑顔だった。目を細めた哀しげな微笑み。

 それを認めた途端、櫛真は心の中で後退った。……また、迷ってしまった。

 彼女は自問する。何故自分はこんなにも迷ってしまうのだろう、と。

 するとおもむろに、彼がこちらに歩みを寄せてきた。二歩の間を開けて、蒼衣が眼前に立った。

 麻亜奈よ、と静かな呼び声が聞こえた。背中がぞくりと震える。次に来る恐怖を悟った。

 彼は無表情にこう告げた。半生を共にした彼女に対して。

「――お前は解雇だ。ヤツを導き終えた時、どこにでも行くがいい。貴様ほどの実力ならば引く手あまただろう。どうとでもなる。――よいか麻亜奈。命令だ」

 彼女は俯いた。艶やかな闇色の髪が、頭の動きにつられて揺れる。

 ゆっくりと、櫛真は息を吸った。肺から呼気を出す。――そして、彼女は応えた。気を精一杯張り詰めた声で、

「――了承しました、龍也様。我が神名はマカミ。豊穣の狼として、隆盛をこの世に」

      *

      *

 西暦二〇十五年。人類は、諸元の神々により変革を被らん。神々は、人類に世界の均衡を保つ神の役目を譲渡し消滅。これを神代暦の始まりとす。人類、困惑を得て、しかし馴染む。

 神代暦十年、西暦二〇二五年。世界環境は局地的回復と衰退を受け、世界情勢は国家組織が二〇を下回る。時の世界の先導、大八島諸島旧日本国及び神州神話機構に乱があり。全部長とその側近によるもの。総本部の人員全てが行方を眩ます奇怪も起こる。この乱れに、組織内の有力襲名者、五名が立ち上がらん。アツタ、オオイカヅチ、ウズメ、カグツチ、スサノオであり、聖書共同体開発の機動兵士視察の帰りであったと云う。

 総本部周囲には機動兵士が巡回、一帯は無人。情報不足を憂い、スサノオらは神州各地に点在する神役研究所に連絡を取り、首謀者の動向を探る。しかして情報を得られず。事態の悪化を危惧、スサノオらは帰国後二日目にして二度目の奇襲を謀り、これを実行せり。

 神代暦十年、五月十三日。満月の宵にしてその月光は青白く輝き、大地を照らしたと云う。

      *

      *

 どの研究所に情報を求めても〝我々は知らない〟の一点張りだった。

 明らかに何か知っているふうな解答だが、生憎自分たちには時間が無かった。運良く手に入れた情報も、蒼衣と櫛真は学園にいる事は確かという事だけで、行方知れずの生徒職員らについては分からず仕舞い。

 侃々諤々の議論の末、結論として出たのは、再度の強行突撃。それだけだった。

 救援も助勢も期待できぬ今、目的の判明しない反乱者を捨て置く訳にはいかず、生徒たちの生死、行方も気になる。次の手を打たれる前に討つ。それが対策部の結論だった。

「――もう、これしかないのか……」

 そう呟く遠野は、敢然と道路に立っていた。

 視線の向こうには、青白い月光を照り返す白亜の学び舎がある。

 学園に繋がる四車線道路に、彼らはいた。周囲の建物も、道路も、ゴーストタウンのような静寂さ。

 昨晩と全く同じ光景だった。遠野は振り返り、皆を見渡した。各々覚悟を決めた顔を向けてくる。

 ふ、と彼は小さい吐息を一つ。わずかに目を伏せた。が、

「用意はいいか? 皆。第一波が草薙と書記。第二波が俺と空。岩戸は第一波の後方支援だ。単純だが、腹案の策が無い分だけやり易いだろう。――全力で全霊で、俺たちの城を落とすぞ。まずは学園への潜入だ。存分に暴れて道を開いてくれ」

 自分たちの状況を、彼は簡潔に告げた。それは、

「――たとえ道が無くとも、我々は進まなければならない」

 その言葉に、応じが一つだけあった。それは、まず見下したように鼻の鳴らしからだった。

「ふッ、――青二才に分際で気取りやがって」

 筋骨隆々の赤肌。制服を羽織り腹に晒を巻いた、拳大の数珠を肩に掛ける有角鬼は、遠野よりも前へ行き、仁王立ちになった。

 ややあってから、鼓膜が震えるほどの大声量で鬼神は叫んだ。

「神州神話機構、新東合学園所属、襲名神がアツタ! 神州の一番手、そしてスサノオの最強の剣として、この鬼神、草薙剣三郎が――――」

 草薙が両手を地に着けて腰を屈める。全身の膂力を下半身に溜め込んで、一気に、

「――邪龍(オロチ)退治、推して参る!!」

 道路を轟駆した。初速から全力だった。

 道路を穿って地を蹴り、速度は更に上がっていく。まさに爆走だ。

 草薙は重戦車となって突貫。背後にはいつの間にか、余裕綽々の顔をした菅原が追走している。眼鏡の奥の細目からは感情が読み取れないものの、口元はにんまりと笑っていた。

 草薙は無言で走る。ただフツーに走っていく。

 自分にとっては走行だ。他から見れば、蹂躙や破砕に見えるらしいが知らん。だからこのまま行く。いつもの小走りを止めた、己本来の型で。大股で宙を飛んで地に着く際には脚部を縮め、地を穿つようにして再跳躍する走り方。決して、蹂躙破砕などではない。が、不意に、

「あはははは! 今日はテンション高めやな剣ちゃん。誰も聞いとらへんのに名乗って、しかも推して参るとかほざいて、ほんま爆笑もんやで!」

 ゲラゲラと走りながら大笑いする菅原。ピキリと青筋を立てた鬼が、

「アアン!? テメエちょっと前走れッ。普通に走るついでに俺様の蹂躙で破砕してやる!!」

「アホな事言うなや! 剣ちゃんの蹂躙破砕に巻き込まれたら死んでまうやないかい!」

「誰が蹂躙と破砕だ!? これは平常走行だっ!!」

「自分が言ったんやろが!!」

「あー、アァー。聞こえてません聞こえてませんん。俺様の耳は只今通信故障起こしてますからあァ、留守番も使えません――っ」

「――――」

「…………」

 気まずい空気の中で、草薙は気を取り直して叫んだ。

「……イ、行くぞ菅原ァ!」

「――お、おお!」

 二人は立ち止まりそうになりながらも、己が神の御業を発動させた。

      *

      *

 先行した菅原と草薙との距離が、百メートル以上離れた所で、遠野は二人が動きを見せたのを見とめた。――この国屈指の継承襲名者が起こす、神力の発動だった。

 初動は、魔力の精製からだ。体内に充足した魔力は湯気のようになって体外に漏れ出す。菅原が細かに丁寧に魔力を操作するのに対して、草薙のそれは重機の駆動のようで荒く大胆。

 数秒の後、まず発動したのは草薙の方だった。それも、神力は二つ発動されていた。

 ……神役を二重に継承し、しかし神名は一柱のみ。アツタは二つの名と力を持つ事から、鬼神が適格だと判断されたんだったな。体能力上昇の〝草薙〟と、天候変更の〝天叢雲(あめのぬらくも)〟。

 神力〝草薙〟は、所有者の窮地を、その刀身をもって草壁を薙ぎ払った説話に関連付けられた能力だ。発動時には、使用者の能力全般が向上する。生気活性化の神役からだ。

 対し、神力〝天叢雲〟は、アツタを生み出した大蛇の直上には、常に曇天に覆われていたという話から関連付けられた神力。発動時には、半径十キロ圏内を強制的に曇天に変える。それ相当の魔力を必要とするが、天候安定化の神役で天候を変更せしめるほどの力は稀だった。

 〝草薙〟は無論侵士と戦うため。しかし、天候を変えるだけで魔力消費の激しい〝天叢雲〟を発動させた理由、それは、

「菅原書記の神力を全力で使うためとはいえ、草薙さんも無茶をし過ぎですね」

 岩戸の言葉に遠野も頷いた。――菅原・道正。亜門の粋、天候介入魔術の鬼才にして、継承襲名者。その襲名神は、黄泉の八雷神。イザナミの骸から成り出た雷神八柱の全て、だ。

 神力は視認範囲にある雲の電荷を支配下に置く〝号令(ごうれい)雷電(らいでん)〟。天候制御の神役だが、使用は容易なものの雷雲がなければんらない。故にそのための、草薙の〝天叢雲〟だった。

「侵士との近接戦もある。もって三十分らしいが、どう見ても時間が足りないな。――岩戸。お前もそろそろ行ってやれ。力は貸せずとも手助けくらいにはなるからな」

「分かりました。遠野君たちも頑張って下さいね。私たちは遠野君を送り出した後は逃亡自由ですけど、遠野君たちはそうもいきませんから。――伊沙さんが起きた時に、遠野君と空ちゃんがいなかったら私が怒られちゃいますもん」

 ああ、と遠野は笑って、岩戸の背を見送る。ジョギングペースで呑気に草薙らの方へ駆けていく岩戸は、とても彼女らしいと思えた。そして、彼は再度気を張り詰めた。

 紺の夜空は、いつの間にかどす黒い雲に覆われていた。曇天は唸り、猛虎が喉を鳴らすが如き雷鳴を響かせていた。すでに、雲内の電荷は許容量限界にまで抑え込まれている。

「……凄いなあ」

 ぼそっ、と羨むように空が呟いた。空の〝劫火業炎〟も強力だが、やはり融合技としてあの二人を越える者などおそらくいない。あれは、呆れるほど見事な連携だった。

 と、敵方にも動きがあった。

 学園周囲を巡回警備していた侵士らは臨戦態勢から、攻撃意思のある草薙らに突撃をかけてきた。まず三機が先手で飛翔し、接近する。地を行く五機は後続だ。

 しかし、先に飛翔した侵士三機がいきなり爆散した。頭上から、幾本もの雷を同時に受けたのだ。避雷針に目もくれず雷は侵士を穿っていた。菅原の力が使われたのだろう。

 三つの爆ぜる華を契機に、侵士と草薙らの戦闘が開始された。吐息してから、

「空、俺たちもそろそろ準備するぞ。やり方は、憶えてるな?」

 と彼は問いかけた。少女は頷く。少し怯えているようにも見えるが大丈夫そうだ。

「うん、わたしがおんぶされたらいいんだよね?」

 ああ、と遠野は少女を負ぶさった。そして自己を暴走させ、狂化の道に奔らせる暗示を詠唱し始めた。

「……異能〝狂者〟、――――発現」

 全てが忘却する。

 記憶も意志も、ただ唯一残った感情の奔流に流されて消える。

 歯止めの無くなった肉体は、背に載せたモノの事すら忘れて訳も分からず前に飛び出した。

 速い。

 雷撃が落ちた。次にヒト型の壁が巨棒に薙ぎ飛ばされる。わずかに開いた隙間から白亜の建物が覗けるようになった。

 迷わず肉体は前進。獣をも超える速度で突っ切り、そのまま駆けた。

 駆けて駆けて駆けていく。

 だが、身体は白亜の中の重厚な壁に激突して呆気なく停止した。

      *

      *

「……っ!」

 雷鳴鳴り響く戦場で、遠野の意識は目覚めた。

 瓦礫が散乱し砂ぼこりが舞う中、遠野は片手を額に宛がった。頭を振って混濁する思考をリセットする少年は思った。無理に異能を止めるためとはいえ、毎度これじゃぁ話にならねえ。これが終わったら特訓漬けだな、と。

 しかし、と呟いて、遠野は前を見る。正面玄関を入って突き当りの場所だが、眼前の壁には軽自動車が激突したようなクレーターが完成していた。暴走した遠野が作ったものだ。

「……一応は、作戦は成功したのか。――今後は方法を考える必要がありそうだな」。

 遠野は学園に侵入成功した。

 潜入後の活動をし易く、異能を強制停止させるために彼は、暴走状態のまま壁に激突して無理やり気絶して異能を停止させた訳だ。そして、

「空、いるか?」

 呼ぶが返事がない。舞い上がった砂ぼこりのせいで視界は悪い。少しの間、一緒に突入できた筈の友人は探せないだろう。ぶり返す痛みを耐えつつ、彼は無言で待った。すると、

「――おいおい。丸見えじゃないか。……ほお黒か。材質は結構上等なヤツだな」

 砂が風に撒かれて晴れて、瓦礫と共に床に横倒れになっている空を発見した。案の定、激突の衝撃で空は目を回していた。おかげで、捲れ上がったスカートの中身が見放題だった。

 興味も無いがな。

 彼は数度、餅のような白い頬を手で強く叩く。が、起きる気配は無かった。吐息一つ。

 仕方ない、と彼はしゃがんだまま右腕を振り上げた。一息の後、平手打ちを落とす。

 パン、と柔肉打つ快音が職員棟の一階にこだました。

      *

      *

「うう……、ほっぺが痛いよお」

 お前が起きねえからだ、と空の恨み言を遠野が一蹴した。辺りを見回しつつ、

「ここに来てからまだ数分だ。いたとしても敵が来るには遅い。やはり謀ったのは会長と副会長だけと見るべきだな。――空、二人がいそうな場所、分かるか?」

「ううん。お兄ちゃんと麻亜奈さんの仕事、ほとんど極秘扱いだいもん。ゴメン……」

 謝るな、と返して、取りあえず、と言葉を続けた彼。五指や手足の感触を確かめながら、

「本部である地下階層に行ってみるか。居場所が分からなくとも、指揮所なら学園内全域が観察できる。最悪、何かしらの痕跡くらいは出てくるだろう」

 自分にそう言い聞かせて、彼は横に立つ矮躯の少女を見やった。朱に焼けた左頬を擦っていたわる空は、この目線に改まって頷いた。

 二人は地下階層へと向かうべく、まず棟の地下にあるエレベーターを第一の目的地にした。

 が、しかし、二人が歩き始めて数秒もしない内にそれはやってきた。獣の声、だ。

『――!』

 狼の遠吠えだと、二人は瞬時に悟った。息を詰めるようにして顔を見合わせた二人が、

「空、今のは……!?」

「うん、麻亜奈さんの! たぶん上、屋上だよ!!」

「――行くぞ!」

 力強い眼差しで頷きを送り合い、二人は下ではなく上へと駆け始めた。迷いなく、ただ何故だと問いを投げるために。

      *

      *

 新東合学園正面、二百メートル付近。

 草薙は、余裕の無さを隠そうともせずに鉄骨を振るっていた。

 ……カッ、――二十分経ってやっと三機か!

 草薙の役目は、菅原の雷撃で損傷した侵士に物理的攻撃でトドメを刺す事だ。

 後方にいる岩戸は、治癒や敵方の消耗推測、草薙が武器に出来る獲物を探すなど手広く支援する役を行っている。菅原との連携も上手い。

 眼前の侵士を草薙は睨む。すでに損傷は限界近く、動きの程度は怪我人並みと言えた。

「しめえだ!!」

 膝を着いた侵士の真下に入り込み、草薙は直上へ鉄骨を突い上げ、そのまま飛ばした。鉄骨は豪速で飛び、金属の硬音と共に、侵士の顎をアッパーでかち上げて頭部ごと吹っ飛ばした。

 統括制御の集中する頭部を失った事で、侵士は機体としても継承者としても機能しなくなった。そして、気絶した人のようにガクリと崩れていった。が、それと同時。脳内に、

「(草薙さん! そちら五時の方向、一撃でいけます!!)」

 岩戸の念の声が来た。草薙は返答など返さずに、その機体へ視線を飛ばした。確かに重鈍な動きで一撃で仕留められそうだ。報告された機体の許へと草薙は駆けた。

 が、その目標は、最後の抵抗とばかりに腰に帯びていたダガーを手に取っていた。侵士はこちらにではなく、菅原や岩戸の方にダガーを投射しようしている。

「カッ、させるかよッ!」

 雷雲が天にひしめく中、草薙は地面に蹴りを一つ。高さ二十メートルを越える大ジャンプを行った。

 鬼は自重の落下速度と己の脚力で、振り被る侵士の頸椎を全力で穿った。

 頭部が潰れ、制御の無くなった侵士は腕を振り上げた体勢のまま前に倒れていった。すると、また念話が来た。今度は菅原の、

「(飛んだら危ないで剣ちゃんっ! ワイ集中力がピークなんやから統率乱れて剣ちゃんに落っこっても知らんで!! どないすんや!?)」

草薙は、右斜め向こうにいる菅原に振り向き、

「ハッ、そんときはテメエが何とかしてくれるんだろうがッ!?」

「(落雷とワイの思考、……どっちが速いと思とる?)」

「ガハハハ、――気合で、何とかしろい!」

「(はいはい、そらおおきにな、っと!!)」

 轟、と真後ろに雷が落ちたのを、草薙は、大気の震え、そして閃いた光で認識した。その直後。赤鬼の右、わずか数センチ横に、行動不能に陥った侵士が倒れ込んで来た。

 草薙はその機械に視線だけ送り、次に菅原へそれを移す。と、

「ケッ、――こらあ何かのアテツケかァ、おい!?」

「(……素直に礼言って欲しいわ)」

「ハッ、――こんな貧弱機械、俺様が本気だしゃあ二秒だな!」

「(じゃあラスイチ一秒でやってみてや?)」

 しかし、その注文に、草薙は悪びれる気もない高姿勢で、

「――フンッ、――出来る訳ねえだろ? 馬鹿かテメエは?」

「(あったま来るやっちゃのぉ、ほんまに脳天落とすで?)」

「(二人とも落ち着いて下さい! 街一つ灰にするケンカなんかやってて不毛ですよ!?)」

 へいへい、と草薙は内心で頷きつつ、背後、五十メートルほど先で片膝を着く無手の侵士に対して、その身ごと向けた。鬼は、今度は後ろになった二人に、

「最後の一機かッ!!?」

「(――はい! おそらくそうです!)」

      *

      *

「――ヌアッ」

 黒狼の足蹴に、狂者は地面を転がった。

 背部に来る激痛を歯噛みして堪え、無理くり体勢を整え制動した彼は、全身を黒い魔を纏っている。

 顔を上げた先、銀眼を持った熊の如き巨躯の黒狼が見えた。静かに佇み、こちらを見据える巨狼は、ひたすらに何かを待っているように思えた。

 狂者、遠野は獣のように喉を鳴らした。動かぬ思考、感情で、しかし彼は何故だと思う。

 リミッター解除のために知性をほどほど失っている彼に、疑問し尋ねる事はできない。が、彼の疑念の思いは、獣の直感や、機微に残った人の理性から端を発していた。

『疑問ですか? 何故私めたちが、いえ、龍也様がこのような事を起こしたのか。そして隠れもせず、ここに二人を誘ったのかが。――しかし余裕があると見える。来なさい』

 脳内に直接語り掛けられる。獣化した者特有の念話による意思疎通だ。

 呼びかけに、彼は、叫びを挙げて応じた。黒の瞳は金色に豹変し、束縛を模倣する。

「――!」

 万物を操るのは、その内側にいる霊体。そして霊体を構成するのは魔力。霊体の運動はそのまま魔力の運動となる。そこに〝邪眼束縛〟は強制的に介入し、凝固に近い形で流動性を完全に停止させ、ひいては運動力を停める。

 ビクリ、と黒狼の身体が一瞬震え、次いでその動き自体が停止した。

 だが、そこで終わりにはならなかった。黒狼が行ったのだ。膨大な魔力を一度に精製して、束縛の呪を魔力でもって洗い流しす。黒狼は吠えながら、戒めを弾き飛ばした。

 彼に隙を与えぬように、目にも留まらぬ俊足で黒狼は接近した。肉薄し、遠野を再度蹴り飛ばした。百メートル超過の屋上を遠野は勢いよく滑っていった。

 何度となく繰り返す攻防。気絶、しそうだった。

「――っ! ――く、ソッ!」

 悔しさがるような仕草と感情を見せて、狂者は声を出した。

 異能が、解けかけているのだ。そうでなければ、呻き声以外に口から漏れる筈が無かった。全異能を使えるともいえる〝狂者〟でも、神州における二番手の足元にも及ばなかった。

「和時君!」

「……ダマって、ロっ!! オまエは、口を、ダスんじゃ、ナいっ!!」

 彼の異能は殆ど解けている。

 身体を覆う黒の魔力も、湯気のように霞んで見える程度、金の瞳も明滅するように元の鋼色と入れ代わり立ち代わりしている。戦闘開始から十分、すでに限界だった。

 血反吐を吐き、歯噛みする遠野はこう思った。情けえなあ、オイ、と。

 ……部員には勝てると豪語し、空には一緒に行くぞ言っておきながら、このザマか! これじゃあアイツに顔向けすらできないじゃないか!! ――全く。お前の罵倒が懐かしい限りだ。心配されるより期待されるよりも、けなされる方がよっぽど楽だからな……。

「ソラ、まだ黙っていてくれ。オマエの声聞いてると、萎えそうになる」

 でも、と震えた声が返ってくる。

 分かっている。勝てない事ぐらい。勝つなんて事、俺には初めから出来ないんだ。

 ――お前には力が有る。だから、お前には何でも出来るんだ。

 違う。出来ない。力は有る、有った。だが出来ないんだ。どうしようもないくらい、この力は自分の望みにそぐわない。守りたい者を守れず、強者に勝る事もできず、やると決めた事すら出来ず仕舞いだ。

 こんな力は、必要ない。使えなかったんだ。

 強くない。ただ心の弱かっただけの者は、呻くように息を漏らして立ち上がった。

『まだ立ち上がりますか。無能と狂い、二つの顔を持つ者よ。スサノオを襲名した男がこの程度とは思いませんでした。我が主はどうやら見誤ったようですね。策が無ければ立ち上がってもただの愚行。――力の無い者は、早々に退きなさい』

「何故だ。何故こんな事をしでかした? あんたら二人は間違ってもこんな愚かな真似を起こすようなヤツじゃなかった! 一体いつから、道を踏み外した!?」

 黒狼がゆっくりと屋上を歩き始めた。股を広きけてやっとのこと立っている彼に、

『他愛の無い事です。あの方と出会った時から、全ては間違っていたのです』

「アンタはそれを分かっていながらするというのか!?」

 激昂の問い質しに呼応するように、横、百メートル以上離れた街道に雷が数本落ちた。

「何が目的だ。すでに神州は会長のものも同然。今更内紛を起こしたところで国が荒れるだけ。仲間を傷付け、友を裏切り、私物を弄ぶがためだけにこんな事をしたのか!?

 神州を守るために費やしたこの十年は、一体何だったんだ!?」

 彼の叫びに、黒狼は一瞬歩みを止めた。が、彼女は拒絶するように言った。

『貴方は、決定的な認識ミスを犯しています。――龍也様は、初めから神州などを見てはおりません。あの方はただ、世界を見ておられた。この世界を和みあるものにせんと、ひたすらに心血を注いでいたにすぎない。彼の行いの大半は、他国との外交を設ける事でした』

 そう、と再び歩き始めた黒狼は、吐露するように言葉を繋いだ。

『――私めもあの方も、殊勝な心掛けで励行した訳ではありません。ただ己がユメのために。恣意で動いたに過ぎない。この国の、この世界のために働いた事など、一度たりともありませんでした。――私めは、あの方の願いが成就すればそれでいいのです……!!』

 冷静沈着だと思っていた彼女が声を荒げた事に、遠野は面喰った。まるで、自分に言い聞かせているようじゃないかと、そう思ったのだ。波坂の怒りを抑え込む自分のように、と。

 黒狼が歩みを止めた。彼から五メートル離れた場所。鋭い銀の眼光が、こちらを見据えている。

 美しい狼だった。

 鍛え抜かれた強靭な四肢。闇色の美しい毛並みはまことに流麗で、清澄な魔力はどこまでも静かで乱れがない。一介の人狼とは思えない。まるで、神獣のようだった。

 竜の僕たる気高き狼告げる。まるでこちらを試すように、

『あちらの電撃戦もそろそろ終了のようです。こちらも与えられた時間はあまり残っておりません。故に、私めはあの方の従者として、責務を全うさせて頂きます』

 遠野はほんの少し身構えた。しかし彼女の初動は攻撃ではなく、言葉の紡ぎだった。

『――ある場所に、劣等を負いし者あり。そは一人の少年なり。少年、無力を自覚せしも慎ましやかに日々を過ごす。されど少年、親しき者の死見て嘆き、狂気して模倣せし力を得ん。少年、これを受け入れ有用に使わんと決意せり。――されど少年は知る。己が力は無必要と』

 さて、と黒狼の従者は告げた。

『――少年、遠き野に果てし者よ。無力を嘆き弱さを知る。何も成し遂げられない事を理解する貴方は、それだけで終わりなのですか? 実に愚かです。あの方に対すにあたう神名を頂いた者とは思い難い。

 ――貴方の力は、たった、それだけなのですか?」

      *

      *

 彼女の告げた言葉に、遠野は眉をひそめた。力はそれだけなのかという問いに。

 ……何故だ? 俺の力は、狂い倣う以外にあるとでも言うのか……?

 異能を発現させない限り、遠野に力と呼べるものは一切無い。そして、その力をもってしても、櫛真を相手にしてはこのザマだった。

 だというのに、彼女は言った。さも自分は知っているかのような物言いで、だ。

 ……俺にあるのは、身体、異質な異能、部長の座に、名目で被られた神名しか―――。

 ない、と考えようとしたところで、彼ははたと思考をあるモノに止めた。思慮に息を詰める。

 胸にぽっかり空いたような感覚を抱きながら、しかし彼は、一つの結論に達した。

 それは確証も無い、ただの楽観だった。

 空、と遠野は背後の向こうにいる少女に呼びかけた。

「空。一つ、聞きたい事がある。――お前は、幾つ力を持っている?」

 黒狼を直視したまま問う。故に見逃さなかった。眼前の狼の目が軽く見開かれた事を。そして、背後にいた少女は急な質問にまず驚いて、

「え? あ、う、うん。私は獣化と竜撃、それと神力くらいしか、持ってないけど?」

「そうか。なら空。お前は、いつから、神力を発動できるようになった?」

「? 覚えてないけど、確か何となく出せそうな気がして、やってみたらボワって出ちゃったんだけど……、イイかな? ――でも、どうして?」

 空の疑問を無視して、彼はクスリと微笑した。目の前に立つ狼は訝る気色を示した。

「研究では、神力は魂の内に注がれ、神役が固定した時のカタチによって変化するらしいな。同じ神役でも、魂の形が違えばそれも変化する。神力の幅に限度などはない。それは神役にも言える事だが、スサノオを襲名した俺が得る役目も力も、一体どんなものなんだろうな?」

『夢想ですか?』

「違う。時間稼ぎ、とでも言っておこうか。神役継承は無意識のうちに終わるらしいからな」

 黒狼が一瞬息を詰めたのを、遠野は悟った。

 腰を下げて身構える。空虚に満ちていた内側が充溢して〝重み〟が増していく気がする。心が震えて怯えるような感覚だが、どこか嬉しくも思えた。己のモノと、そう思えたからだ。

 ……ああ。

 彼は思った。これがアイツらと同じ〝重み〟なのか、と。やっと追いつけたのか、とも。

 深呼吸する。心が重い。良い重さだ。だから笑む。だから告げた

 神州の貴き三柱、その全てに冠せられた神力の称号を。海原を司るスサノオの神力を、彼は唱えた。

「環境統括、英雄神スサノオの神力〝(だい)()(こう)〟、――発動!」

 環境統括。自然界における、自然的節理を統一し制御する神役だ。

 その神力は、やはり統一と制御に集約される。彼の場合は――――。

 叫びに、全身の神経が研ぎ澄まされていく。魔力をも含め、感度は明瞭となって全てにおける自己の感覚とその理解力が桁違いに上昇する。己のモノの細部に至るまで把握していく。

 だからこそ、やっと分かった。自分の力の在りようが。父親の言っていた言葉の意味が。その本質が、やっと理解出来たのだ。――何もかもが出来る。その本当の意味が、だ。

 ――故に彼は紡いだ。自己を切り替える更なる詠唱を、何も出来ない無能者として。

「思考・感情回路、――一時停止。

 神経回路、――昇華解放。

 魔力炉、――増設稼働。

 筋稼働率、――限界突破。

 思考・感情回路、――起動復旧」

 一息の後、魔力の爆風の中心に立つ彼は叫ぶ。

「――異能〝(ゆう)(しゃ)〟、―――発現!!」

 魔力の奔流に、身体もろとも精神が押し流されそうになる。だが、操れた。

 身体中が血沸き肉躍り、はち切れんばかりに暴れたいと主張する。だが抑えられる。

 異常なまでな〝力〟が、脳を焼き切りにかかる。しかし鎮められる。

 この自分で、だ。

 両手を見下ろして五指の感触を確かめる。微細な筋肉の動きまで把握できるおかげで、全く無駄を感じさせずに動いてくれる。力が嫌というほど溢れ出てきていた。それでも頭の中は清澄な気に満ちて、あらゆる己の〝力〟、その情報が書き込まれていった。

 ……そう、だったんだな親父。これが、俺の本質なんだな? 成程。そりゃぁ無能者に落ちるのも無理はない。何せ、俺は出来ない事が前提の、最強の無能者なのだからな……!

 異能〝有者〟。――この世に存在する全ての異能、それらの欠片を細分化していき、一つの異能を倉として収めて所有する異能。故に〝有する者〟、つまりは〝有者〟だ。

 使用者は、その力の許す限り、際限なく全ての異能を細分化した状態で使える。だが、使用者の技術や基礎によっては自爆装置でしかなかった。おそらく、天才と呼ばれた彼の両親が、反作用の大きさを考慮して、彼に何重ものロックを掛けていたのだろう。

「……今はそうだと思っておくぞ親父。帰ってきたら問い詰めてやる」

 そして、今の彼の力を支えているのは神力。神力〝大地功〟だ。

 神役において最上位にあたる環境統括。トップクラスのこの神役は今、彼の能力を自在に操る、自己無条件制御の神力となっている。〝有者〟発動には〝大地功〟が不可欠だった。

 リミッター付の強力な異能に、リミッター解除役の神力。それさえあれば、

「――俺は、出来る!」

 そう、力強く遠野は吠えた。すると、

『おめでとう御座います、遠野部長。やっと覚醒なされましたか』

 前で、ずっと佇んで待っていた黒狼がこちらを讃えた。まるで、そうなる事を知っていたかのような口ぶりで、だ。――遠野は静かに問いかけた。殺気のなくなった巨狼に、

「副会長。アンタはもしかして知っていたのか? 俺の深淵を」

 ええ、と黒狼は何の遠慮もなく首肯した。左、グラウンドの方に視線を飛ばして、

『説明だけは受けておりました。ここまで素晴らしいものとは思いませんでしたが。龍也様が弱き者と戦うのは好かんと仰い、強くさせろという勅命を承ったのです』

「成程」

『それでは私めの役目はこれで終わりましたゆえ、どうぞ、御自由になさって下さい。止めは致しません。もう、終わりましたから……』

 彼女の言い方に、遠野は眉根を寄せた。問うよりも先に、櫛真が答えを出した。

『――解雇されました。故に止める必要も、その資格もないのです。リストラ、というやつでしょうか。とかくこの任を完遂すれば、お前は従者から解任、だそうです』

「自分は、最初から謀反なんて起こす気が無かった、とでも言う気か?」

『無論違います。私めは、――ただ最初から、あの方と共にいたかっただけ。それ以外の何ものでもありませんでした。出過ぎた言葉は愚弄ですよ、遠野部長』

 冷たい語調に、遠野は〝そうか〟と返して、しかし言葉を繋いだ。

「なら、何が望みだ? ただで投降してやる訳じゃないんだろ?」

 彼の声を耳にした途端、黒狼の身体が強張った。が、ややあってから、狼である彼女は首をもたげ、床に伏せた。まるで服従したような姿だった。

 無言の後、震えた声が脳中に届いた。それは願いというよりも、懺悔に似た、

『――あの方をどうか止めて下さい。これは、私めが望んでいた世界ではありません』

 苦痛に満ちた切願だった。

 彼は思った。おそらく彼女はずっと迷っていたのだろう、と。従者としてか、それとも一人の女としてか。どちらにしろ、彼女は他人を頼ったのだな、とも思った。

 だが、彼女は決めた。もう迷わないと。それ故に、遠野も決意を込めて応じてやった。

「分かった。会長は、俺が止める……!」

      *

      *

 周囲を覆っていた雷雲がいつの間にか晴れ、上空は雲一つ無い満月の夜天となっていた。

 青白い月光は、大地と白亜の社を照らして、灯りなど無くとも十分遠くまで見渡せる。

 新東合学園の広大なグラウンド。その大広場寄りの場所に、人影が一つ立っていた。

 〝大将〟の階級章を着けた、紅白基調のブレザーを着る少年。

 蒼衣・龍也だ。

 そして、彼に近付いていく影がもう一つあった。ゆっくりと一歩一歩を踏みしめ、歩く少年もまた、新東合の制服に身を包めていた。蒼衣の眼前、十メートルほどの距離で、

「ほお。もう着いたのか和時? それで、襲撃事件の首謀者は分かったのか?」

 くつくつと喉を鳴らして蒼衣は問いかける。それに対し、少年は足を止めてこう答えた。

「ええ、お陰さまで。犯人と思しき二名のうち、片方を屈服させてきたところだ。話を聞けばもう一人の方が主格のようで、自分は従っただけらしい。最後には彼を止めてくれと懇願された。あれではとてもじゃないが、犯人として挙げる訳にはいきそうにもない」

 彼、遠野の口調に軽さなどはなかった。ただただ単調で底冷えするような声色だった。が、蒼衣はそれを気にも留めずに声を挙げて笑った。そして、

「――それはまた難儀なものだな和時。骨をおってやっと下手人に辿り着いたというのに、主犯が別におるとは。操り人形ではむしろ被害者か。では主犯はもうとうの昔に、逃げおおせているかも知れんぞ。振出ではないか? 和時よ。欧州にまで飛んだ意味が無くなったな」

 彼の笑声は辺りに溶けていく。遠野にはそれが酷く不快に感じられた。

「いや、問題は無い。主犯なら目の前にいる。今からとっつかまえる!」

「ほお、それは良かったな。しかしオレの見立てでは、疲れ切った今の貴様では十二分に戦う事叶うか怪しいな。何故助勢として空を連れてこなんだ? 共に潜入せしめたのだろう?」

「空は宿直室に隠してる。不意をついて眠らせた。一、二時間は呑気に寝息を立てているだろうな。真犯人を捕まえるには少し、アイツは邪魔だ。違うか、兄である真犯人?」

 は、と蒼衣は頬を引きつらせてひと際大きく笑った。

 そして、笑みがひとしおに引くと、彼は眼光をギラリと光らせ、鋭い双眸でこちらを睨みつけた。竦みを強要させてくる視線。彼の二つある神力の片割れ、神力〝邪眼じゃがん夜刀やた〟だ。

 だが、もはや遠野にそれは効かなかった。

 邪眼は、肉体の内側に在る霊体への干渉が必須だが、自己制御の神力を発動させ続けている今の遠野に、干渉などは無意味に等しい。

「? なんだ和時。貴様、耐魔力だけでなく別の力も顕現させておるのか。――あやつめ、異能を覚醒させろと申しつけた筈が、何故神役を継承させるに至ったのだ。見る限り一極現象の統括であるオレの神役よりも、上のようではないか……」

「環境統括、制御系だ」

「成程。では神力の能は対象の完全制御、といったところか。貴様の場合は内側か?」

 遠野は頷いて、しかし構えをとった。拳を握って前にかざす。白兵戦の体勢だ。

「何が目的だ、蒼衣・龍也。世界初の襲名者であり、今やツクヨミとヤタの二重襲名を果たした神州機構の全部長にして元帥。アンタともあろう者が、こんな下衆な真似をした訳を言え!

 それとも何か、〝夜盗やとうしんげつ竜王りゅうおう〟の名の如く、世界を夜に落とし全てを盗む気だったか?」

 問いかけに、彼は薄く笑んだ。今までの嘲笑とは違う、――苦笑、だった。蒼衣は明後日方向に顔を向けて、小さく呟いた。それは、

「……さねさし、(さが)()小野(おの)に燃ゆる火の、火中(ほなか)に立ちて問いし君はも……」

「感謝別離の歌が、どうしたというんだ」

 肩を竦ませて、彼はくつくつと笑った。しばらくすると、彼は平然と、しかし狂気じみた笑みを湛えて、遠野の問いかけに答えた。

「……全てを盗む? そうだな。それで正解だろう。だが、そんな答えがどうしたというのだ。オレはただこの世界を手中に収め、世界に平和とやらをもたらしたいだけなのだが。――何か、おかしな事でもあるのか? なぁ、和時よ?」

「――なん、だと……っ!?」

 最初、遠野は目を見開けて絶句した。しかし次の間には、歯が砕けそうになるほど奥歯を噛み締める。全身が怒りに震え過ぎて、構えが解けず、遠野は動けなかった。

 ――許さない。

 彼は前を見る。ヤツがいる。波坂を、俺の悪友を永久に眠らせた張本人が。ただ世界が欲しいだけだと言って、しかし己の仲間を傷つけたヤツが、いる。――絶対に、赦せない。

 大地を穿つかというほどの震脚一発。所有者たる彼は、再度構えをとって叫んだ。

「――止めるッ! その息の根ごとお前を止めてやるっ‼」

 にやりと、蒼衣は彼の叫び不敵な笑みを浮かべた。あたかも、ずっとそれを待っていたかのように。

      *

      *

 新東合学園、正面。メインストリート。

 大小違いはあるが、計十二機の侵士の残骸が、そこいら中に散らばっていた。

 その中心で、岩戸は、尻餅をついて軽く放心していた。

「……やっと、終わりました……」

 独語した。が、すぐ傍から、応じる声がやって来た。胡坐をかいて息を整えている彼は、

「しかし岩戸ちゃんも、よぉやったでぇ。三十分以上、高速思考続けるなんて大したもんや。三年にもそうおらんで?」

 長身痩躯の男、菅原だ。彼の言葉に、しかし岩戸は疲れ切った笑みを浮かべて応じた。

「有難うございます。初めてやったのでちょっとキツかったですけど、私の神力が上手く働いてくれたみたいで……」

「ははは、ならなお更や。今度から得意分野に入れとき。剣ちゃんもそう思うやろ?」

 菅原が横を見た。視線の先には、こちらに身体を向けずに二王立ちをしている草薙の姿がある。菅原の投げかけに、赤鬼は

「…………」

 全く反応しなかった。その事に岩戸は首を捻るが、菅原は合点がいったような口ぶりで、

「……寝とるな。あらぁ完全に」

「……え、こんな場所で? と、いうか直立不動で寝れるんもんなんですか?」

「ちいと骨格いじってやっとるらしいで。ワイらには真似出来んけどな。それよか、あと十分休んだらワイらも動くで。ええか?」

「草薙先輩は?」

「寝てから三分で起きる。気にする事あらへんよ」

 そうですか、と返した岩戸は、ふと学園の方に目をやった。曇天が晴れたので白亜の社は、再び青白い月光に照らされている。見れば、一番手前にある職員棟の屋上は禍々しい魔力で酷く淀んでいた。

「遠野君も空ちゃんも、大丈夫でしょうか?」

「さーな。でも、ワイらも学園に侵入するんや。人の心配、しとれんで?」

 はい、と岩戸は頷き、言った。

「行方不明の生徒たちを探す。これはこれで重要な作戦です。――菅原先輩は、ある程度の目星つけてるんでしたよね?」

「ああ、たぶん地下階層のどっかや。そして、数千人を収容出来る施設いうたら、ワイは一つしか知らん」

「それは?」

 菅原は、不敵な笑みで答えた。地面を指差ししながら、

「生徒会のワイですら滅多に見られんかった、――地下第四階層。開校に建設が間に合わず、最近やっと試運転された場所や」

「そんな所が、あったんですか……?」

「ああそうや。まあワイらは気楽に行けばイイ。何せ―――」

 彼は、学園の方に視線を飛ばした。そして細目を見開けて、彼はこう言った。

「コッチは舞台裏や。表が華やいどる間に、精々仕事せなな。――まあそれに、幕引きは、エキストラも全員舞台に上がらなおもろーない。分かったかい、岩戸ちゃん?」

      *

      *

 職員棟の屋上。

 その縁で独り下着姿のまま佇む少女は、ふと不意に、グラウンドの方から学園中に響き渡るほどの快音を耳にした。

 元主と憤怒に震える男との戦闘が始まったのだろうと、彼女は見当を着ける。

 櫛真は、着るか迷っていた侍女服を着る事にした。遠野と空を呼びつける前にすでに脱いでおいた侍女服を、彼女は着直す。獣化して破ったとしても、魔力を宛がえば見せかけだが、別の衣服を着る事ができる。が、この侍女服だけはそれをしたくなかった。

「私とあの方の唯一の接点でしたしね。――でも、それももう終わってしまったのですか」

 眉尻を下げて彼女は自嘲する。悩むうちに全てがもう遅かったのだ、と。

 気紛れに櫛真は、グラウンドとは逆の、正門側に目を向けて、次いでフェンス際まで歩みを寄せた。遠く、百メートル以上離れた道路に幾つかの人影が座り込んでいるのが見えた。

 ……侵士と戦っていた対策部の別働隊ですか。全機撃破したようですね。あと十分もすれば次の行動にでも出るのでしょうか? 隠した生徒や職員らの捜索。――計画通りですね」

 言って、しかし少女は後悔に目を細めて吐息した。自然と足元に視線が落ちる。

「――全く」

 何をやっているんだ、とそう少女は思った。この九年、彼を助けて彼があの願いを成就させ切る事を願って、ずっと頑張ってきたのに、何故、その終わりがこれなのだ、と。

 フェンスに縋るが、そのままずるずると膝が崩れて地に着いた。

「嘘を吐き続ける代わりに苦心してきたというのに、どうして、貴方はその道を選ばれたのですか? 貴方様は、共に励んでくれと、そう仰ったではありませんか……!」

 整った顔が悲しさに歪む。彼女の心は陰惨だった。がしゃり、とフェンスが両手の力で軋みを挙げた。

 跪く彼女は、必死に自分を落ち着けようと、深呼吸を何度もした。だが、この感情はどうやっても収まらなかった。

 苦しい。

 と、背後の向こうに巨大な爆炎が登った。やや遅れてから爆音が伝わってくる。

 急いで少女は屋上を走った。フェンス越しに遠くのグランドを見る。燃え上がる焔は巨大で、その光に照らされて少女の銀の瞳が鈍く光った。

 悲痛な闘いだと彼女は思った。そして、

 ……私めは、一体何なのでしょう。嘘つき続け、あの方を騙し続け、裏切り続けた、……狼。

「――何故ですか? 何故貴方様は、そこまで己を賭けようとなさるのですか。

 貴方は神です。願いを成就させる神。ですが、救ってもらった礼に無謀を返されても、救った者が喜ぶと本気でお思いなのですか? ――神とは、実に勝手気ままなのですね……」

 ゆっくりと、肺に外気を取り込む。この距離だというのに、魔力は戦闘の緊張に呑まれているのか、ほんの少し肺が痺れた。

 しかし、一息の後、彼女の瞳に力が籠もった。何かを決意したように、

「――さねさしの、(さが)()小野(おの)に燃ゆる火の、()(なか)に立ちて問いし君はも……」

 彼女は一編の歌を紡いでいた。彼が、時たま口ずさむ歌だ。

 それは恩に報いる歌だった。

 ――欺かれて野に火を放たれ、生死危うし時。それでも自分の身を案じてくれた君よ。

 英雄の妻が、英雄に対して贈った歌。最大限の感謝の意を込めた歌。嬉しかった安堵を謳った歌。

 だが、これを謳った後、妻は海神の怒りに触れた夫のために、嵐の海に身を投じて彼を救った。

 そう。恩に死をもって報いるために謳われた歌なのだ、これは。

「……貴方の決意はいつから、そこに終わったのですか?」

 問いの答えは返ってこない。が、それでも彼女は口を開いた。

 彼の答えではない、自分の答えを静かに紡いだ。待ち続けた者が〝迎えに行く〟と謳った、歌を。

「君が往き、日長くなりぬやまたづの、迎へを行かむ、待つには待たじ。――龍也様。貴方様は月の神であられる。私めの原型は、月を愛した神獣から来る」

 ならば、と侍女服に身を包めた彼女は思った。

 ……私めにとっての〝月〟は貴方様しかおりません。貴方様がどう思われようとも、私めは私めの心に従わせて頂きます。我が祖先は〝月追いの凶狼(マーナガルム)〟。貴方様にどんな不幸が襲いかかろうとも、私めは、どこまでも追い続けます。

 遠い地の果て、暗く広いだけの森の中でただ独り隠れていた一介の犬精。

 彼女が初め望んだのは、広い外の世界。

 次に望んだのは、そこに導いてくれた彼と共に居続ける事。そして、彼を追い続ける事。

 それで、この狼の願い事は終わりだった。

「……龍也様。いえ、坊や。わたしの願いはね、もう叶ったんです。だから、そんな哀しい事はしないで下さい。わたしはずっと、貴方の笑顔を見ていたいだけなんです」

 ――止めに、行きます。

 少女は最後にそう言った。だから追った。

 彼の許に辿り着くために。後悔の十年を清算させるために。



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