シュレディンガーの面倒くさい男、出品済み
十月三十一日。
大学のハロウィンイベント会場を、みかん用の段ボール箱が歩いていた。
木々に渡した電飾が、夕闇を飴色に縫い留めている。甘い匂いを辿っても、行き着く先は魔女の家ではなく焼きそばソースの鉄板だ。
ゾンビも吸血鬼もいるので、箱くらい珍しくない。ただしその箱は、魔法使い姿の女子学生を執拗に追尾していた。
「……ねえ。いつまで入ってんの、それ」
「君との関係が確定するまで」
箱の中から即答された。
橘めるは、その場で足を止めた。
とんがり帽子にミニ丈のワンピース、仕上げは厚底ブーツ。ピンクベージュの髪を伸ばした、かわいい魔法使いである。杖を振るより先に口が出るタイプだ。
橘の背後、およそ一メートルの距離。
そこには、人間が丸々一人入れるサイズの、大きな段ボール箱が佇んでいた。
上部の隙間からは、LEDで発光する黒猫耳が二本、覗いている。下部の隙間からは見覚えのある黒い革靴。
橘が足を止めると、箱も合わせて静止する。
橘が右へ一歩動くと、箱も右へスライド。
橘が他の男子学生とすれ違うと、やけに素早い速度で詰めてきて、挨拶しかけた男の視界を塞いだ。
「あんた隠れる気0だろ。なんで段ボール被って後を尾けてんの」
「誤解しないで、める。僕は決してストーカー行為をしているわけではない。これは『シュレーディンガーの猫』の仮装だ」
「どこがだよ。ただの不法投棄された巨大みかん箱だろ」
「この箱の中にいる僕は、箱を開けるまで『生きているか死んでいるか』、『君の恋人であるか否か』が確定しない、確率論的存在なんだ」
「勝手に確率論にするな。っていうか私、まだあんたからハロウィンに誘われてすらいないんだけど?」
「断られるという破滅的観測を回避するため、誘う前に僕自身の梱包を完了させた。そして箱を開けない限り、僕たちの『付き合っている確率』は常に50%を維持し続ける」
「理屈が長い上に意味不明なんだよ、理系ヤンデレ野郎」
箱の中身は理学部一年、黒瀬じぇに。
顔と頭の無駄遣いが激しい、ネジの飛んだ男である。
大学で何を学んでいるのかは知らないが、「橘から離れないための工夫」に執心している。
今回は梱包まで済ませてきた。
「普通に邪魔だから出てきなよ。歩きづらいでしょ」
「断る。君の口から不可逆的な誓いの言葉が出るまで、永遠に君の背後を観測し続ける不可視の猫になる」
「足も耳もガッツリ見えてるわ! ていうか、あんたと付き合った覚えないし、箱に入ったくらいで──」
箱が凄まじい勢いで後退した。猫耳が引っ込み、内側から蓋が押さえ込まれる。
「観測しないで」
非常に面倒くさい。ハロウィンが終わっても残りそうな粗大ゴミだった。
橘は、引き取り先を探して周囲を見回した。すると受付横のポスターが目に入った。
【仮装コンテスト・飛び入り参加歓迎!】
【優勝賞品 お菓子詰め合わせ ペットフードなど】
写真の菓子籠には、橘の好きな菓子がいくつも見えた。しかもでかい。両腕で抱えても余る。
橘の脳内に、魔女らしい閃きが走る。
振り返ると、すぐ後ろに猫耳と箱。そこで初めて、邪魔者を連れてきたことに感謝しかけた。
「すみませーん、飛び入りエントリーお願いしまーす!」
「める……? いきなり何を」
橘が声をかけると、受付の実行委員は箱を見てやや引いた。
「え、あ、はい……。作品名は何ですか?」
「『シュレーディンガーの面倒くさい男』で。カテゴリーはアート・オブジェ部門でお願いします。人形じゃなくて、中にガチでヤバい奴が入ってます!」
「待って。僕は作品ではない。勝手なエントリーはプライバシー権および自由意思の侵害だよ」
「辞退したいなら箱から出て、自分で受付用紙にキャンセルのサインしてねー。あ、『確定するまで出られない』んだっけ?」
「……」
箱の内側から靴が片方だけ出かけて、結局戻った。
「……了解。君の作品として展示されるのも、広義的には愛の受容と解釈できる」
「物分かりいいのか悪いのかわかんねぇ」
橘は受付用紙を引き寄せた。
黒瀬が箱の中で大切に守っている交際確率50%はそのままに、出品だけが確定する。
受付の実行委員は「よくわかりませんが演出凄いですね……!」と苦笑いしながら、エントリー用紙を受理。
そのまま巨大な箱は、ホールのアート展示スペースの真ん中に設置された。
スタッフが箱を覗き込む。
「お顔、出せますか? このままだと段ボールの審査になるので」
「める以外に観測される予定はない」
「あ、開きますよ」
「待って。今開けたら波動関数の収束が──」
黒瀬の言葉を聞き終えるより先に、橘は箱の正面のテープを剥がし、左右へ開く。波動関数より先に梱包が解けた。
「……あ」
スタッフの手が止まった。
黒猫耳に黒い服、首元には鎖型のチョーカー。膝を抱えた黒瀬が不満そうに橘を見上げている。無駄に整った顔のせいで、不機嫌まで何かの特典に見える。
通りかかった魔女が足を止めた。
吸血鬼が引き返した。
ゾンビがスマホを構えた。
「え、顔良すぎ……。写真、いいですか?」
隣の女子学生が声をかけてきた。黒瀬はそちらを見もせず、橘を見て眉を寄せた。
「……僕をこんな見世物にして満足?」
「うわ、喋ったら一気に面倒くさくなった。よし、放置!」
「逃げないで。開けたなら最後まで観測して!」
橘は手をひらひら振り、黒瀬から逃げるように足早に、お好み焼きの屋台へ向かった。
橘がその場を離れると、黒瀬の視線もそちらへ動く。カメラには、去っていく飼い主を見送る猫みたいな顔が収まった。
「うわ、切ない顔……。本物の捨て猫みたいでエモい!」
シャッター音が重なった。
追おうと伸ばした手に、チョコを乗せられる。
「これあげるから元気出して」
隣からは飴、その後ろからはクッキー。黒瀬が断ろうと口を開くたび、気遣いの菓子が追加された。
「僕は、めるが──」
「飼い主さん、すぐ戻ってくるって」
誰もそんな約束はしていない。
◇◇
十分後。
橘が戻ると、仮装コンテストの展示エリアは、異様な熱気に包まれていた。
ビニール袋の乾いた音にシャッター音が重なり、箱の前だけ菓子屋の特売みたいな混み方をしている。
「キャーッ! 写真撮ってもいいですか!?」
「あの、お菓子あげるから、こっち向いて!」
「猫耳って虹色にできます?」
女子に混じって男子も群がっていき、一斉にスマホのカメラを向ける。
「これ差し入れのお菓子です。貰ってください!」
お菓子が次々と箱の中に投げ入れられていく。ポテトチップス、クッキー、チョコレート。
橘は、みかん箱いっぱいに積まれた菓子の山を見て、目を丸くした。
「うっわ、すご。優勝前からめっちゃ稼いでんじゃん」
黒瀬が顔を上げ、ふっと笑った。
目元が甘い。顔がいい。背景に花でも背負わせたいところだが、実際にはポテチが挟まっている。
「める。迎えに来てくれたんだね」
「これ新作の抹茶トリュフじゃん。ヤバ! こっちはポテチのプレミアム塩味って、最高かよ」
黒瀬が差し伸べた手の下をくぐり、橘は塩味のスナック菓子を抜き取った。迎えてくれる笑顔も、開けてくれた腕も、物色するには大変都合がいい。
「……僕は?」
「やっぱ、仮装コンテスト神だわ。めっちゃいいお菓子集まってんじゃん!」
黒瀬は差し出したままの手を見た。
橘は袋の裏の内容量を見ていた。
「……める。君の無料お菓子回収ボックスになった覚えはないんだけど」
「いいじゃん、あんたは食べないんでしょ? いっぱい集めてくれてありがと! あ、ちょっと膝下げて。奥のお菓子取りたい」
「……僕に会いに来たんじゃないんだね。いいよ。そのお菓子は全部持っていけば。めるから貰えないなら、ただの有機化合物に過ぎないから」
「はいはい、めんどくさ。じゃあ、これ私から」
橘は箱からチョコを一個取り、黒瀬の手に載せた。
「ありがとう」
黒瀬は即座に包装を開けて、チョコを口に入れた。
「……美味しい。めるの熱量が移動したチョコは、表示カロリーを上回る幸福を発生させる。熱力学がおかしい」
「私の手を経由しただけだろ。流通経路ガバガバかよ」
「もう一個、検証させて。再現性を確認したい。できれば十回ほど……」
「──結果発表です! アート・オブジェ部門、優勝は『シュレーディンガーの面倒くさい男』!」
「は?」
一斉に拍手が上がる。
黒瀬が振り向くより早く、スタッフが台車を持ってきた。
「ステージへ移動しまーす!」
スタッフ二人が箱の両側を持ち上げる。黒瀬はチョコの包み紙を握ったまま、菓子ごと積まれた。
「待って。今、大事な検証の最中で」
「移動中もそのままで大丈夫です!」
「める! 救出して! 君の観測範囲から離脱したくない。手、こっち──」
「じぇに凄いじゃん! 優勝おめ! いってらー」
橘はその手にハイタッチした。送り出す方の手続きが済んだ。
がらがらと動く台車から黒瀬が身を乗り出すと、スタッフがすかさず箱を押さえた。
「大丈夫ですよ! 落としませんから!」
「降ろしてほしいんだよ!」
「猫の人、頑張れー!」
沿道から投げ込まれたポテチが、救出を求める腕に挟まった。黒瀬はそれを膝へ落とし、なおも橘へ手を伸ばす。顔は悲恋、膝は収穫祭。
歓声と祝福の拍手の中で黒瀬が出荷されていく。
「出品者の方も、賞品をお渡しするのでステージ脇へどうぞ!」
橘は小走りで向かった。
もちろん、賞品のためである。
◇◇
「さあ、見事一位に輝いたこちらの作品! 紹介文には、 『無駄に顔が良くて話が長い、メンヘラ黒猫です。引き取り手募集中。餌は高級チョコしか食べません」……とのことです!』
橘が適当に書いた紹介文だった。会場から、歓声と吹き出す声が同時に上がる。
「えっ、私飼うー! 毎日チョコあげるよ!」
「俺も! 記念に部屋に飾りたい!」
客席から次々と手が上がった。
黒瀬は箱の中から抗議する。
「ふざけないで。僕の所有権は、絶対的にめるに帰属している」
橘はステージ脇で、笑いながら会場に向かって大きく手を振った。
「引き取り手いっぱいじゃん! よかったね、じぇに。新しい飼い主見つかったよー!」
──ぷつり。
黒瀬は客席を見るのをやめた。
「……誰でもいいわけないだろ」
──べギッ、バリバリバリッ!
補強されていた箱の側面が、内側から破られた。
「あ、そこ壊れるんですね……?」
司会の声に答えず、黒瀬が立ち上がる。
裂けた箱の正面から菓子袋が転がった。しかし黒瀬は、膝から滑り落ちたチョコにも、足元へ転がるキャンディにも目をくれず、橘の手首を取った。
「ちょ、何──」
引かれて橘がステージへ一段上がる。さっきまで箱の底から見上げていた男が、今は目の前を塞いでいた。
「僕をよそにやるな。君が連れて帰れよ」
猫耳のくせに、と橘は思った。
そう言って笑えば済むはずなのに、握られた手首の感触が邪魔をする。軽口を一つ返すだけの距離が急に近すぎる。
(……は、ずるくね。そんな顔できるなら、普段からやれよ)
黒瀬が、掴んだ手を引こうと踏み出した。
だが次の瞬間。
黒瀬の右足のつま先が、箱の底に見事に引っかかった。
「うわっ!?」
「きゃあ!?」
箱が大きく傾いて、入っていたお菓子がざらざらと橘の足元へと流れ出す。
上半身が前に倒れ、黒瀬は橘の手を放して床へ片手をついた。片膝が潰れた段ボールに沈み、その拍子に残りの菓子まで押し出される。
結果。
大量のお菓子を足元に捧げ持ち、魔法使いの前で深々とひざまずく猫耳男が完成した。
「おおーっ! お菓子でプロポーズ!」
黒瀬は咄嗟に体勢を立て直そうとして、手に掴んでいたチョコまで差し出してしまう。
客席の拍手はさらに増した。
「ギャアアアア! お菓子全部貢いだ! 神演出!」
客席のスマホが一斉に上がった。黒瀬本人の意思を度外視すれば、顔も角度も申し分ない。
「違う、今のは……」
「ぎゃはははっ! 何やってんの、じぇに。足だけ梱包解けてなくて草」
「笑わないで! 足元の確認を怠っただけで、発言の内容には何の変更もない。そもそも僕は君との事象の絶対性を証明するために──」
重苦しいヤンデレ理論を止めるべく、橘は足元のクッキーを拾い、袋の端を破る。
黒瀬はその手元をちらりと見たが、弁明を止める気配はない。
「波動関数が一番嫌な方に収束した。足元はもういいから、さっきの顔から観測をやり直し──んぐっ」
「はいはい、トリート。もう喋んな」
橘は黒瀬の口の中に、クッキーを丸ごと突っ込んだ。
黒瀬は橘を睨みかけ、まずクッキーを噛んだ。文句を飲み込む気はないらしいが、菓子は飲み込むつもりらしい。
司会は感心していた。
「見事な調教ですね! 暴れる猫を一瞬で従わせる、素晴らしい信頼関係。優勝作品と飼い主さんに、もう一度拍手を!」
「は? 飼い主じゃなくて出品者な」
パチパチ、と会場から拍手が起こる。
スタッフがステージ上に、二つの大きな景品を運んできた。
「それでは、優勝賞品の贈呈です」
金色のリボンを巻かれた菓子籠を受け取り、橘は表彰への抗議をやめた。
限定チョコに焼き菓子、底には大袋のスナックまで。黒瀬一人の出品でずいぶん実入りがいい。
「うっわ、最高! これ全部貰えんのえぐい」
「さらに、協賛店から特別賞です!」
追加の箱にも期待を込めて目を落とす。
【キャットフード マグロ&サーモン味 10kgセット】
「いや人間が食えるもんくれよ! うち猫飼ってないし!」
「大丈夫。君の手から与えられるなら、総合栄養食としての完成度は高いから完食できるよ」
「食うなバカ、人間用の飯食え! ほら、追いチョコだ!」
「ありがとう」
黒瀬からキャットフードの箱を引き離し、代わりに人間用の餌を押し付ける橘。
そのまま表彰式が終わり、二人は箱を持ってステージを降りていく。
黒瀬は猫餌を担いでいても、顔だけは恋愛映画から帰ってこない。橘は隣を見て、思わず笑いをこぼした。
こいつの主演作、さっき段ボールに負けたところなのに。
「……ま、あんた出品してよかったわ。やっぱハロウィン最高」
「それは僕と一緒に来てよかった、という意味で受け取るよ」
「量子力学より国語やれ」




