大木圭介④
「とりあえず、飲みましょう」
そう言って、俺もコーヒーを飲んだ。
この重たい空気を少しでも払拭したい。
おずおずと、といった感じでミルクティーを一口飲んだ後、小川さんは頭を下げた。
「先ほどは、ありがとうございました。
本当に助かりました。
その……私、同年代の男の人が苦手なんです。
特に、陽キャっていうんですか、チャラくて押しの強い人が」
ちょっと意外だ。
小川さんの見目なら、ナンパ慣れしていそうなものだが。
「そう、なんだ」
「昔、告白を断ったらしつこくつきまとわれて、おそ…押し倒されそうになったことがあって。
何人もで囲まれると、足がすくむんです。
女子短行ったのも、それが理由の1つで」
「あ、いや、すみません、そんな辛いことを思い出させてしまって」
言い方は濁しているが、それってレイプされかけたってことじゃないのか?
俺といて大丈夫なのか?
「そういうことなら、1人でいた方がいいんじゃないかな。
危ないから、タクシーで帰るとか」
言ったら、絶望したような目で見られた。
見開いた目から、涙がポロポロこぼれ落ちる。
「いや…一緒にいて…ひとりにしないで…」
ちょっと待ってくれ、なんだその反応、まるで別れ話しているカップルじゃないか。
ハンカチで目を覆い、嗚咽を漏らす様は、俺が泣かせてるみたいだ。
しばらく──体感では気が遠くなるほど長く──泣いた後、小川さんは真っ赤な目で謝ってきた。
「すみませんでした、取り乱して。
あの、本当にすみません、厚かましいお願いなんですが、アパートまで送っていただけませんか」
「私が送るより、タクシーの方が…」
「今は、運転手さんと2人きりになるのも怖くて。
お願いします、部屋の前まででいいので」
「こんなおじさんに家教えちゃうことになるけど、いいの?」
「大木さんなら、平気です。
お願いします」
ここまで怯えるってのは、なんなんだ。
暗闇が怖い? でも、いつもコンビニで会う時は真っ暗だ。
若い男が怖いといっても、土田さんも若い男だしなあ。
ああいうナンパに、よっぽどトラウマがあるのか。
さすがに、この状態の小川さんを放り出すわけにはいかないし、仕方がないか。
どうせ枯れたおじさんだしな。
「それじゃあ、部屋の前までなら」
「すみません」
小川さんに案内されながら夜道を歩く。
小川さんは、俺の右腕にしがみつくようにして歩いている。
薄着の時期じゃなくてよかった。
この歳で、今更胸が当たってどうこうということもないが、気まずいだろうことは間違いない。
行きつけのコンビニが同じなんだから予想はできていたが、思った以上に俺のアパートから近かった。
2階の部屋の前まで送り届け、鞄の中を見ないよう、よそを向く。
ごそごそと鞄の中を探る気配の後、カチリと鍵の開く音がした。
「じゃあ、ゆっくり休んで」
俺の仕事はここまでだ。
彼女が部屋に入るのを見届けて帰ろうと思ったが、彼女はなかなか動かない。
「小川さん?」
「あの……すみません、ありがとうございました」
部屋に入っていくのを見ていて、なぜか幼い頃の美奈の姿を思い出した。
「パパ、おやすみ」と言ってリビングを出た時、ドアの隙間からこっちを見ていた姿を。
一緒に寝てほしい、でも自分からは言えない、そんな姿を。
美奈は、甘えん坊だった。
「パパといっしょにねる」と言って甘えていたのが、幼稚園に入ったら我慢するようになって。でも一緒に寝てほしいという想いから、俺から「一緒に寝るか?」と言うのを待っていた。
そんな顔だ。
小川さんは、多分怖くて寂しくて、1人になるのは嫌だが、これ以上迷惑を掛けるわけにはいかない、という状態なんだろう。
だが、仕事繋がりの俺の立場としては、ここは気付かないで帰るのが正解だ。
「それじゃあ」
と背を向けると、背後でドアの閉まる音がした。
これでいい。
所詮は仕事関係の知り合いでしかない。
部屋まで送ったんだから、これ以上干渉するべきじゃない。
だが…。
後ろ歩きでドアの前に戻ると、中から嗚咽が聞こえてくる。
やっぱり。
これ以上踏み込むのは、お互いのためにならない。
美奈の面影を見て、放っておけないだけだとしても、世間的には“親子ほど年の離れた男と女”でしかない。黙って帰るべきだ。
わかってる。わかってるんだ。
でも、小さな子供のように不安な目をしたあの子を放ってはおけない。
一度だけ。
ドアを軽くノックする。
これで反応がなければ、このまま帰ろう。
1…2…3…ガチャリと、ドアが開き、涙でぐちゃぐちゃになったあの子がいた。
目が合うと、胸に飛び込んできて、「帰らないで」と泣きつかれた。
俺は、対応を間違えた。
とりあえず、通路で泣かれていては色々困るので、玄関に入ってドアを閉めた。
しばらく泣かせてやるしかない。
できれば、ひとしきり泣いて落ち着いてもらって、ここで帰りたいところだが。
ドアの鍵を掛けていないのもそのためなんだが、無理だろうと理解している自分がいる。
しがみつかれたことで、震えているのがわかる。
幼い頃の美奈なら、背中をポンポンと叩いたり頭を撫でたりすると落ち着いたんだが、まさかこの子にそんなことをするわけにもいかない。
やったとしても、落ち着くとは限らないが。
「大丈夫、怖くないよ。
ここには怖い人は来ないから」
震えるこの子に声を掛ける。できるだけ優しく。
泣き止みはしたが、まだ震えている。
「怖い、行かないで、捨てないで、ここにいて」
全部は聞き取れないが、傍にいてほしいというようなことをつぶやき続けている。
捨てるってなんだと思ったが、どうも見捨てないでと入り交じっているようだ。
俺が帰ることを恐れているらしい。
危ういな。
枯れてる俺じゃなかったら、これ幸いと襲ってるかもしれない。
俺は……認めよう、この子に美奈を投影しているんだ。
今頃美奈はこの子くらいになっているんだという思いが、この子を他人と切り捨てられない理由になっている。
そんな見方は、この子にも美奈にもひどいことだというのに。
慕われて悪い気はしない。
美奈が本当の娘なら、離婚した後も、時々はこうして会ったりしていたのかもしれない。
いなくなった娘の…最初からいなかった、いたつもりでしかなかった娘の身代わりなんて。
「あの…ごめんなさい、甘えてしまって。
少し落ち着きました。
今、暖房入れますから、コート脱いでください」
「いや、落ち着いたなら帰るから」
「嫌!
…あ…ごめんなさい、ごめんなさい…見捨てないで…置いていかないで…」
また泣き出した。
これは駄目だな。
金曜でよかった。
「わかった。帰らないから、落ち着いて」
「ほんとう?」
涙を溜めた目で見上げられて、庇護欲が湧いてくるとか、本当に俺って奴は。
「本当だから、ほら、涙を拭いて」
帰らないと示すために、コートを脱いだ。
胸のところが濡れている。
「どこにも行かないから、着替えておいで。
あ、いや、トイレ行ってもいいかな」
「え、あ、はい」
今日初めてこの子の笑ったところを見た気がする。
小川さんが着替えて戻ってくるまで、美奈のことを考えていた。
あれから約10年、約束どおり一度も連絡を取っていないし、美里も含めてどこでどうしているかも知らない。
知ろうともしてこなかった。
俺とは血の繋がりのない、托卵されていた娘。
美里は本当の父親が誰か知っていただろうが、俺に托卵するくらいだ、結婚する気はなかったんだろう。
そうすると、美奈は父親が誰か知らないということになる。
小川さんと似たような境遇だな。
まずいな、ますます小川さんを美奈の身代わりにしてそうだ。
それは、小川さんに失礼だ。
あの子は、小川南という1人の人間なんだから。




