合図
今、住職のもとで務めを果たそうとする月之丞の顔には、あの時と同じ微笑みが浮かんでいた。
今度は、その笑みの裏に何が潜んでいるのか。承平にはわからない。ただひとつ確かなのは、月之丞は全てを見通しながら、何も知らぬふりをしているということだ。
承平の恐怖が背中を伝って辰助に流れ込んだのだろう。辰助は承平の首にすがりつき、震える声で叫んだ。
「やだ! じんすけ、にぃといっしょがいい!」
「……うさぎの弟が、ぺらぺら喋っている」
月之丞は目を瞬かせる。まるで乳呑児が突然、言葉を発したのを目の当たりにしたかのような顔だ。小首を傾げ、承平に問う。
「お前の弟は、いくつになった?」
承平に先んじて、辰助が元気よく答える。
「もうすぐ、よっつ!」
三本の指を突き出す。その答えは、三つになった頃からの決まり文句だった。
月之丞は不思議そうに辰助を見つめた。
「へぇ。もう、そんなになるのか……時が経つのは早いものだな」
口調ばかりはしみじみとしている。だが、漆黒の珠のような瞳には、感慨の色など微塵もない。
そのことに、承平はわずかに安堵した。
辰助の存在は、月之丞の眼中にはない。――少なくとも、今のところは。
月之丞は人の理想像に完璧に化ける。
だが、承平や子どもたちの前では、その変化が時折おざなりになる。
誰に取り入るべきかを、月之丞は的確に見極めているのだ。
月之丞には、きっと、それしか残されていないのだと、承平は思う。
――月之丞にとって、おれは「もっとうまく化けるため」の道具でしかない
優しく扱うのは、使い勝手の良い道具を長持ちさせるための、ただの手入れに過ぎない。
その道具に、新たな使い途があると知られたら、どうなることか。
「うさぎ、大丈夫か? 顔が真っ青だぞ」
月之丞は気遣わしげな顔をつくって、承平の頬に触れようとする。承平はぞっとして、その手を振り払い、身を引いた。
その時、下腹に疼い痛みが走り、どろりとしたものが身の内から溢れ出した。内腿を温もりが伝い、ぽたりと、赤い雫が地に落ちた。
月之丞の視線は、承平の身の内から零れ落ちた血溜まりに注がれていた。
それと悟った刹那、承平の顔から血の気がさっと引いた。
住職は、寵愛する美童が女童を辱めるさまを眺めて悦に入る、穢れきった生臭坊主である。しかし、聖域である寺において、そのような戯れは赦されぬ。
そこで、月之丞は承平に目を付けたのだ。
身寄りもなく、孤児として寺に拾われた女童――住職の欲を満たす道具として、これほど好都合なものはない。
女人の忌みが聖域を穢すことも厭わぬ不信心者どもだ。女となったこの身を犯し、孕ませることを、どうして厭うだろう。
風が途絶え、竹の葉がぴたりと止まる。
空気が張りつめ、世界が息を潜めた、その時。
月之丞は髪に挿した黒檀の櫛に手をやり、櫛歯を爪の先で弾いた。
夜を裂くような鋭い音が響く。承平の背筋がふるりと震えた。
「お務め」のある夜は、決まって月之丞の一間へ呼ばれた。
住職のもとへ向かう前に、そこで身を清め、衣を整え、髪を梳かれる。
二人の間に言葉はなく、ただ櫛の歯が髪を滑る音だけが、静寂を満たしていた。
丁寧に髪を梳かれる心地良さに、承平が微睡むその寸前、月之丞はぴたりと手を止める。
櫛を自身の髪に挿し、櫛歯を爪で弾いて鳴らす。その小さな音が、夢見心地の承平を現へ引き戻す。
それが、夜伽の始まりの合図だった。
月之丞は「何の意味もない手遊びだ」と言うが、それは妄言だ。無心に思える仕種も、相手の反応を確かめるための仕掛けに違いない。何せ、月之丞の為すことなのだから。
月之丞は真剣な面持ちで、重々しく肯いた。
「初めての月水が来たのだろう」
「……白々しい。全部、お見通しの癖に」
承平は細る喉を無理に開き、押し殺した声で吐き捨てる。すると、月之丞はきょとんと目を瞬かせる。小首を傾げると、無邪気な笑みがこぼれた。
「うさぎ。お前、俺に神通力でもあると思っているのか? そんなもの、あったら苦労はせぬさ。ただ、少しばかり、鼻が利くだけだ。風の匂いも血の匂いも、みな嗅ぎ分けられる」
月之丞は鼻尖をとんとんと叩き、朗らかに笑う。月之丞をよく知らぬ者ならば、この笑みを疑いはしないだろう。
――疑うも何もねぇ。こいつの言葉は撒き餌だ。獲物を誘き寄せて、喰っちまおうって腹だ。嘘も真もありゃしねぇ
「……化け狐め」
承平は苦し紛れに悪態をついた。
いつもの月之丞ならば、これしきの言葉など、一笑に付して聞き流しただろう。
ところが、この夜に限って、そうはならなかった。
「化け狐?」
月之丞は、くつくつと喉の奥で笑った。その声は砂を噛んだように、かすかにざらついていた。




