迎え
莞爾と微笑むその姿は漆黒の闇を纏い、彼方の月のように美しい。水面の月と思われた白蓮さえ、彼の前では霞んでしまう。
夜風が月之丞の髪を靡かせる。雲間から差す月光が、紅葉の赤や橙の色彩を含み、月之丞に降り注ぐ。それは、不吉と不穏の影を幾重にも折り重ねるかのようだった。
承平に向けられる、月之丞の眼差しは慈しみに満ちている。けれど、その精緻な微笑は彼が身に纏うほのかな檀香の香のように、儚い余韻を残して、今にも消え入りそうだった。
それが、とても恐ろしい。
承平は立ち止まり、辰助を背中に抱きしめる。総身が震え、止めようにも止められない。
――待ち伏せされていた。どうしよう、どうすれば……
月之丞は、承平の身体が女として花開いたことを、承平自身より先に知っていた。子を孕めるようになった承平が、その事実に恐れをなして、「お務め」の前に寺から逃げようとすることも予期していたのだ。承平が練りに練った逃走経路もまた、月之丞にはお見通しだった。
とどのつまり、承平の逃亡を阻止する為に、月之丞は今この場にいるのである。
月之丞は、その美貌に屈託のない笑みを花のように咲かせた。その笑顔が承平の心に食い込むと知っていて、あえてそうするのだ。
三年前、月之丞が初めて見せた笑顔が、まさにこれだった。
月之丞が笑ってくれた。それが承平にとって、どれほど嬉しいことだったか。
月之丞には、きっと一生、わかるまいと承平は思う。
月之丞はゆるりと歩み寄って来る。裾が石畳をすべるたび、まるで闇の中に月影が揺れるかのようだ。承平のすぐそばまで来ると、彼は腰を屈めて、目線の高さを合わせた。
「やぁ、うさぎ。こんな夜更けに、こんなところで、何をしているんだ?」
うさぎ。月之丞は承平と二人きりになると、この呼び名で承平を呼ぶ。
三年前、二人は銀狼山の麓で出会った。
当時の月之丞――辰は、小さくて痩せっぽっちで、まだ言葉を知らぬ幼子のようだった。桔梗より二つ年上ながら、その面差しはむしろ、二つも三つも年下の子のようにあどけない。
感情を知らぬかのように、誰に何をされても、笑いも泣きもしなかった。物を知らぬかのように、何を見聞きしても、不思議そうに首を傾げるばかりだった。
桔梗はそんな辰を弟のように思い、手を引いてあちらこちらへ連れ歩き、色々なことを教えた。
「あれは兎、これは桔梗の花。桔梗はあたしの花だよ」
桔梗の花を指してそう言うと、辰は桔梗の花弁をそっと摘み
「あれはうさぎ。これはききょうの花。……お前の花は、うさぎの耳みたいだ」
と言った。
それから、辰は「桔梗」を「うさぎ」と呼ぶようになった。その呼び名は「辰」が「月之丞」になり「桔梗」が「承平」になっても変わらなかった。
二人の関係が、姉弟のような遊び仲間から、狐と鼠のような歪んだものへと変わってしまっても、それだけは今も変わらない。
月之丞は辛抱強く、承平の返事を待っていた。完璧な微笑みは微動だにしない。
承平の強張った頬を、背後から伸びてきた小さな手がぺちぺちと叩いた。
「にぃ? どしたの? なんで、おへんじ、ないの? なんでぇ? だいじょぶ?」
月之丞はそこで初めて、辰助の存在に気が付いたと言わんばかりに目を丸くする。
「弟も一緒か。あやしていたのか? 珍しいな。近頃は、寝入りに愚図らなくなったと、お前が言っていたのに」
月之丞の注意が辰助に向いたとき、承平は背筋が凍る思いがした。思わず後ずさる。
月之丞は首を傾げたが、間合いを詰めようとはしなかった。
「そろそろ和尚様の御座所へ参らねば。遅参しては恐れ多いこと」
そう言って、月之丞はまるで何事もないように微笑み、辰助に目をやって軽く顎をしゃくった。
「弟は、あの寺男に預けるといい。いつも迎えに遣っている、白髪の老爺だ。名は……何と申したか……いや、些事よな。あれは無口でよく働き、余計なことは決してせぬ。子守りくらいは造作もあるまい。では、参ろうか」
それを言うなら、子守りではなく見張りだ。そう思っても、口には出せなかった。
月之丞の声音に、拒む隙はなかった。承平の返事など待つまでもないと言わんばかりに、既に歩き出している。
承平は動けなかった。あの背に付き従えば、その先には、二度と這い出ることも叶わぬ地獄が口を開けている。
月之丞に逆らうのは恐ろしい。だが、どれほど恐ろしくても、弟を道連れにするわけにはいかぬ。
月之丞は三歩だけ進み、ぴたりと歩みを止めた。ゆっくりと振り返り、獲物を見定める梟のように首を傾げる。
「うさぎ。どうした? さあ、参るぞ」
そう言って、月之丞は手を差し伸べた。今度はとびきり優しい微笑みを浮かべて。




