月が見ている
障子を抜けると、板張りの廊下の冷たさが足裏を刺した。軋む音を恐れながらひたひたと進み、縁側に出る。
ひんやりとした夜風が首筋を撫でてゆく。承平は思わず首をすくめた。
秋の夜はひっそりと冷え込む。衣の隙間から冷気が忍び込み、背筋にぞくりと震えが走る。
――思いのほか冷える。辰助、寒がってないかな? ぶくぶく着膨れさせるのはどうかと思ったんだけど……やっぱり、おれのも羽織らせておくか
承平は声を潜めて、辰助に訊ねた。
「辰助、寒くないか? 大丈夫?」
「ん……だいじょぶ……」
むにゃむにゃと答える辰助は、こっくりこっくりと舟を漕ぎ、今にも眠りに落ちそうだ。承平は頷いた。
「そっか。寒くなったら教えてな。大丈夫なら、寝てても良いぞ」
「んー……」
辰助の返事は尻すぼみに消え入り、小さな寝息に変わった。承平はつい口元を緩める。
――おっと、いけねぇ。和んでる場合じゃねぇぞ。急がねぇと
縁側の端に置かれた草鞋を手に取り地面に置くと、足先を素早く鼻緒へ滑り込ませた。指の間にきゅっと緒が食い込む。
かかとを叩き込むように収めると、草履が軽く軋み、緊張の糸がぴんと張り詰める。
しゃり、しゃり。草鞋の音を忍ばせながら、承平は月下の夜闇へ足を踏み出した。
震える息を押し殺し、月明かりに照らされた庭を慎重に進む。石畳の小道を一歩ずつ確かめながら先へ。
風に散る紅葉が水路に落ち、かすかな水音が夜を導いている。
境内には井戸と池が備えられており、余水や雨水を谷筋を通して流すために水路が引かれている。水路は麓の人里の、水田の用水路に合流するそうだ。
――裏口だ。裏口なら、内側から閂をかけるだけで見張りは立たないって、寺男達が話してた。水路の流れに沿って下れば、裏山を抜けて人里へ出られる。僧兵が陣取ってる山門を出るより、ずっと人目につかない
夜空に架かる満月が、苔むした石段や瓦屋根を照らし、朱塗りの門や鐘楼の影を長く伸ばす。
満天の星空の下、紅葉がひらひらと舞い落ちる寺院の境内。満月は、逃げ行く二人を逃すまいと追いかけて来るかのようだった。
直に、初更の鐘が鳴る。
夜の境内は人の気配がない。ただ風にそよぐ木々のざわめきと、遠くで梵鐘が風に揺れる音が、かすかに響くばかり。承平は息をひそめ、軒下を伝い歩いた。
僧侶と小僧たちは座禅に没頭し、住職は庫裡で勤行をしている。
夜守の僧兵は庭園を巡回しているが、石垣に隠れればやりすごせるはずだ。
足音を忍ばせながら、承平は山門とは反対の裏口へと向かう。
参道には石畳が敷かれ、両脇には杉と楓が立ち並ぶ。月光が葉の間を抜け、落ち葉と苔の混ざった地面に細やかな影を落とす。石灯籠は静かに並び、遠くから水路のせせらぎが聞こえた。
塀の角で一度立ち止まる。息を殺し、目を凝らし、耳を澄まし、人の気配がないことを確かめ、再び歩き出した。
初更の鐘が一つ、重々しく響き渡る。承平の胸の内で心臓が早鐘を打つ。
顔を上げると、経蔵の屋根の向こうに、月明かりに照らされた裏山の稜線が見えた。
――焦るな。ここから裏口まで、そう遠くない。裏口から外に出られれば、こっちのもんだ
承平は小さく息を吐き、先に進む。
鐘の余韻が境内の影を震わせ、夜の静けさをいっそう深める。
庫裏の軒先に沿う水路は、闇に溶け込みながら裏口へと続く。濡れた石に足を滑らせぬよう、慎重に進む。風にたなびく雲が月を覆い、その輪郭を朧にした。地上の闇がいっそう深まる。
水路の浅瀬には白蓮が咲き、水面の月であるかのように白く浮かんでいた。落ち葉を踏む音は、せせらぎと夜の静寂に紛れる。
夜守の僧兵は庭園を巡回している。僧侶も小僧も住職も、務めがあるので表には出ない。寺男も稚児も、寝支度を済ませ、眠りに就く頃合だ。水路沿いを歩けば、誰にも出会すことはあるまい。
それでも、安心するにはまだ早い。ここはまだ境内なのだから。
月之丞は、承平の身体に起きた変化を察知していた。もぬけの殻となった寝床を検めるまでもなく、承平の逃走を予見しているかもしれない。
下腹が重苦しく疼痛を訴える。それでも足を止められない。
本堂の方からは、梵鐘の残響がまだ微かに揺れている。
承平は出来る限り息を潜め、足音を忍ばせる。
闇の中の一音一音が胸を突き上げ、心臓の鼓動や血の巡る音さえ、僧兵に聞きつけられるのではと思い、恐ろしくなる。
承平が先を急いでいると、一陣の夜風が吹き抜け、薄雲を押し流す。望月が夜天に明るく輝いた。
「わぁ……おつきさま、まんまる! おっきいねぇ」
背に負った辰助が小さく感嘆の声を上げた。承平が肩越しに振り返ると、辰助は目をぱっちりと開き、夜空に架かる満月を見上げていた。夜風の冷たさに眠気を吹き飛ばされて、目が冴えたらしい。
辰助は満月を指差し、歌い出す。
「うさぎ、うさぎ、ぴょんぴょん、はねる。やまこえて、ぴょん。たにこえて、ぴょん。ぴょんと、はねる。ぴょんぴょん、はねる。たかく、はねたら、つきまで、はねる」
爛々と目を輝かせ、お気に入りの童歌を口遊む。身体を弾ませたり、足をばたつかせたりしている。
初めての「夜のお出かけ」にうきうきしていて、じっとしていられないようだ。
承平はこの歌が嫌いだった。この歌は月之丞を思い出させる。辰助がこの童歌を歌うたび、心の中で耳を塞いでいた。
しかし、今はそれどころではない。止めねばと思いながら、驚きのあまり反応が遅れた。
このままでは、巡回の僧兵が無邪気な歌声を聞きつけ、駆け付けて来るだろう。そうなれば一巻の終わりだ。
承平は慌てて人差し指を唇に当て、噛んで含めるように、辰助に言い聞かせた。
「辰助、しーっ。お願いだから、今は静かにしてて」
「しーっ? ひそひそこえで、おはなし?」
「そうそう。どう? 出来る?」
「うん、できる! しーっ」
辰助は素直にこくりと頷き、承平の真似をしてひそひそ声で答える。
承平はひとまず安堵した。辰助は聞き分けの良い子だ。そのお陰で、これまで何度も助けられてきた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
辰助はにこにこと笑っている。夜闇を怖がるだろうと言う承平の懸念は、どうやら杞憂だったらしい。
――平気そうで、安心した。怖がらせるのは、不憫だからな
承平が辰助に微笑み返した、その時。風がごうと唸りを上げ、落ち葉を舞い上げた。雲が流れて月を覆い隠すと、あたりはたちまち闇に沈んだ。
「……わっ、くらい……」
辰助の声が震える。さっきまで楽しそうにはしゃいでいた顔が、みるみるうちに曇っていく。
辰助は承平にぴったりと身を寄せ、小さな手で背にしがみついた。その震えが背中に伝わってくる。承平はひっそりと苦笑する。
――ありゃりゃ。やっぱり、だめか
承平は辰助の尻をとんとんと軽く叩いた。
「大丈夫、大丈夫。にいが一緒にいる。怖くない、怖くない」
赤ん坊の辰助をあやしたように宥めると、辰助の震えは徐々におさまってゆく。
「……うん。にぃと、いっしょ。しーっ、だよ。ね?」
小さな声。怯えながらも、言いつけを守ろうとする健気さが胸に迫る。
承平は頬を緩めそうになるのをぐっと堪え、辰助の尻をもう一度とんとんと叩いた。
辰助はくすぐったそうに笑い、承平の肩に顎を乗せた。承平の顔を覗き込み、首を傾げる。
「にぃは? だいじょぶ? こわくない? おぼう(お坊)、もどろっか?」
「……戻らないよ。もう、あそこには戻らない」
「そっかぁ」
辰助の間延びした返事を聞いて、承平は心を痛める。辰助にはこれから苦労をかけてしまうだろう。それに、ここを出るということは、辰助を可愛がってくれた人達との縁を切ることでもある。
――大好きなおつね婆に、もう会えないって知ったら……辰助、寂しがるだろうな。おつね婆にも、申し訳が立たねぇや。あんなに世話になったのに、黙った出て行くってんだから……おれは、とんでもねぇ薄情者だな
それでも、承平と辰助はこれ以上、ここに留まることは出来ない。
一年前、野伏の襲撃によって両親と故郷を失った時、辰助は二歳の乳呑児だった。十三歳の女童が乳呑児を抱え、誰にも頼らず二人で生きていくことは出来なかった。
だから、承平はこの寺に身を寄せた。この身を切り売りすることになっても、辰助と共に生きられるのなら、それで良かった。
しかし、今ならば、きっと二人で生きてゆける。承平はこの二年間、死に物狂いで生きる術を学んできた。いつかこの日が来ると覚悟していたから。
杉や楓の合間に光る月影を頼りに、先を急ぐ。枯れ葉を踏む音は小さくとも、承平の耳を劈き心臓を破る程、大きく響くようだった。辰助は承平の背に身を委ね、大人しくしている。
「大丈夫だ、辰助。これからのことは、にいが何とかする。だから、大丈夫。大丈夫だよ」
承平は低く呟いた。辰助に語りかけると言うより、自分自身に言い聞かせる言葉だった。
水路に沿って進み、二人は竹林に足を踏み入れる。竹林の影がざわめき、紅葉の葉がひらひらと舞う。薄暗いその奥、水路の脇に、ひっそりと立つ後ろ姿があった。その髪は油で整えられ、月をうつした水面のようにぼんやりと光る。
承平の心臓が、臆病な小兎のように跳ねた。
「……月之丞」
蚊の鳴くような声でその名を呼ぶ。月之丞はゆっくりと肩を回して振り返った。




