逃走
承平は辰助の寝顔を見つめる。ふくふくとした頬を指で突くと、辰助は擽ったそうに笑った。笑っている場合ではないのに、愛くるしい笑顔につられて、笑ってしまう。
もしここに留まれば、この子の未来がどうなるか。想像するだけで震える手が悴む。
時間が押し迫っている。「お務め」の迎えが来る前に、童子房を抜け出ねばならない。
辰助の肩をそっと揺すり、小声で囁く。
「辰助、起きて」
辰助の睫毛がぴくりと震える。筵の上でぞもぞと身じろぎ、膠でくっついたように閉ざされた瞼を開く。まだ夢の中から抜け出しきれないらしく、とろんとした瞳は焦点を結んでいない。
「んー……ん? ……にぃ? なぁに?」
か細い声は眠気にとけて、舌足らずに零れ落ちる。辰助は小さな手で目をこすり、そのまま承平の胸元へすり寄った。
「……にぃ、ねれないの? だいじょぶ? とんとん、したげよっか?」
そう言うと、承平の背中に手を回し、拍子をとってとんとんと叩く。寝惚けて愚図る辰助をあやす、承平の仕草を真似ているのだ。近頃、辰助は「にぃのまねっこ」に凝っていて、何かにつけて承平の真似をしたがる。
まだ頼りない小さな手が、背中でぽんぽんと弾む。そのぎこちない拍子に愛おしさが募り、胸がぎゅうっと締め付けられる。承平は思わず辰助を抱き寄せた。
「大丈夫、にいは大丈夫。ありがとう、辰助」
ふわふわと柔らかく、ほかほかとあたたかい、幼い体が承平にくっつき、汗ばむ首筋に頬擦りをした。まだ眠気に半ば沈んでいる瞳が、もやの中で小さくきらめく。
承平は甚助の額に額を寄せる。寝惚け眼を覗き込み、人差し指を立てると、声を潜める。
「辰助、しー、だよ。今から、皆には内緒で、にいとお出かけするんだ」
「しー……おでかけ?」
「そう。お外は暗いけど、大丈夫だぞ。にいがついてる」
辰助は承平の真似をして人差し指を立てて、小首を傾げる。まだぼんやりしているけれど、少しずつ、承平の言葉を理解したようだ。
「うん、だいじょぶ。にぃといっしょ」
にっこりと笑う。期待に満ちて輝く無垢な笑顔の眩さに、承平は目を細めた。
二人の行く道は長く険しい。先に何が待ち受けるのかわからない。
それでも、今はこの掛け替えのないぬくもりに、じんわりとあたためられる。
辰助を抱き上げて立たせると、まずは筵の下に隠しておいた粗衣を取り出した。寺から支給されたもので、色褪せて粗末な布地だが、替えがあるだけだけでも心強い。逃げるのに必要なのは食い扶持だけではない。せめて着替えくらいはと、切実に思う。
辰助には重ね着をさせ、自分の分は適当な布で包んで小さくまとめる。人里に出る前に、血の染んだ衣を脱ぎ捨てて着替えるつもりだ。月水で汚れた衣のまま外に出るのは心細いけれど、裏山に出て一息つけるようになるまでの辛抱である。
次に、枕元に置いていた晒を手に取り、手早く広げる。辰助に背を向け、腰を落とした。辰助を背負い、晒の真中に辰助の背を包む。両端をぐるりと前に回して胸の前で交差させてから、肩に掛けて後に回して背で交差させる。仕上げに両端を脇で固結びにすれば、辰助の小さな体が背にぴたりと密着し、承平の両手が空いた。着替えは脇に括り付けておく。
辰助は全身の力を抜いて承平に身を委ねている。手足がぷらぷらと揺れていた。
弟の重みが直に背にのしかかり、承平は気を引き締める。
「……よし」
最後に、筵の下から米と乾物を入れた布袋と懐刀を引っ張り出し、懐に忍ばせた。
米と乾物は台所から、懐刀は僧房からくすね、隠し持っていたものだ。
いざとなったら、いつでも逃げられるように、備えていたのだ。
薄暗い童子房には、寝息が幾重にも重なっていた。寺童たちは筵を並べた上に雑魚寝している。誰かが寝返りを打つたび、畳がきしむ音が薄闇に響く。
ここに月之丞の姿はない。彼には別の部屋が与えられている。今頃は住職の近く、灯火の絶えぬ奥の一室で休んでいるだろう。今宵の「お務め」まで、しばしの猶予がある。
承平は息を詰めて、ゆっくりと立ち上がる。晒しでしっかりと固定された辰助は、大人しく背に凭れている。
そろり、そろりと足を運ぶ。衣擦れの音ひとつさえ、大きく響く夜の静寂。畳の縁を踏まぬよう気を配りながら、年長の寺童たちの傍らをすり抜ける。
月之丞の添え物に過ぎぬ承平を、何かと疎んでいたのは、何も稚児だけではない。彼らの寝顔を目にした途端、胸の奥がざわめいた。
一年前は、夜泣きする辰助をあやす為、毎晩のように、辰助を抱いて僧房を抜け出していた。今ここで見咎められたとしても、辰助が愚図るのだと言えば、言い訳が立つ……だろうか。
――わからねぇ。ここ最近、辰助はおれが一緒に寝てれば滅多に愚図らなくなったし、愚図っても背中をとんとんしてやればすぐおさまった。お務めのある夜は迎えが来るし……こんな時間に辰助を連れて出歩くのは、やっぱり、おかしいかな
承平は視線を逸らし、唇を噛みしめる。見つからないに越したことはない。
忍び足で進んでいると、背後から小さな声がした。
「ねぇねぇ、にぃ? おでかけ、どこいくの?」
心臓が蚤のように高く跳ねた。
承平は息を殺して立ち止まり、周囲の寝息に耳を澄ます。誰も目を覚ました様子はない。
胸をなで下ろしつつ、承平は肩越しに振り返る。
「しっ……」
唇の前に人差し指を立てる。辰助の瞳がまん丸に見開かれた。
「静かに。みんな、寝てるから」
囁くように言い聞かせると、辰助は目をぱちくりさせた。それから「しー」と小声で言って、口を噤む。
承平は辰助の頬にかかった前髪をそっと撫で上げ、再び歩き出した。
寝息の合間に、畳の軋む微かな音が混じる。
やがて、障子の桟に指先が触れた。冷たさが骨身に沁みた。ここを開け放てば、もう後戻りはできない。
承平は振り返らなかった。音を立てぬよう障子を引き、童子房を後にした。




