即折
名残惜しげに月之丞の唇を凝視する住職へ、月之丞は微笑みかける。
「美味しゅう御座います」
飴よりも甘く蕩ける声調に、白面に花開く微笑。その一滴一片で、住職の威厳は脆くも崩れ落ちる。僧形を忘れ、愚かな男に成り下がるのだ。
すっかり骨抜きにされた住職は、年甲斐もなく頬を染め、恍惚の笑みを浮かべている。
しばらくして、住職は猫撫声を漏らした。
「そうか、そうか。食べきれない分は包んで、後に味わうと良い」
月之丞は畳に両手をつき、淑やかに頭を下げる。
「ありがたく」
顔を上げると、礼儀に愛想を添える。懐紙を取り出し、唐菓子をひとつひとつ、丁寧に包んでゆく。
住職は満足げに頷いた。手ずから分け与えた供物の残りが、ことごとく承平と辰助に回されることなど、知る由もない。
月之丞は住職から唐果物を賜るたび、決まって承平にそれを押し付けた。
「これをやろう。甘くて旨いそうだ。弟と二人でお食べ。……俺? 俺はよい。甘いだの旨いだの、俺にはどうにもわからんのでな」
などと、毎度のように、同じことを言いながら。
唐果物は贅沢品。慎ましく暮らす庶民の口にはまず入らぬ代物だ。寺童に分け与えれば、歓声と共に喜ばれるだろう。
しかし、月之丞は承平にだけそれを与える。「皆には内緒だぞ」と唇に人差し指を当てて。露骨な特別扱いだった。
承平は理解している。月之丞のこれは幼馴染の情ではない。今のところ、代えが利かぬ手駒だからこそ、懐柔しておくに過ぎないのだ。
それでも、辰助が唐果物を頬張り
「あまい! にぃ、これ、あまいね! すごい、あまい!」
と目を輝かせる様子を見てしまえば。
散々擦り減らせた矜持にしがみついて「施しなんざ要らねぇ」と突っぱねるなんてことは、途方もなく馬鹿らしく思えてしまう。
承平にとって承平は、唯一の心の拠り所だ。どんなに辛くても、辰助の喜ぶ顔を思えば耐えられる。
その時、月之丞の思い掛けない言葉が、夢の水面に波紋を落とした。
「ときに、和尚様。桔梗の花が咲いたようです」
桔梗と聞いて、肩が跳ね上がる。
――びくびくするな。奴らは花の話をしてるんだ。あたしの名前を呼んだわけじゃない。そもそも、あたし……おれの名前は承平だ。おとうの名前を貰って、強く生きるって誓った。そうだろ、承平。しゃんとしろ
自分自身にそう言い聞かせながらも、二人の会話に耳をそばだてずにはいられない。
住職は煙管の先の灰をひとつ落とし、月之丞の微笑を見やった。
「ほう。花の時節には早かろうが、時に花は人の暦に従わぬ」
今は秋。桔梗は盛夏から初秋に花咲き見頃を迎え、紅葉の季節には既に散っている。
――狂い咲きの桔梗が、ぽつんと咲くこともあるのかもしれない
承平は箒の柄を握り直し、また砂利を掃く。そうしていると、とある疑問が浮かんだ。
――あれ? でも、おかしいな。この庭に桔梗は植わってない筈だけど
庭を見回しても、桔梗らしき花はどこにも見当たらない。稚児たちも怪訝な顔をしている。
そこで、思い掛けず月之丞の視線に絡め取られた。心臓が跳ねるのと同時に、下腹がずしりと重くなる。縄を打たれ締め付けられるような苦しさもある。鈍い痛みが臍の奥から迫り上がり、承平は思わず箒の柄に凭れて呻いた。冷たい汗が額を濡らす。
――なに? なんだ、これ? 体がおかしい
月之丞は承平の苦悶を眺めている。彼の微笑は庇護者の慈しみに満ちているが、瞳の奥に、夜走する獣のそれのような鋭さが閃いた。承平の背筋が凍る。
月之丞は花瞼を下ろし、交わる視線を断つ。長い睫毛が頬に落とす、青い影さえ美しい。
住職が彼の美貌に見惚れているうちに、月之丞は目を開く。ゆっくりと瞬きをしてから微笑みを深め、住職の耳許に唇を寄せた。
月之丞の囁きは、不思議とよく通り、承平の耳にも届く。
「蕾は密かに膨らむもの。人知れず、ふっと花開くこともございます。今宵にも、御覧に入れましょうか」
花の話としての体裁を整えつつ、不穏と淫靡の響きを隠そうともしない。
住職が煙管をふかし、煙をゆっくりと吐いた。白い渦が風にたなびくと、月之丞の表情に白い靄がかかり、言葉の輪郭をも暈す。
住職はしばし瞑目し、紫煙を胸の奥で味わうと、月之丞を流し見て、言った。
「花は良い。だが扱いが難しい。いつどうするか、よく考えねばならぬ。しかし、そうさな」
言葉は簡潔だが、含みは深かった。承平の肌がざわめき、下腹の重さと痛みが増す。もう、立っているのがやっとだった。
住職は煙管を傍らに置いた。右手で左手の甲の皺をゆっくり伸ばす。
「そなたがそう言うのなら、今宵、確かめてみようではないか」
住職は煙管を傍らに置き、月之丞を手招いた。月之丞は招かれるまままにじり寄る。枯れた手が、月之丞の膝に触れる。くるりと円を描きながら、まるで舌で味わうかのように、太腿の内側を撫で上げてゆく。
月之丞はその手を拒まず、むしろ、住職の執拗な眼差しを正面から受け止め、受け容れる。白面に彫り刻まれたような笑みは、蠱惑の極みである。見る者の内奥に潜む欲望を暴き出し駆り立てる艶美が、仏の座の浄域におどろおどろしい影を落とす。
「左様に」
そう言って、月之丞は住職の肩に身を預ける。すぐにぱっと身を引いて、触れ合うか触れ合わないか、絶妙な間合いをとる。わずかに洩らす吐息が住職の耳朶をくすぐる。
住職は呆気にとられた後、鼻息荒く月之丞を抱き寄せようとその手を伸ばす。
しかし、月之丞はあたかも鬼遊びに興じる童のように、ひらりと身を躱してしまう。
目の前にぶら下げられた餌を、飛び付いた途端に取り上げられてしまい、住職はいささかむっとした様子である。そのくすべ顔をまじまじと眺め、月之丞はいたずらな笑みを浮かべる。くすくすとした含み笑いが住職の肋の奥を擽り、兆した不満をあっさり溶かし、どろりと滴らせる。弄ばれる程に、ますますのめり込む。
紫煙は風に流され、金木犀の香と混じり合う。庭の空気は、いつもより重く冷たい。
承平は箒を握り直すと、そそくさと台所の奥へ下がった。月之丞から遠ざかっても、彼の言葉が耳から離れない。
「今宵にも、御覧に入れましょうか」
承平の鼓動は高鳴り、下腹の鈍痛は治まらない。
――たぶん、今宵はお呼びがかかる
過去に置き去りにした「桔梗」の名と、自分の体の変化が結びつこうとしている。それは、胸の奥がひりつくような恐怖を生み出した。




