母
辰は、誰にも望まれぬ子だった。
母は、銀狼屋の使え筋の家に生まれ、同じく主家に仕える家の息子と縁組が定まっていた。
ところが、内儀奉公として銀狼屋の屋敷に上がった折、その主人に手を付けられ、身籠った末に実家へ追い返された。
母と許婚は想いを通わせていたが、庶子を身籠ったことで縁組は破談とされた。
母も祖父母も、主人を恨みはしたが、それを口にすることは許されなかった。
その鬱屈の鋒が、辰へ向けられたのは、避けようのない成り行きだった。
辰は家の者、皆に疎まれていた。物心つく頃には母屋から追い出され、裏手にある小さな納屋で寝起きするようになった。母屋に呼ばれることはなく、立ち入ることも許されなかった。
祖父母は辰を生かしてはくれたが、慈しみは与えなかった。祖父は辰をいないものとして扱い、祖母は辰が目につくたび「すべてお前のせいだ」と辰を責めた。
母の憎悪はさらに激しかった。
笑えば叩かれ、泣けば怒鳴られ、声を立てれば折檻された。何をしても、結末は同じだった。
やがて、辰は悟った。
どうせ何をしても厭われる。ならば、何もしないほうがましだ。
じっと息を殺していれば、いないものとして、忘れてもらえる。
辰はいないものとされるべきだ。何故なら、辰は誰にも望まれない子なのだから。
母にとっても己にとっても、それが最良の選択なのだと、辰は信じていた。
あれは、辰が六つになった年、花の季節。
母は夜更けに家を抜け出した。闇に溶けるように遠ざかる母の後ろ姿を、辰は納屋の戸の隙間から見送った。
明け方、母がいないことに気付いた祖父母は動揺し、家中を探し回った。祖父が納屋に足を運んだのは、この時が最初で最後だった。
母が戻ってきたのは日が高く昇る頃だった。足袋は泥に塗れ、穴が空き、白い指がのぞいていた。
母はふらふらと納屋に向かって来た。乱れ髪の向こうから突き立てられる眼差しには、尋常ならざる怨念が込められていた。
――辰は「死ぬ」んだ。母さまは、辰を「殺す」んだ
この時の辰は、「死ぬ」「殺す」を正しく理解してはいなかった。
ただ、母に「死んでしまえ」「殺してしまいたい」と繰り返し言われていたため、「死ぬ」は消えて失くなることで、「殺す」は消して失くすことだと、ぼんやりと捉えていた。
しかし、辰を縊り殺そうとしたであろう母の手は、辰には届かなかった。母は辰のもとに辿り着く前に力尽き、その場にへたりこんだ。
娘を見つけた祖父は激怒した。「この恥晒し」と母を怒鳴りつけ、その頬を打つ。
祖母は母を庇い「可哀想な娘に何という仕打ちをするの」と祖父を詰ったが、祖父の怒りはなかなか収まらなかった。
祖父母が諍う間、母は心ここにあらずと言った様子で、ぼんやりと明け方の空を仰いでいた。
辰はそれを、納屋の戸の隙間から見ていた。母とは、もう、目が合わなかった。
その夜。
辰はいつものように膝を抱え、壁際に身を寄せていた。
声を上げてはいけない。物音を立ててもいけない。息を潜めてじっとしていなければならない。
そうしていれば、誰にも気付かれない。
気付かれなければ、母が辰のもとへ来ることはない。
その夜はなかなか寝付けなかった。明け方になり、ようやくやって来た微睡みに身を委ねようとしたところで、納屋の戸が開かれた。
顔を上げると、行燈を手にした母が、ちょうど納屋に足を踏み入れたところだった。
辰を見下したまま、後ろ手で戸を閉める。
行燈の光が揺れるたび、壁に伸びた母の影が歪む。
辰は俯き、身を強張らせた。眠気は何処かへ吹き飛んでいった。
母が辰のもとを訪れる理由は限られている。
笑ってはいけない、泣いてもいけない。ただ黙っていれば折檻は短く済む。母が辰を「殺す」為に来たのだとしても、大人しくしていれば、手短に済ませてくれるだろう。
行燈の火が揺れぬよう、母の癪に触らぬように。
辰は息を詰め、胸を抑えた。
これ以上、母に恨まれてはいけないのだ。
ところがその日に限って、母は辰を打ったり、怒鳴りつけたりしなかった。
ただ虚ろな目で辰を見つめた。
「……あの人は、私の許婚なのよ……」
母は、誰に言うでもなく、ぽつりと呟いた。
「そうよ、あの人は……私のもの……他の女なんて、あてがわれただけで……」
訥々と語る声は、這うように低い。
母はその場に端座し、辰を呼んだ。
「辰……おいで」
その声は、ひどく甘かった。




