決別
月之丞は伏し目がちに唇を閉ざした。
黒瞳が承平から逃げるように逸らされる。伏せられた睫毛が翳りを落とし、瞳に射していた僅かな光を遮った。
やがて、小さな声でぽつりと呟いた。
「……ままならねぇもんだな」
その声音は、奇妙なほど凪いでいて、どこか寂しげだった。
その情が真であるのか、偽であるのか。
弟のように想っていた辰の心が、今はまるで分からない。それが、ひどく悲しい。
承平は唇を噛み締め、頭を振った。目頭に溜まった涙が零れ落ちて、頬を伝う。
月之丞は、承平の頬に手を伸ばした。指先が触れそうになり、承平は竦み上がる。
月之丞の動きがぴたりと止まった。そして無言、無表情のまま、手を引いた。
月之丞は行き場のない手を、じっと見ていた。
しばらくして、手の甲で無造作に自身の頰を拭う。傷口は潤み、血が滲んでいる。
平然としてはいるが、決して浅い傷ではない。月之丞を傷つけたという事実を、改めて突きつけられた気がした。
承平は恐れ慄き、竹林へ駆け込もうとした。
だが、すれ違いざま、月之丞に左腕を掴まれる。その掌はじっとりと汗ばみ、肌に吸い付くようだった。
承平は総毛立つ。
「待て」
「やっ……!」
半狂乱になって暴れ、必死に月之丞の手を振り解こうとする。だが、いくら痩身とはいえ男の力だ。小娘の細腕では抗いようもない。
無意識のうちに、承平は竹林の向こう、水路のある方へ目を向けた。
あと一息で、ここからも、月之丞からも、逃げられるのに。
その視線を追った月之丞が、あっさりと手を放した。
突然の解放に、承平は呆然と立ち尽くす。
手形として肌に残る温もりを、冷たい夜風が奪っていく。承平は思わず、掴まれていた腕を擦った。
月之丞は水路の方を見遣り、低く言った。
「……夜闇に紛れて裏口を抜け、水路に沿って人里へ下りる。弟を連れて逃げるなら、それしかない」
月之丞はそこで、一拍置いた。
「ただし」
月之丞は竹林の向こうを指差す。
目を凝らすと、手松明の灯りが風に揺れている。
「裏口には見張りが立っている。ついこの間、麓の村が野伏に襲われたそうでな。今は、どこも警戒が厳しい」
承平は拳を握り締めたまま、立ち尽くした。
そんなことになっているなど、知らなかった。
己の浅はかさを、呪うしかなかった。
「にぃ……? にぃ、だいじょぶ? ないちゃった?」
辰助の小さな手が、血の気を失った頬をぺちぺちと叩く。承平は考えるより先に、小さな手をぎゅっと握った。
月之丞は、承平をじっと見つめていた。
逃げ場のない沈黙の後、口を開く。
「俺が見張りを引きつける」
承平は目を瞠った。思いもよらぬ言葉に、耳を疑わずにはいられなかった。
承平の頭が真っ白になる。月之丞は顎を引いた。
「麓は茶屋町だ。女だと知れれば、俺にされていたようなことを、見知らぬ男にされる」
そう言って、月之丞は唇の端を吊り上げた。
「……せっかく俺から離れられるんだ。他の男の相手をさせられるなんて、御免だろう?」
冗談めかした口調。
だが、その目は、承平の行く末を真剣に見据えている。
「町へ下りても、寺童の格好のままでいろ。どこから来たと訊ねられたら、山の寺だと答えろ。寺童をしていたと言えば、女だとは思われまい」
有無を言わせぬ口調に、承平は思わず肯く。
月之丞は「よし」と肯いた。
「それと、これは餞別だ。持っていけ」
腰に下げていた数珠を外し、承平に差し出す。
「これがあれば、寺童だと通りがいいし、当座の銭になる」
突然のことに理解が追いつかず、承平は動けない。そんな承平に、月之丞は倦んだ目を向けた。数珠の房を摘み、承平の鼻先に吊り下げる。そして、ぱっと手を放した。承平は地に落ちようとする数珠を、咄嗟に掌で受け止める。
承平は数珠から月之丞に視線を上げるが、月之丞はすっと視線をそらし、承平と目を合わせようとしない。
承平は戸惑い、月之丞と数珠を見比べた。
これは、住職が寵愛の証として月之丞に与えた、漆塗りの数珠だ。月之丞の言う通り、良い値がつくだろう。しかし。
――これをおれに譲っちまって、月之丞は平気なのか?
住職は月之丞の虜であるけれど、月之丞が数珠を他者に譲ったと知ったら、流石に腹を立てるだろう。唐果物を分け与えるのとはわけが違う。
月之丞はちらりと承平を流し見る。承平は物言いたげな顔をしていたのだろう。月之丞はくすりと含み笑う。
「俺の心配をしてくれるのか? 俺を嫌っているのに? うさぎは優しいな……そんなに優しいと、却って心配になる。俺から逃れても、また、俺のような輩に捕まっちまうんじゃねぇか、ってな」
月之丞はそう言って肩を聳やかす。こちらには一瞥もくれない。虚空に視線を遊ばせたまま、言葉を付け足す。
「俺のものだと気づかれたら厄介だが、そこまで見抜く奴はいないさ。和尚様には、死に物狂いで逃げるうちに失くしてしまった、とでも言っておく」
――死に物狂いで逃げる……?
承平が疑問を紐解く猶予は与えられず、月之丞は承平に背を向けた。
「俺はこちらから、お前はあちらから」
端的に言いつけて、さっさと歩き出してしまう。
「月之丞」
つい、呼び止めてしまった。
何気ない見返り姿も様になる月之丞の顔には、いつも通りの過不足ない、完璧な微笑がある。それを目の当たりにすると、承平は何も言えなくなる。
問い質さねばならない。月之丞の思惑が知れぬまま、彼の言いなりになるのは危うい。
――辰助のためにも、ここで揺らいでいる場合じゃない。気を張れ。目を逸らすな。月之丞の真意を、見極めろ
頭ではわかっているのに。
心の底で、別の声が囁く。まだ、あの頃の辰はいるのではないか。今も桔梗を想ってくれているのではないか、と。
疑わねばならぬのに、信じてしまいそうになる。
信じてはならぬのに、希望を切り捨てきれない。
その中途半端な己が、ひどく醜悪に思えて、承平は唇の裏をきつく噛みしめた。
月之丞は前に向き直る。振り返らず、言い放つ。
「ここへは二度と戻るな。戻れば、どのように扱うか知らぬぞ」
それは月之丞から突き付けられた決別だと、承平は悟った。




