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月兎取月  作者: 銀ねも
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悪狐

 稚児たちは月之丞の横顔を食い入るように見つめている。取り分け、稚児頭は微かに眉をひそめ、月之丞を牽制しているように見える。


 されどその敵意はかすかなもので、表立って刃を向けるには至らない。

 月之丞は、住職にとってまさしく掌中の珠。月之丞の不興を買うことは、即ち住職の逆鱗に触れることに等しかった。


 月之丞を睨んでも、徒労に終わる。そうなると、どうなるか。稚児たちの不満のきっさきは承平へ向けられるのだ。稚児頭の刺々しい視線が横顔に突き刺さるのを感じて、承平は肩を竦めた。


 月之丞の添え物である承平は、稚児たちの目には小さく、目障りな存在として映るらしい。


 この身が清らかであれば、昂然と睨み返すこともできよう。だが実際には、聖域を汚す身である。それも、稚児たちの想像よりもなお性質の悪い存在だ。その負い目ゆえに、どうしようもなく肩身が狭い。


 それでも、承平は表情を曇らせたり、悄然として俯いたりはしない。


 月之丞が庭を眺めるふりをして、こちらを見ている。


 ――背筋を伸ばせ。顔を上げろ。しゃんとしろ。惨めったらしいところを、あいつに見せるな


 承平が平静を装い続けると、月之丞は絡みつく視線を解く。そして、稚児達の方へ視線を流した。揺るがない氷面ひもの瞳が、稚児頭を射貫いた。


 月之丞は唇の端を吊り上げた。美しくも、見る者の心胆を寒からしめる笑み。まるで人ならぬ妖が人の貌を借りて微笑むかのよう。


 稚児頭は怯み、おずおずと俯いた。彼に倣い、他の稚児たちも次々と目を伏せる中、後列の端に座していた一人だけが、さっと顔を背けた。視線を庭へ逸らした拍子に、承平はその唇の動きを読み取る。「悪狐め」と、吐き捨てたようだった。


「悪狐」とは、稚児や寺男が陰で月之丞を悪様に罵るときに用いる蔑称である。その由来を、承平は僧の説法によって知った。


「昔、鳥羽院を誑かした絶世の美女。その正体は、人を喰らう悪狐であった」と、僧は説いた。


 悪狐とは言い得て妙である。人心を惑わす美しい獣。月之丞はまさにそれだった。


 月之丞は化ける。人の心の奥を覗き込み、その理想とする姿に化ける。老僧の前では艶やかな美童のまま蠱惑し、衆目の前では気が利く近侍としてよく立ち回り、年少の者の前では兄のように振る舞う。そうして住職の懐に入り込んだ。その在り方は、まさに悪狐と言えよう。


 そんな彼に、かつて「狐憑き」と忌み嫌われ、虐げられた過去があるなど、承平には夢か幻かと思われた。


 月之丞がたつの名で呼ばれ、銀狼屋の下働きをしていたのは、三年前のことである。主家の倅、日左衛門は辰を目の敵にしていた。「そいつは狐憑きだ。憑き物を落としてやる」と囃し立て、犬をけしかけていた。辰は吠えられ、噛みつかれ、逃げることもできず、傷だらけになっていた。「化ける」ことをまだ知らず、無力な子狐のように、ただされるがままだった。


 思い返せば、承平の心はたちまちあの頃へと引き戻される。義憤ぎふん憐憫れんびん、そして愛惜あいせきが折り重なり胸を締め付けた。


 ――三年も前の話だ。あいつはもう、おれの遊び仲間の辰じゃない


 今の彼は、辰ではない。清蓮寺に招き入れられ、住職より月之丞の名を授かりその寵愛を受けるようになって、人が変わってしまったのだろう。


 月之丞は住職に取り入り、虎の威を借る狐だ。この限られた世界において、誰よりも優位に立つ。もはや狐狩りに遭う、憐れな狐ではなかった。


 承平は稚児頭の様子を窺った。膝の上で拳を固く握るその手を見て、うんざりと溜息をつく。


 ――怒ってる、怒ってるなぁ。これじゃまた、月之丞とおれができてるだの何だの、好き勝手言われちまうぞ。まったく、もう。勘弁してくれ


 承平は内心でぼやく。表面上はいつもと変わらぬ光景が続いているように見えた。しかし、実際には月之丞の何気ない仕種、視線、息遣い、そのひとつひとつに隠れた綿密な配慮が働いていた。稚児たちが承平や辰助に手出しせぬよう、彼は先回りして根回しをしている。そのおかげで、兄弟が公然と侮辱されたり、露骨な嫌がらせを受けたりすることはない。辰助を巻き込まずに済むのは、何よりの救いだ。


 しかし皮肉なことに、その救いこそが承平を苛む。結局は月之丞の庇護に頼り、その陰に隠れているに過ぎない。弟を守るべき兄が、いつ気まぐれでてのひらを返しかねない男の厚意に縋っている。その事実が、どうしようもなく情けなく、苦しかった。


 月之丞を頼らざるを得ないのは承知している。だが、彼に頼るほかに身を守る術をもたない、情けなさとやるせなさが胸を塞ぐ。


 ――月之丞が虎の威を借る狐なら、おれはさしずめ、狐に弄ばれる鼠だ。今は守って貰えてる。でも、いつ飽きられるかわかったもんじゃねぇ。あいつはおれを咥えてるんだ。その気になればいつでも、おれを噛み殺せる


 胸の奥がひやりとした。ふと視線を上げれば、住職は粘りつくような手つきで、月之丞の髪を撫でている。


 稚児たちが月之丞に煮え湯を飲まされる間、住職は月之丞の髪の手触りを思う存分に堪能していた。満足げに灰受けの縁に煙管を置くと、空いた手で環餅をひとつ摘み、まるで宝を授けるかのように月之丞の鼻先へ差し出す。


 月之丞はそれを恭しく受け取り、口へ運ぶ。たっぷりとした蜜が、薄紅色の口唇を揺蕩うようにして絡んだ。甘い艶が宿る唇に、住職の目が吸い寄せられる。


 その視線を十分に惹きつけてから、月之丞は懐紙をさっと手に取り、唇を拭った。

 持ち前の匂い立つ色香に、背筋を正す品位を添える、端正な所作である。


 月之丞はかつて、銀狼屋で「狐憑き」として忌み嫌われ虐げられていた。こうした嗜みを身につける機会など、与えられる筈もなかった。


 この三年、清蓮寺の暮らしの中で、様々な学びを得たのだろう。その蓄積が、憐れな孤児を悪狐に変えてしまった。


 或いは、辰は三年前、神隠しに遭ってこの世から消え失せてしまったのかもしれない。ならばこの月之丞は、辰に成り代わった、正真正銘の妖狐なのだろう。


 そんな荒唐無稽な妄想を、有り得るかもしれぬと思わせてしまう魔性を、月之丞は備えていた。

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