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月兎取月  作者: 銀ねも
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欲望

 承平のことなら「血の巡りまで読める」と豪語ごうごする月之丞が、承平の拙い猜疑心さいぎしんを読み損ねるはずはない。


 だというのに、月之丞は承平を見据えたまま、妙に長い沈黙を挟んだ。

 その眼差しは、零れ落ちる寸前の執念を潜ませている。


 そして、月之丞はゆるりと目を伏せた。


「皆が寝静まった夜半やはん、お前は弟に乳を含ませ、あやしていたな。……あの頃は、毎晩のように」


 承平は息を詰めた。


 それは単なる回想ではない。

 まるで、ひと晩ひと晩数えながら、承平の夜を追い続けて来たかのような口ぶりだ。


 ――見られていたのか


 清蓮寺へ身を寄せて間もない頃、辰助の夜泣きはひどかった。


 襁褓むつきが濡れていれば替えてやり、そうでなければ抱いて揺らし、背負って歩き回る。

 米の研ぎ汁を火でぬるめ、薄く甘みをつけて含ませてみる。

 承思いつく限り手を尽くしても、辰助は泣き止まなかった。


 困り果てた承平が通いの乳母を呼ぶと、辰助は乳母が乳を含ませた途端ころりと機嫌を直し、すやすやと眠った。


 そのたびに、負い目と不甲斐なさが胸に刺さり、承平は己の無力さに打ちひしがれた。


 ――いつまでも、乳母に頼りきりじゃいられねぇ


 いずれは誰にも頼らず、辰助と二人で生きねばならぬ。そう思うからこそ、承平は夜な夜な一人で辰助をあやした。


 大泣きする辰助を抱え、童子房の外を歩き回ってあやす。しかし、辰助は一向に泣きやまない。承平が途方に暮れたとき、ふと、在りし日の母の姿を思い出した。


 母は愚図る辰助を胸に抱き寄せ、そっと乳を含ませていた。

 優しい微笑み、愛情深い眼差し、歌うようにあやす声。思い出すだけで、母が恋しくて、目頭が熱くなる。


 気がつくと、承平は胸元を開いていた。

 乳が出ないことはわかっている。それでも、辰助が母を恋しがって泣くのなら、せめて母のかわりをしてやりたかった。


「……ほら、おかあだよ」


 母の声音を真似て囁くと、辰助はぴたりと泣き止み、胸に吸い付いた。小さな指が袂をきゅっとつかむと、胸がじんわりとあたたかくなる。


 ――おかあは、あたしのことも、こうして抱いてくれたのかな


 月明かりに照らされながら眠る辰助のぬくもりに、夜の寒さも、男のふりをして生きる苦しさも、解けていった。


 その様子を、月之丞に見られていたらしい。


「……おれを見張ってたのか?」


 声は掠れて消え入りそうだった。

 羞恥と困惑が頬を焼く。


 月之丞は目を伏せる。一拍置いて「いや」と短く返した。

 そこに常にある軽快さはなかった。


「お前が、弟のせいで一睡も出来ず夜を明かしていると思うと、矢も盾もたまらず……ただ、見ていただけだ」


 それは言い訳には聞こえなかった。

 ただ事実を淡々と述べている。しかし、その事実の裏に潜む不穏な気配が、承平の背筋を凍らせた。


 やがて、月之丞は顔を上げた。

 その瞳は承平の姿をしっかり捉えていた。


「いずれお前は月水を迎え、子を孕めるようになる。……その時が来たら、お前は誰の子を宿すのかと、考えた。考えずにはいられなかった」


 抑揚のない言葉の奥に、密かな情念がこもっていた。

 承平の喉が、ごくりと鳴った。


 ――なんて目をするんだ


 熱に浮かされたような目が承平を見つめている。月之丞自身にも抑えの効かぬ執着が、承平の逃げ道を塞ぐ。


 月之丞はふっと細く笑った。それは自嘲の笑みだった。


「お前が、弟を抱いて胸元を開いたあの夜が忘れられない。……乳を吸う弟を見守るお前の微笑みが、目に焼き付いて離れない」


 沈黙が落ちる。

 月之丞が顔を上げたとき、その目は承平を見ていなかった。もっと遠い、果てしない一点を見据えていた。


「お前には、俺の子を産んで欲しい」


 承平の心臓が大きく跳ねた。


 ――なんだよ、それ


 あれはただ、乳呑児をあやす光景だった。

 乳呑児であれば、乳を含むと落ち着くのは当たり前。乳母もそう言っていた。


 なのに、そんな当たり前のことに、月之丞は何を見出したと言うのか。


 理解の及ばぬ圧が、じわじわとにじり寄って来る。

 誰にも踏み込まれたくなかった大切な記憶に、月之丞が足跡を残していたようで――怒りと悲しみ、悔しさが胸を灼いた。


 承平は月之丞をきっと睨みつけた。

そこで、月之丞の視線が承平の胸元へ吸い寄せられたことに気が付く。

 その動きに引かれ、承平も胸元へ視線を下ろした。


 襟の合わせが緩み、白い肌が月明かりにさらされていた。恐らく、小刀を抜いた拍子にはだけてしまったのだろう。


いつもなら、素知らぬ顔をして、然りげ無く襟元を正しただろう。相手は月之丞だ。承平が女であると知っており、承平の裸を見慣れている彼の前で、今更、狼狽える理由がない。


 それなのに、承平は大いに狼狽えた。


さきほど「弟に乳を含ませていた夜」を蒸し返されたばかりだ。

 今、月之丞がどこに意識を向けているか、承平はいやでも分かってしまった。

 羞恥がかあっと頬を染め、承平はあわてて襟をかき合わせた。指先がかすかに震え、布がなかなか掴めない。


 ――おいおい、何してる! ちょっと胸元がはだけていたくらい、なんだってんだ! お務めのたびに裸を晒してんだろうが。今更、うぶぶってどうする! みっともねぇ……!


 心の中で己を叱咤するものの、すぐには気を取り直せない。それどころか、思考がそちらに引き摺られる。


 月之丞は褥で承平を組み敷くと、膨らみかけた胸を執拗に撫で回したり、舐めたりした。これまでは、悍ましいとしか思わなかったその行為が、今は恐ろしくてたまらない。


 住職を愉しませようとして為される行為であれば、無理矢理、呑み下すことも出来る。しかし、そこに月之丞の情念が絡んでいたとしたら、それは理解の外にあり、底知れぬ恐怖だった。


 悲鳴が喉に閊えて、息が苦しい。胸から迫り上がる痛みに押され、承平は叫んだ。


「お前の子を産む? ふざけんな! そんなの、絶対にお断りだ!」

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