慈悲
承平の胸に、懐かしい痛みが走った。
辰と出会ったあの日と同じ痛み。
この憐れな子を放っておけない――そんな身勝手な情が生み出す痛みだった。
承平はそこから言葉を続けられなかった。
かけるべき言葉が見つからない。
悲喜こもごもが渦巻く過去が、承平の舌を押し留めていた。
沈黙のまま、時間は無為に過ぎていく。
やがて、月之丞はゆっくりと瞼をおろし、そして、開いた。
長い睫毛が頬に淡い影を落とす。現れた黒瞳は、漆塗りの珠のように冷やかに整っていた。
先程まで滲んでいた情動の色は、跡形もない。
それでも、承平の確信は揺らがない。
――辰、なんだな
月之丞の奥には「辰」がいる。
月之丞がどれほど押し隠そうとしても、それは否応なく滲み出る。
承平は幽かな月明りさえ見失い、視界が暗く沈むのを感じた。
辰だった。
桔梗の身も心も踏み躙り、剰え、辰助まで傷つけようとしたのは、辰だった。
そして、承平の苦痛など知らぬ顔で「良かったな」と屈託なく笑ってみせたのも――他の誰でもなく、辰だったのだ。
胸の奥が軋み、何かが音を立てて崩れていく。
打ちひしがれる承平の前に、月之丞は跪き、おもむろに額を寄せた。
「お前の目、本物の兎みたいに真っ赤だ」
目を細め、優美な指先で承平の目尻をそっと拭う。
濡れた頬に触れたまま、月之丞はしばし承平の顔を見つめた。
漆黒の瞳が涙のあとを映し取り、承平の心を読み解こうとする。
やがて、どこか憐れむような溜息をひとつ落とし、月之丞は口を開いた。
「お前がここを離れようとするのは、娘盛りの身ゆえに先のことが不安なのだろう。怖がらずともよい。和尚様は、身籠ったお前をお見捨てになるような、非情な御方ではないぞ。
お前が身籠ったならば、この山里でいちばん頼れる名主どの家へ託すおつもりだ。その家ならば、身重の女が穏やかに過ごせる部屋も、産後に働ける口もあるとか。ここで男のふりを続けるより、よほど安らかな暮らしが出来よう。その弟も一緒に連れて行けるよう、俺も出来る限り手を貸す。
今、宛てもなく逃げ出すより、ずっと確かな暮らしが待っている。……どうだ、少しは心が軽くなるだろう?」
突飛な言葉に、承平の肩がびくりと震えた。
「……は? ちょっと、待てよ。なんで、そんな――」
混乱が喉を塞ぎ、声が出ない。うまく息も出来ない。
身籠れば、良くて身一つで放逐される。
悪ければ、野伏の潜む山中に捨てられる――承平はそう覚悟していた。
承平は弄ばれ、嬲られるために、寺に置かれた。
用済みになれば放り捨てられる。それで終いのはずだった。
なのに、どうしてその先の暮らしの心配をするのか。
――なんで、今更、慈悲の真似事をする? おれを騙して、どうしようって魂胆だ?
その裏にあるはずの思惑が見えない。
だが、疑ってかかるには、月之丞の言葉はあまりに真摯で――「きっと役に立てるようになる」と言ったあの日の辰のそれと重なる。
それさえ、本心だったかどうか。今となっては、分からないけれど。
信じたい。けれど、疑わしい。胸の内で相反する心がせめぎ合う。
――月之丞の言葉に嘘偽りがないとしたら……わからねぇ。月之丞は何をどうしたいんだ? おれを身籠らせること自体が目的? ……なら、なぜだ?
沈黙の隙間に、月之丞の本心を推し量ろうとする。
だが、秘密の靄に身を隠す男の内奥は容易に読めない。




