その名は
乱暴な物言いに、承平は呆気にとられた。
挑発だ。そう思おうとした。
辰助を貶されれば承平が激怒することなど、月之丞ならとうに承知しているはずだ。
だが、そうとは思えなかった。
月之丞の唇がかすかに震える。
涼やかな目許には、怒りとも悔しさともつかぬ紅が薄っすらと滲んでいる。
――なんで、そんな顔をするんだ
まるで、御しきれぬ激情が、心の封を破り溢れ落ちてしまったかのようだった。
月之丞には人の心などない。
表に出す感情は紛い物だ。無からは何も生まれない。
辰は変わってしまった。
桔梗と心を通わせた辰は、もうこの世にいない。
ずっと、そう思い込もうとしていた。そう思い込まねば、耐えられなかった。
なのに、それは事あるごとに否定され、今もまた、胸の奥の古傷がまた痛み出す。
承平を見返す黒瞳に翳りが差した。その刹那に、あの頃の辰の面影が過ぎる。
――月之丞は、辰じゃない。違う。違う、はずなのに
月之丞は眉間に皺を寄せ、瞬きをする。伏せた睫毛が震え、噛み締めた唇が白くなる。
それは、乱れかけた情動を捻じ伏せようとする、辰の癖だった。
「……なぁ、うさぎ」
呼びかける声は掠れ、頭を振る仕種もぎこちない。
視線はたどたどしく虚空を彷徨い、ようやく承平に辿り着く。
「なぜ弟がそんなに大切なんだ? そいつは泣いて愚図って、お前を困らせるばかりの、役立たずじゃないか」
言葉を重ねる程に、月之丞の表情は強張る。
「そいつがいなければ、お前はもっと楽に生きられる。そうだろう?」
月之丞は焦点の定まらない目で承平を見つめる。その姿は、強い言葉とは裏腹に、今にも脆く崩れ落ちてしまいそうだった。
承平は言葉を失った。
辰助を貶されたのに怒りも湧かず、呼吸さえ忘れていた。
ふいに、月之丞の顔が歪んだ。
まるで深い泥濘から逃れようともがくような苦悶が、蒼白の顔に刻まれる。
――やめてくれ。そんな顔しないでくれ
痛ましくて、見ていられない。承平は項垂れ、両手で顔を覆った。承平の震える肩を、月之丞の手が掴む。
「教えてくれよ。そいつの何がそんなに良いんだ?
何が優れてる? そいつなんかより、今の俺の方がずっと、お前の役に立てる。そうだよな? なぁ?」
月之丞は縋るように承平の肩を揺さぶる。焦燥と切迫が入り混じる必死さは、ひどく子どもじみていた。
――辰じゃない。辰じゃないはずなのに
押し固めていた否定が瓦解してゆく。否定の奥に押し込めていた思い出が溢れだす。
銀狼山の麓、朱銀の夕映えに染まる川の畔。
別れ際、辰は桔梗の手をとった。蒼白の頬と灰色の唇を、夕焼けがほんのりと赤く染めていた。
――「うさぎ、好きだよ。大好き。おれ、きっと、うさぎの役に立てるようになる。だから……うさぎは、おれを嫌わないで」
桔梗の返事を待たず、駆けて行った小さな影法師。
辰はそのまま、桔梗の前から姿を消した。
それから二年後、月之丞として現れ、桔梗と辰助を救い……そして、囚えた。
「……なんで、お前はそうやって……役に立つとか立たないとか、そんな……つまらないことに、こだわるんだよ」
心に募るまま、ぽつりと落とした、承平の言葉。それを聞いた月之丞の手がぴたりと止まる。
承平はおずおずと顔を上げた。
視界は涙で揺らぎ、月之丞の輪郭を曖昧にする。だが、心の目は彼をはっきりと捉えていた。
月之丞を取り巻いていた幻惑の靄がひっそりと晴れる。
そこにいたのは、狐でも妖でもない。
化けの皮の裂け目から顔を覗かせるのは、深く孤独と傷みを抱えた童――辰だった。
――役立たずでも良い。ただ、そのままの辰がそばにいてくれたら、それだけで良かったんだよ
「……辰」
気付けば、承平の唇からその名が零れていた。
承平のみならず、月之丞も目を見開き、息を呑む。
それは、清廉寺に来てから、一度たりとも呼ばなかった名。
弟同然に想っていた幼馴染の名だった。




