慰め
胸の奥で何かがひしゃげ、承平は両手で顔を覆って呻いた。
無念と不甲斐なさが、肺腑の奥まで染み渡る。
このままでは、絶望に呑まれてしまうだろう。
抗わなければならない。命よりも大切な弟を背負っているのだから。
承平は挫けそうになる心を、必死に奮い立たせようとした。
――違う! あたしと辰は心を通わせてた! 辰もあたしのこと、好きだって言ってくれた! この寺のせいで、辰は人が変わっちまったんだ!
心の中で喚いてみても、胸の伽藍堂に虚しく響くだけで、真実が覆ることはない。それでも、やるしかなかった。辰との幸せな思い出を心から信じられなければ、押し寄せる絶望を押し返せない。
桔梗が辰を大切に想っていたように、辰も桔梗を想ってくれていたはずだ。尠くも、三年前、離れ離れになるまでは、二人は想い合っていた。
――でも、だとしたら……辰の優しい心は、何処に行ってしまったんだろう
人が変わってしまったと言っても、それで、人を愛する心を忘れてしまうものだろうか。
もしかしたら、月之丞はその心に愛情を貯えておけないのかもしれない。底の抜けた器にいくら注いでも、流れ出てゆくだけだ。
だから、愛する弟を守りたいという承平の気持ちを、月之丞はどうしても理解できないのではないか。
――……なんだ、そりゃ。いくら注いだって流れ出ちまうなら……何の甲斐もないじゃないか
承平の目から涙が零れ、頬を流れた。
どう足掻いても無駄だった。結局は、絶望の濁流から逃れられず、押し流された。
いっそ、月之丞が承平のことを、綺麗さっぱり忘れていたら良かった。そうしたら、承平はこんなに苦しずに済んだだろうに。
承平はあまりにも愚かだった。この期に及んで、想う心を止められない。
美しい思い出に無様に縋りつき、逃げ損なった。辰助すら逃してやれない。己の弱さがすべてを呪縛している。
承平は両手で顔を覆ったまま、かすれた声で搾り出した。
「……嫌いだ。お前なんか、大嫌いだ……」
月之丞が辰でないのなら。月之丞に人の心がないのなら。心の底から「嫌いだ」と思わなければならない。そうでなければ、開き直ることもできない。それなのに、思い切れない。
震える声は、怒りでも悲しみでもなく、ただひたすらに、己の弱さを打ち据えていた。
――嫌い。嫌いだ……大嫌いだ
言葉にすると、胸の奥がずきりと痛んだ。
本心からそう思えない以上、言葉にするつもりはなかったのに。それなのに、他の言葉が見つからなかった。
一拍遅れて、苦い後悔が込み上げる。心ない一言が、月之丞を傷付けたかもしれない。そんな考えが頭を掠めたから。
承平に嫌われたくらいで、月之丞が傷つくはずがないのに。
もしかしたら、傷ついて欲しいと、心の何処かで期待しているのかもしれない。彼の胸の内に、傷つく心があって欲しい。もう戻れぬ、あの頃の自分が注いだ愛情の、ほんの一雫で良いから、その心に留めておいて欲しい。
この期に及んで、妄執じみた想いを振り切れない。己の浅ましさが情けない。
月之丞は沈黙している。その沈黙が、承平の胸をじわじわと締め上げる。
沈黙から怒気は感じられなかった。ただ、底無しの静けさだけがあった。それが、却って承平を不安にさせる。
怒ったのだろうか。今この場で月之丞の怒りを買えば、どうなるかわからない。承平だけならまだしも、辰助に累が及べば……考えただけで胸が張り裂けそうだ。
恐る恐る顔を上げると、月之丞と視線が絡んだ。承平はぞくりと怖気立つ。
月之丞の瞳は、魂の火を失ったように虚ろだった。いつもの底知れぬ不気味を孕んだ瞳とは違う。
そこにあるのは、生きている者の目ではない。これは“生を感じない目”だった。
その異様さに気圧され、眦に滲んでいた涙が雫となって頬を伝い落ちる。堪えきれず、嗚咽が漏れた。背中の辰助が身じろぎする。
「……にぃ? にぃ……ないちゃった」
晒で括られた小さな身体をもぞもぞ揺らしながら、辰助は必死に承平の顔を覗き込もうとする。
足をばたつかせ、届きもしない手を、承平をかばうように前へ伸ばす。
「だめ! にぃをいじめちゃ、だめ!」
承平の視界の端で、辰助の小さな手がぱたぱたと動く。もちろん、承平に背負われた辰助が、承平の前に出ることはかなわない。
思うようにならず、辰助はむぅと唸る。それでも承平を励まそうと、ぎゅっと背中に抱きついた。
「だいじょぶだよ、にぃ。じんすけ、いるから。ね? にぃは、よいこ……よいこ、だよ」
小さな手が承平の濡れた頬を撫でる。頭を撫でようとしても届かない、辰助なりの“よしよし”だった。
そのいたいけな優しさに、承平の張り詰めた心が、ほんの少し和らぐ。
その時、月之丞が笑った。
あからさまな冷笑だった。
「“だいじょうぶ”? どの口が言ってんだ。大丈夫じゃねぇから、うさぎは泣いてんだよ。役立たずの腐れ餓鬼は引っ込んでろ」




