屈伏 ※2026.2.15加筆修正
取り返しのつかない過ちが、承平に重く伸し掛かる。
――もう、逃げられない
これからもこの寺で飼い殺しにされる。いや、それで済むとも限らない。承平は月之丞に楯突き、あまつさえ、彼を傷つけてしまった。
月之丞が意趣返しとして、これまでよりもっと酷い仕打ちを思い描くことも、十分にあり得る。
月之丞が承平を徹底的に痛めつけるつもりなら、真っ先に辰助を人質にとるだろう。承平にとって、辰助を傷つけられることは、この身を切り刻まれるより辛いことだ。月之丞がそれを見抜けぬはずがない。
想像するだけで、震え上がった。心が折れそうになる。
膝が抜けたかのように、承平は崩れ落ちた。跪き、月之丞を仰ぎ見る。こうなっては、無様は承知の上で、赦しを乞うより他になかった。
「おれは、自業自得だ。どうなってもしょうがない。でも、辰助だけは……せめて、辰助だけは、見逃してくれ。辰助には、この寺の外で、生きていてほしいんだ。頼む……どうか……後生だ……」
承平は嗄れ声で懇願した。辰助を背負っていなければ、泥に額を擦り付けてでも詫び、許しを請いたいところだった。
辰助と共に生きてゆきたい。しかし、辰助を道連れにするくらいなら、承平はひとりで地獄に落ちる。
月之丞は辰助の名を呼ばない。何度教えても、一向に覚えようとしない。辰助にはまるで関心が無いようだった。
月之丞が逃がすまいとしているのは、辰助ではなく承平だ。
――おれさえここに残れば、辰助は寺の外に出して貰えるかもしれない
それが、承平に残された最後の希望だった。
――辰助はまだ小さい。里子の貰い手に困ることはねぇだろう。人懐こくて、聞き分けも良い子だから、貰われた先でも可愛がってもらえるはずだ
承平は、胸の奥を掻き毟られるような苦痛に喘ぎながら、己にそう言い聞かせた。命より大切な弟と引き離されるのは、耐え難い苦痛である。それでも、辰助が悍ましい欲の餌食にならず、健やかに育つことが出来るならと、一縷の望みに縋りついた。
――おれはもう、どうなったって構わねぇ。辰助が助かるなら本望だ
恐る恐る月之丞を見上げると、あまりに美しい微笑が承平を待ち構えていた。
闇の中、月の灯に照らされたその顔は、柔和でありながら、不気味な影を帯びている。
同情も憐憫も、理解さえも、その欠片すらなかった。
月之丞は幼子のように、こてりと小首を傾げた。時がぴたりと止まったかのような沈黙が落ちる。ややあって、月之丞は柔らかな声で言った。
「見逃す、とは? うさぎがここに残るのならば、弟もここに残らねばなるまい。弟と共に生きる、それがお前の望みであろう」
承平は目を剥いた。
心の奥底を踏みにじられたようで、悲鳴すら上げられない。
愕然としていると、小さな手が肩をぎゅっと掴んだ。辰助だ。承平の右肩に顎をのせ、背にぴたりとくっついている。澄んだ目で承平を見上げながら、元気よく言った。
「じんすけ、にぃといっしょがいい!」
承平は瞬きすら忘れ、食い入るように辰助を凝視した。辰助は丸い目を虹のようにきゅっと細め、承平の頬に頬ずりする。
そのぬくもりが、幸せだった日々を呼び覚ます。
赤子だった辰助に、桔梗はよく頬ずりした。
ふくふくとした頬を指でそっと押すと、あんぐりと口を開ける。それが可笑しくて、腹を抱えて笑った。
すると辰助もけたけたと笑い返す。それもまた可笑しくて、何より愛しくて、桔梗は辰助を胸に抱いて笑い転げた。両親はそんな姉弟を、目を細めて見守っていた。
辰助は、桔梗の両親の間に生まれた子ではない。露雪の谷より来たという旅人が連れてきた赤子だった。旅人はわけあって、赤子の貰い手を探していると言った。
旅の途中、彼は鷲足の村に立ち寄り、赤子に乳を分けてやって欲しいと、母のもとを訪れた。
あの頃、母は生まれて間もない我が子を喪ったばかりで、泣き暮らしていた。それが、旅人から辰助を抱き取り、乳を含ませると、母の涙はぴたりと止まった。乳を呑む赤子を見つめる顔には、消え失せてしまった筈の微笑みを浮べていた。
それを目の当たりにして、桔梗は父に言ったのだ。「あの子は、あたしの弟だよ」と。そうしたら、父は頷いて「そうだな。あの子はお父お母の子。お前の弟だ」と言ってくれた。
辰助は母の笑顔を、家族の幸せを取り戻してくれた。辰を失い、塞ぎ込んでいた桔梗を慰めてくれたのもまた、辰助だった。
辰助は掛け替えのない大切な子だ。両親と故郷を亡くし、月之丞と住職に蹂躙されてなお、挫けずにいられたのは、辰助がいたからだ。
辰助を守りたい。
辰助に降りかかる、苦しみも悲しみもすべて、払い除けてあげたい。辰助を傷つけるものは誰であろうと許さない。たとえそれが自分自身であろうとも。
承平と一緒にいることで、辰助が住職の毒牙にかかってしまうなら。
たとえ恨まれようとも、突き放さねばならない。
なのに、承平は何も言えなかった。
目頭が熱くなり、嗚咽がこみ上げてくる。
――おれだって、辰助と一緒が良い。離れ離れになるなんて嫌だ。辰助と……一緒にいたい
辰助は何も知らず、ただ「にぃといっしょがいい」と訴えるばかりだ。
その無邪気な健気さがどうしようもなく憐れで、愛しい。
辰助を大切に想うからこそ、その求めに応じることが出来ない。
承平が押し黙っていると、呼びかける声は次第に小さくなり、辰助はやがて口を噤んだ。承平の肩口に額をぐりぐりと押しつけ、身を寄せてくる。
拗ねてしまったのだろう。どうして応えてくれないの、と責めているつもりなのかもしれない。
――辰助を不安にさせちまうし、宥めてもやれねぇ。そばにいて、守ってやることも儘ならねぇ。おれは、不甲斐ねぇ「兄」だ……ごめんな、辰助
承平は下唇を強く噛み、込み上げる涙を堪える。辰助からふいと顔を背けた。
「にぃ」と呼ばれても振り返らない。辰助にだけは、情けない顔を見せられない。
意を決して前を向くと、月之丞と目が合った。ぎくりとして身をこわばらせる承平を眺め、月之丞は素っ気なく肩を竦めた。
「だそうだ」
その声音は抑揚に乏しく、表情もどこか冷めている。承平はいささか面食らった。
辰助の発言を追い風に、ここぞとばかりに承平を言い包めるのだと思っていたからだ。
だが、それも取るに足らぬ些事に過ぎない。
月之丞は辰助の言葉を聞き流したに過ぎず、辰助を見逃してやろうと心変わりした訳ではあるまい。
承平は項垂れた。胸の奥に怒りと恐れが渦巻く。




