八方塞がり
不安で塞がりかけた咽を無理にこじ開け、必死に強い言葉を絞り出した。小刀をほんの少し突き出すだけで、刃先が皮膚を破り血が滲む。手の震えを必死で堪えた。胸の裡が騒ぐ。
しかし、月之丞は微動だにせず、凪いだ瞳には波紋の一つも生じない。
明々朗々とした声で承平に問う。
「うさぎ。お前、俺を殺したいのか?」
承平は喉の奥で嗄れた声を漏らした。月之丞の問いかけは、胸をえぐるように迫った。
――殺したいわけじゃない。その覚悟もない。こんなの、ただの虚仮威しだ
そんな承平の本心を、月之丞は見透かしているのだろう。
月之丞は含み笑うと、その白い手で小刀の柄を握る承平の手を包み、押さえ込む。所作はたおやかな姫君のようでありながら、その力は男のものだった。
抗えぬ強さに引き寄せられ、刃が月之丞の喉に食い込む。
刃を伝って血が流れ、承平の指先を紅く染める。その冷たさが肌を刺し、承平は息を呑んだまま凍りつく。
小刀を手放さなければ、月之丞が傷つく。しかし手放せば、捕らわれる。辰助とともに逃げ延びたいのなら、手放してはならない。
――殺したくない。でも……あたしが辰助を守んなきゃ。おとうとおかあの分も、あたしが
かけがえのない弟の命を背負っている。このぬくもりだけは、失ってはならない。
胸の奥で声が反転する。
――おれが、辰助を守るんだ
辰助と共に生きてゆく。そのためなら、何でもする。
月之丞もこの決意を知っているはずだ。野伏に襲われ、月之丞に救われたあの日、これからどうしたいと問われ、桔梗――いや、承平はそう答えたのだから。
月之丞の微笑は、白皙の頬に彫り刻まれたかのように揺るぎなく、承平の目の前にある。承平はそれを真正面から見据えた。
小刀の柄をもう一度、ぎゅっと握り直した。血のぬめりで滑らぬよう、慎重に。刃先の震えがぴたりと止まった。
「やりてぇわけじゃねぇ。だが、お前がおれ達を逃さねぇのなら、やるしかねぇ。……お前をぶった斬ってでも、逃げてやる」
承平は意を決した。それを見届けると、月之丞は睫毛を伏せた。
「そうか。良いよ。お前がそれで良いのなら、好きにしてくれ。お前になら、俺は何をされても良い」
それは嘘か真か。いずれにせよ、目を閉じた月之丞の表情は、安らかだった。その顔に、遊び疲れて隣で眠る辰の寝顔が重なる。
承平の心は激しく揺さぶられ、かき乱された。
斬るなら今だと頭ではわかっているのに、心が拒む。腕が痺れて動かない。小刀を握る手の力が、吸い取られるように抜けてゆく。
――ためらうな、やれ! やるんだ、辰助を守るんだ!
心が叫ぶたび、思い出が鮮やかに蘇る。辰と過ごした日々のぬくもりが胸を焦がした。
出会った頃の辰は小さくて、痩せっぽっちで、傷だらけだった。笑わず、泣かず、まるで雨風に晒される藁人形のようだった。桔梗は、そんな辰が憐れでならなかった。
このままではいけない、何とかしてやりたい。
その一心で、辰の手を引いた。微笑みかけ、語りかけた。
辰を苛める日左衛門と、その取り巻きどもとは、角突き合いが絶えなかった。
取っ組み合いの喧嘩をしたこともあった。日左衛門が犬に命じて辰を襲わせれば、辰を守るべく犬の前に立ちはだかった。
向う脛を咬まれたときの、骨まで響く痛みを今でも覚えている。血塗れの足を引き摺って家に帰り、両親に心配をかけた。
それでも、桔梗は辰に寄り添い続けた。
一緒に過ごすうちに、辰は少しずつ心を開いてくれた。桔梗と顔を見ると、ぱっと花咲くような笑顔を見せた。それが愛おしかった。本当の弟のように想っていた。
辰は突然、桔梗の前から姿を消してしまったけれど。桔梗が窮地に陥ったとき、再び姿を現し、桔梗と辰助の命を救ってくれた。
この男は月之丞だ。
辰ではない。
でも、かつては――辰だった。
その面影が、今も消えない。
――斬れない。あたしには、できない
「ああ……ああ!」
承平の叫びは、もはや悲鳴でしかなかった。震える手から小刀が滑り落ち、地面に突き刺さる。
今更、慌てたところで、もう手遅れだ。
小刀は月之丞の足元にある。承平が小刀を拾い上げようとすれば、月之丞がそれを阻むに違いない。
これで、月之丞を黙らせる術は失われた。脱兎の如く逃げ出そうにも、辰助を背負っていては速く走れない。月之丞が追って来ればすぐに追いつかれ、いとも容易く取り押さえられるだろう。
力で敵わないことは、これまで嫌というほど思い知らされてきた。そうならずとも、月之丞が僧兵を呼べば同じことだ。
つまり、八方塞がりである。
こうなることは、わかりきっていた。それでも、承平には月之丞を斬ることが出来なかった。




