窮鼠
承平の肩がびくりと跳ねた。
月之丞は地面に膝をつき、俯く承平の顔を覗き込む。激流に翻弄される木の葉のような心を、そっと掬い上げようとするような優しさ。けれどそれは、承平の動揺を引き出す術でもあるのだろう。
「大丈夫。もう、大丈夫。怖くない。もう、何も怖くない」
また、あの日と同じ微笑みだった。
承平を襲い、辰助を殺そうとした野伏を殺し、助けてくれた時。
両親を救えず、逃げるしかなかった桔梗を抱き締め、慰めてくれた、あの時とまったく同じ微笑み。
それなのに、何故だろう。月之丞の微笑みが、今は遠く感じられた。さっきまで、手を伸ばせば触れられると、信じて疑わなかったのに。
月之丞はゆっくりと立ち上がる。承平は顔を上げた。月之丞は承平を安心させようとするように、微笑みを絶やさない。
承平は目を逸らせなかった。
月之丞は両手を腹の前でそっと組み、深く、小さく、息を吐いた。
その目がじっと承平を見つめる。観察している。目の奥で数を数えるようにまばたきをしながら、承平の反応を見極めているのだろう。
月之丞はにこりと笑って、軽く承平の肩に触れる。承平の内心を推し量るだけの冷やかな仕種。それなのに、一瞬の接触は承平に奇妙な温もりを残した。
足裏から冷気が這いのぼり、指先まで凍える。指一本、動かせない。
承平が抵抗しないことを確かめると、月之丞は承平を抱き寄せた。
懐かしい温もりだった。
胸の奥で凍えていた心が、解けてゆくようだった。
月之丞は桔梗の髪を撫で、耳元で囁く。
「これでお前も、子を宿せる身となった。良かったな、おめでとう」
桔梗は目を見開いた。胸の痛みが、甘い錯覚を弾き飛ばす。
「良かったな」
その言葉は、あの夜にも、同じ声調で聞いた。
わけもわからず、住職の前に引き出され、その場で犯された。
事の後、血と涙に濡れた桔梗に、月之丞は今と変わらぬ微笑を向け、こう告げた。
「和尚様は、お前を殊の外お気に召したと仰せであったよ。良かったな、うさぎ」
月之丞の囁きが、耳の奥で木霊する。血も涙もないとはまさにこのことだと思った。
今の「良かったな」は何を意味しているのか。
女の尊厳を踏み躙られたこの身を、なおも汚辱に晒そうと言うのか。
――やっぱり、こいつは辰じゃない。妖狐だ。人の心が、無いんだ
承平は懐に忍ばせた懐刀の束を握りしめた。刀が鞘を擦る音が、沈黙を切り裂いた。
咄嗟のことで、反応出来なかったのか。月之丞は微動だにしなかった。
牽制のつもりで振り上げた懐刀の刃は、月之丞の左目のすぐ下の皮膚を、すっぱりと切り裂いた。
返り血が顔に飛びかかり、承平は息を呑んた。よろめき尻餅をつく。
「わっ!」
辰助が短い悲鳴を上げ、辛うじて承平の肩にしがみついた。小さな身体がびくりと跳ねる。
はっとして身を起こした承平は、立膝になり、鞘に納めた懐刀を懐に押し込む。辰助の尻を支え背負い直した。
「ごめん、辰助。びっくりしたよな。ごめんな」
目をまんまるにしたまま動けずにいる辰助をあやしていると、月之丞が徐に口を開いた。
「……うさぎ?」
承平はぎょっとして、月之丞を見返した。
傷口から淋漓と血を流しながらも、月之丞は痛みなど感じていないかのように平然としていた。
承平は咄嗟に目を背けた。
美しい化けの皮が裂け、内に潜む獣の本性が覗いているようで、見るに堪えなかった。
「どうした、うさぎ? 大丈夫か?」
問いかけながら、月之丞は一歩、承平の方へ踏み出した。
承平は弾かれたように立ち上がり、小刀を鞘から抜き放つ。その柄を両手で握り、刃先を月之丞に向けた。
「来るな! それ以上近寄ったら……殺すぞ!」
承平は叫んだ。
頭の奥が熱く煮えたぎり、血が耳の奥まで滲むような感覚に支配される。僧兵が駆けつけるかもしれないという当然の懸念は 理性もろとも、すっかり吹き飛んでいた。
心臓は胸を叩きつけるように高鳴り、手のひらから指先まで震えが走る。小刀を握る両手には力が入りすぎて、刃先が微かに揺れているのも気付かない。
月之丞は歩みを止める。その表情には焦りも恐れもない。
そこにあるのは、怯える仔猫を弄ぶような、冷ややかな微笑みだった。弱者の反抗を愛玩する意図が、かすかに見え隠れする。
それこそ、子猫に引っ掻かれた程度のことに過ぎぬと捉えているのだろう。
どう考えても、侮られている。
――これじゃ、脅しにならねぇ。このままじゃだめだ
承平は大きく息を吸い、胸を張った。小刀の束をしっかり握り直し、渾身の怒声を張り上げる。
「おれには出来やしねぇと高ぁ括ってるんだろ。畜生め、なめんなよ! おれだってやれる! お前がおれ達を逃さねぇって言うんなら、お前を斬ってでも逃げてやる!」




