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月兎取月  作者: 銀ねも
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寵童

 庭石が陽を照り返し白く煌めく昼下がり。盛りを迎えた金木犀の薫香が、清蓮寺の境内に立ち込めている。


 承平じょうへいは庭を掃きながら、下腹の重苦しさに眉をひそめた。箒を握る手に力がこもり、汗ばんだ掌が竹の柄にぴたりと張りつく。


 身体の奥がじくじくと疼くたび、深く息を吸って気を紛らせる。けれど、甘く濃密な香が胸を満たすと、かえって身体の芯が熱を帯びる気がした。


 ――おかしいな。金木犀の匂いは、嫌いじゃないのに。なんで今日は、こんなに苦しいんだろう


 いくら息を吸っても、胸の内に気が通わぬような息苦しさである。思わず、その場に立ち尽くした。


 そこで、共に庭掃除をしていた寺童と目が合う。相手は顰め面で承平を睨み、すぐに目を背けた。承平ははっとして、止めていた手を慌ただしく動かす。


 怠けていると思われるのはまずい。ただでさえ、恥知らずな真似をして月之丞つきのじょうに取り入ったと噂され、白眼視されているのだ。これ以上の悪評が立てば、幼い弟まで嫌な思いをするかもしれない。


 ――おい、こら、承平。しっかりしろ。腹が痛ぇだの、腰が痛ぇだの、泣き言を並べてる暇があったら、きりきり働け。てめぇを嫌ってる奴らに弱みを見せるんじゃねぇ


 心の中で己を叱咤して、気を取り直す。


 住職の寵童である月之丞の庇護下にある限り、寺童も稚児も、承平とその弟に手出しは出来ない。それでも、妬まれ、疎まれ、陰口を叩かれることは免れなかった。


 やられっぱなしでは我慢ならない性分だ。言い返してやりたくなることもある。しかし、脛に傷を持つ身としては、軽々しく口を開くわけにもいかない。そんなことをすれば「また良い気になっている」と見做され、いっそう反感を買うだけだ。


 弟が何も知らず、無邪気に笑っていられるうちは、なるべく波風を立てたくない。だから、理不尽に晒されても堪えるしかない。


 ――付け入る隙なんざ、くれてやってたまるかってんだ


 承平は背筋をぴんと伸ばし、前を向いた。何気なく、周囲の様子に目をやる。


 庫裏には承平の他にも数人の寺童がおり、それぞれの仕事に勤しんでいた。


 二人は縁側の奥にある座敷で畳を掃きちりを集め、もう一人は庭で掃き集めた落葉を小さな箕に入れている。庭の端にある小さな水鉢に浮かぶ紅葉の葉を拾う子の姿も見える。


 作業の合間に交わされる言葉はない。箒の擦れる音と、風に揺れる草木のざわめきだけが響く。


 紅葉の影が揺れる縁側にて、住職は胡坐をかき、膝の上で煙管をくゆらせている。傍らには住職の近侍を務める月之丞が控えていた。


 月之丞もまた、寺童である。しかし、彼の存在は他の寺童とは一線を画した。


 寺童はふつう、十二歳(数え年)ほどで務めを終え、遅くとも十五になる前には寺男となるか、里子や使用人として引き取られるか、あるいは僧籍に入る。


 しかし、月之丞は十五歳になっても、住職の側に仕えているのだ。


 承平は苦々しくひとりごつ。


 ――それを言うなら、おれだって、大概なんだけどよ


 承平がこの寺に身を寄せたのは一年前、十二の頃だった。月之丞に伴われて現れた承平を、寺男たちは遠巻きに眺め「こんな薹の立った子に寺童が務まるのか」とざわついた。それを住職があっさり許したものだから、寺男たちはなおさら眉を顰め「月之丞の顔を立てれば、何でもありだ」と囁き合った。

 それでも、表立って異を唱える者は誰もいなかった。住職は月之丞の「お強請り」に滅法弱く、それを退けることはないと、誰もが知っていた。


 服装も、月之丞を際立たせる要素の一つである。他の寺童が皆、粗布の小袖に浅黄の袴を合わせる中、彼だけは絹の小袖を身に纏う。

 柳腰とでも呼びたくなる細く引き締まった腰に白帯を締め、漆塗りの数珠を提げている。それは他の寺童が腰にぶら下げる、木目そのままの素朴な数珠とは、まるで異なるものだ。


 幾度も漆を塗り重ねて生まれた艶を宿す珠の色は、夜の最奥を思わせる色。月之丞の瞳の色と同じ漆黒である。寵愛の証として、住職の手ずから与えられたものであると、誰もが知っていた。


 月之丞なら法衣だろうが狩衣だろうが、難なく着こなすだろう。しかし住職の目にはこの姿こそ、最も映えるに違いない。


 僧侶の峻厳からは遠く、しかし、公達の華美にも至らない。それは住職の悦びに尽くす為に誂えられた、艶やかな装いであった。


 住職は月之丞を前にすると、たちまち恋に落ちたただの男になる。住職は選りすぐりの上等な品々を惜しみなく与え、月之丞の喜ぶ顔を見たい一心で、彼を飾り立てるのだ。


 月之丞の「喜ぶ顔」が実のところ「住職を喜ばせる顔」であるとは夢にも思わずに。


 月之丞は元来、身形に頓着しないさがの持ち主だ。ただ住職を喜ばせる為に、その欲望に唯々諾々と追従し、着飾っているに過ぎない。ここでそうと見抜いているのは、月之丞の幼馴染である承平くらいのものだろう。


 こんなに想われて嬉しいと、月之丞が思うことは決してない。しめしめ、これは好都合だ。とは思うかもしれないが、それも、月之丞に思う心がほんの一握りでも残されていればの話だ。


 ――報われねぇな。憐れなもんだ


 承平は縁先で砂利を掃きながら、縁側の方をちらりと盗み見る。


 住職の膝前には漆盆が据えられ、唐菓子からくだものが小皿に盛られている。艶々とした飴を引いた環餅かんぺい、胡麻をまぶした団喜だんぎ、香ばしい胡餅ごへい。どれも法会の供物として寺に届けられたものだ。


 住職は環餅を口に運んでは茶で喉を潤し、煙管をくゆらせては傍らに侍る月之丞を愛でる。皺の寄った目許、弛んだ口許。そこに浮かぶ恍惚の笑みは、僧のそれではない。


 承平は眉を顰めた。


 ――前言撤回。憐れなもんか、生臭坊主め。不非時食ふひじじきもへったくれもあるもんか


 仏前では質実剛健を装っていても、その本性は所詮、欲にまみれた俗物だ。


 だからこそ、両親を亡くした承平と弟の辰助じんすけは、生き別れにならずに済んだのだけれど。


 ――辰助は今頃、おつね婆に米粉粥でも貰ってるかな


 人懐こくて愛嬌のある辰助は、庫裏の女房衆の誰からも可愛がられていた。なかでも最年長のおつね婆は、まるで孫のように辰助を溺愛している。辰助が乳呑児だった頃、おつね婆は朝から晩まで辰助を背負ってあやし、三歳になった今も、暇さえあれば辰助の遊び相手になってくれている。


 ――おつね婆には世話になりっぱなしだな。いつか、ちゃんとしたお礼をしたいもんだ


 辰助と一緒に摘んだ花に礼の一言を添えて贈れば、人の好いおつね婆はそれだけで喜んでくれる。けれど、それを恩返しとは呼べないだろう。


 つらつらとそんなことを考えていると、不意に月之丞がこちらを見た。黒目がちの双眸は、藪の奥から獲物に狙いを定める狐のそれを思わせる。


 箒で落ち葉を掃く手が止まり、砂利がざり、と耳障りな音を立てた。


 住職は煙管をふかし、薄っすらと白い渦を一つ吐く。煙がふわりと立ち上り、月之丞を取り巻いて、その妖しい眼差しをぼやかした。


 住職は月之丞の微笑を眺めつつ、煙管の雁首を火入れの縁に当て、燻りかけた灰を落とす。


 肩から外した袈裟はだらりと垂れている。火入れの脇に重布がかかり、今にも焦げ穴が空きそうで、見ていて危なっかしい。


 月之丞はすかさず膝立ちになり、そっと住職に身を寄せると、袈裟に手を伸ばす。


 月之丞が担う近侍の役割とは、単なる雑務に留まらない。法要の準備、香や数珠の用意、来客の応対など多岐に及ぶ。常に住職の側近くに仕え、住職の衣装を整えることもその内の一つだ。


 月之丞が頭を垂れると、髪に深く挿した黒檀の櫛、その櫛歯の稜が煌めき、濡羽色の艶をいっそう際立たせる。

 梳かれ束ねられた総髪が滝のように背を流れ、陽の光に晒された白い項に目が眩む。彼の呼吸に合わせて、後毛がひっそりと震えていた。


 桜貝の爪先まで整った繊手が袈裟の裾を拾い上げ、丁寧に折り畳む。その指先が袈裟の褶を撫でると、乱れも飾りに変わるようだ。


 住職は煙管をくゆらせながら目を細め、月之丞の甲斐甲斐しい働きぶりを鑑賞していた。


 袈裟の裾を整えると、月之丞は住職の顔を覗き込む。ほんの一瞬の、掠めるような上目遣い。


 住職は目を瞠った。喉仏がうねるように上下する。涎を呑み込むことで首筋の弛んだ皮膚が波打ち、唇の端がじわりと湿るのが遠目にも見て取れた。


 それを見届けることなく、月之丞は俯き、慎み深く微笑んで目を伏せる。


 一連の仕種はどれをとっても過不足なく、見る者の心を惹きつける。それらは全て精緻な仕掛けであり、月之丞の「技」だった。


 以前、彼はこう語った。


「俺には、人心というものがわからん。だから、相手をよく見る。俺が何をどうすれば相手は喜ぶのか、悲しむのか、怒るのか。それさえわかれば、後はどうとでもなる。要は、勘所を押さえることだな。やろうと思えば、お前にも出来るさ。この俺でさえ、どうにかなったんだ」


 的外れな謙遜は、かえって傲慢ともとれた。承平が眉を顰めると、月之丞は唇の端を上げ、悪戯っぽく言った。


「今のはわざとやった。そら、俺が卑屈な物言いをすると、お前は怒るだろう」


 そして、月之丞はふっと吹き出した。


 何がおかしい、とむっとするよりも先に、月之丞が声を立てて笑うという珍しい光景に気を取られ、承平は言葉を失った。


 今、住職を虜にしている微笑は、あの時とは似ても似つかない形をしている。承平の目には美しくも悍ましいものとしてうつった。だが、それもまた、住職を喜ばせるための仕掛けなのだろう。


 その仕掛けは、この時も完璧に作用した。住職は辛抱たまらぬとばかりに月之丞の肩に手をかける。肩から背中へ、ゆっくりと撫で下ろし、束髪に指を潜らせた。艶を愛でるように梳いては、指に絡ませる。


 本来、仏門に身を置く子は髪を剃り、童髷を結わねばならない。月之丞は住職の嗜好により、それを免じられていた。

 月之丞の傍らに添えられ、夜毎、住職の褥に侍る承平もまた、その例に漏れない。


 住職は、長く豊かな黒髪に劣情をもよおすようだった。


 髪を執拗に愛撫されても、月之丞は動じない。まるで供物を奉るかのように、その美事な髪を差し出している。人心というものをわからぬ月之丞は、恐らく、人前で為されるこれを辱めとは思わない。その感性を持ち合わせていない。


 甘露を口に含んだかのような、仄かな微笑を絶やさず、住職の情欲をたなごころの上で転がす。その様は、褥の交歓をも想起させた。


 承平はうへぇとおめき、顔を顰めた。


 ――わからねぇにしても、よくやるぜ。真っ昼間から、よりによって、こんな、人目につくところで


 縁側の端には、数人の稚児たちが控えている。背筋を真っ直ぐに伸ばして端坐する姿は、いかにも武家の子らしい。顔立ちにはまだあどけなさを残すものの、あと数年もすれば寺を出て、凛とした若武者となるだろう。


 承平に言わせれば、まさしく雲上人である。羽織袴に身を包み、綺麗に童髷を結わえ、それが様になっている。所作も言葉遣いも、彼らにとっては生まれつき備わったもののように思える。


 対する承平は、鷲足の村で米や雑穀を細々と商う百姓の子として生まれ、今では寄る辺ない孤児である。

 月之丞もまた、三年前までは国主「緋ノ川家」に仕える御犬飼「銀狼ぎんろう屋」で、住込みの下働きをする孤児に過ぎなかった。


 いずれも、天高く揺蕩う雲を見上げる側の人間だった。


 その月之丞は今や、雲上人である稚児たちすら眼下に見る、遥か高みにいるのだ。


 本来、高僧の寵を受けるのは稚児の特権である。ところがこの住職ときたら、式礼に則り端正な振る舞いに徹する稚児たちには目もくれず、寺童である月之丞に夢中になった。この時も、住職の目は月之丞の一挙手一投足に目が釘付けになっている。


 承平は寺童の端くれとしてこの光景を見ていて、稚児すら差し置かれる異常さを、薄気味悪いと思わずにはいられない。

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