二 雨の日 書庫
父上は兵舎に居を構えていない。私が幼い頃に母が「鳥臭い!」とキレて出奔。そのまま離縁したため父上は私が寂しくないようにと、丘の上の屋敷から城に通うようになったのだ。大変な思いをさせるのが申し訳なくて、もう一人で大丈夫だと伝えようと機会をうかがっていたけれど、週五でワーブル様の元に通うようになって三ヵ月が経った今、父上の出勤に便乗して城へ行けるありがたみを噛みしめている。
「今日は殿下にお会いする日だったか」
「はい」
朝、父上と一緒に馬車に乗り、屋敷を守る鳥たちに見送られながら出発する。私は御者が用意してくれたクッションにお尻を落ち着かせながら、父上の問いかけに頷いた。
「聡明な方だと聞くが、話は難しくないか。父はおそらく今日、少しばかり言葉を交わすやもしれぬのだ」
「分かるように言葉を選んでお話しくださいます」
「そうか。ならばよかった。失礼なくすごせるだろう」
「婚約者の親族相手に厳しくされるようなことはないかと。ご安心くださいませ、父上」
「ああ。ありがとう。……すまないな。もし父の不手際でお前が辛く当たられたらと考えてしまうのだ」
父上はいくらか安心したのか、小さくため息を吐きながら弱々しく呟いた。国の英雄であることを気負わずに素直に弱音を吐くのは父上の美点である。私は「ワーブル様はそのような方ではありませんよ」と城に着くまでひたすら父上を元気付けた。
今日は午後から雨が降りますよ。ツバメが低く飛んでいるのを見てお城の使用人さんに伝えると、いつも二人ですごしている東屋ではなく立派な応接室に通される。すすめられるままサテンのソファーに座り、紅茶を淹れてもらい、使用人さんが一礼して出ていくのを見送って部屋に一人になると、思わずきょろきょろと見回してしまった。素人目に見ても高価だと分かる美術品の数々、そして一人で使わせてもらうには広すぎる部屋の大きさ。私は身を縮こまらせてソファーに浅く腰掛けなおし、ワーブル様を待った。国中から敬われる英雄の娘だとしても中身は一般人である。こういう扱いには慣れないのが本当のところだ。
「お待たせしました。シトリン」
「ワーブル様」
それから二十分ほどしてワーブル様が迎えに来た。私はすぐに立ち上がってドレスの裾をつまみ、軽く膝を曲げてカーテシーという挨拶をする。ワーブル様も軽く一礼して私の傍に来て手を差し出した。
「本日は書庫へご案内しましょう。あなたのおっしゃる通り雨が降ってまいりました」
「ツバメが低く飛んでいたものですから」
差し出された手に手を乗せながら答えると、ワーブル様は目を丸くした。
「ああ。そうでしたか。僕はてっきり天候まで操るのかと」
「ふふ。まさか。今度こそ農民に嫌われてしまいます」
私が思わず笑うとワーブル様は恥ずかしそうに笑って、仕切り直すように「こちらへ」と言い、書庫へ歩き出した。
「しかし麦畑からすずめを遠ざけたあなたたちであれば、僕もそうでしたが、天候を操る程度は造作もないと考える方は出てくるでしょうね」
「それは困ります。まるで神様ではありませんか。国政に影響が出かねません」
「ええ。あまり求心力を持たれては父上も動き出さざるを得ないでしょう。しかしこうして僕たちは婚約しているのです。本当に天候を操られても構いませんよ」
「では操れるようになり次第ご報告いたします」
「そうしてください」
ワーブル様は笑った。三ヵ月前と比べるといくらか自然な笑顔を見せてくれるようになったと思う。上手くやれてさえいれば仲良くなる必要はない婚約だけれど、それはそれとして心を開いてくれたのは嬉しいものだった。
雑談をしながら静かな城内を歩く。城の最奥にあたるこの区域は王族が住まいとして使っていて、王族と男性の使用人さんのみが出入りを許されているそうだ。王族との子をもうけたい女性たちから王子たちを守るため、らしい。齢十歳のワーブル様が口にするにはあまりにも生々しい話題だと思ったけれど、当人はなんてことないように話される。その様子を見守るうちに騒ぐようなことでもないのかと認識を改め、それについては口をつぐんだ。
「お城の書庫は蔵書が豊かなんでしょうね。とても楽しみです」
「はい。他国にも引けを取らないでしょう。父上と母上は学ぶことを昔から好んでいたそうなのです。さ、着きましたよ」
両開きの大きな扉の前に着くと、ワーブル様は一旦私の手を離して扉を開ける。
「わぁ」
マヌケな声が漏れた。おびただしい数のランプに照らされた書庫には書架の他に銅像や胸像が並び、奥の壁には一面にステンドグラスがはめ込まれていた。私はワーブル様に導かれるまま書庫の中に足を踏み入れる。
「胸像は哲学者で銅像は国の英雄です。シトリン、あなたのお父君の銅像も今まさに作製されているところなのですよ」
「ち、父の? こちらに並ぶのですか?」
「ええ。先ほど立ち姿のスケッチをさせたところです」
今朝父上が案じていたのはこのことだったのか。スケッチのモデルになるくらいでそこまで難しい話はしないだろうに。でもまあ、今夜はゆっくり話を聞いてあげよう。
「とても名誉なことですね。今夜はお祝いしなければ」
「そうおっしゃっていただけますと僕としても嬉しい限りです。鳥使い殿はお酒をよく召し上がるとか。本日はお土産にワインをお贈りいたしましょう」
「ありがたく存じますが……」
お城に寝かせてあるようなワインなんてとてもとても。と遠慮すると、ワーブル様は弱ったように笑った。
「実は鳥使い殿の像の企画と進行は僕の仕事なのです。僕自身、上手く進められたことが嬉しく……そこでご協力いただいたことへの感謝として差し上げたかったのですが、鳥使い殿にはどうしても受け取っていただけずじまいでした。そこであなたにならばと」
「さようでございましたか……父が失礼をいたしました。申し訳ございません。ありがたく頂戴いたします」
父上、上手く断れなくて逃げたな。恐縮ですを繰り返し逃げの一手だったに違いない。私は頭を下げながら、父上はきっと落ち込んでいるだろうと思い、今日の夕食は父上の好物にしてくれるよう厨房に頼みに行くことを決めた。
「どうかお顔を見せてください。シトリン」
私はワーブル様に言われるまま顔を上げる。ワーブル様は苦笑していた。私と目が合うとちょっとだけ肩をすくめる。
「僕も押しが強すぎたのです。父上が若い頃、母上のお父君にお酒を贈ったと聞き及んでいたものですから、つい憧れて同じようにしたいと……どんなに取り繕っても、やはり僕はまだまだ子どもですね」
私は首を横に振った。ワーブル様の虚を突かれたような丸い目を微笑みながら見つめる。
「ご自身を顧みて非を認め、きちんと謝罪できる方を私は子どもとは思いません」
「ありがとうございます……しかし、呆れられたでしょう?」
軽く顎を引いて自信なさげに目を逸らしたワーブル様に、私はもう一度首を横に振った。
「戸惑いはしましたが、呆れていませんよ」
ワーブル様はじっと私を見つめたが、ふと表情を緩めた。
「……僕はてっきり、あなたに失望されたかと」
「そう簡単に失望などいたしません。まだご一緒して短い間ですが、ワーブル様が真摯で頼りになる方であるというのは存じておりますから」
「ありがとうございます。ご期待に添えられる人間でいられるよう、今後も努めます」
ワーブル様は微笑んで手を差し出した。
「椅子もすすめず失礼いたしました。どうぞ、こちらへ」
「ありがとうございます」
私はワーブル様の差し出された手に手を乗せて委ねた。ワーブル様は銅像や胸像の間をすり抜け、ステンドグラスの手前で曲がった。大きな書架の影に隠れていたいくつかのソファーが姿を現す。一人掛けから五人掛けまで座り心地のよさそうなものが揃っていた。ワーブル様は二人掛けに私を座らせる。
「お見せしたい本があるんです。他に類を見ないほど挿絵が美しくて。すぐにお持ちいたします。お待ちください」
ワーブル様は一礼すると書架の方へ行き、やがて見えなくなった。軽い足音だけが聞こえてくる。それは迷いのない一定のテンポで続き、一度止み、すぐにまた聞こえてくる。
「お待たせしました」
書架の影からひょこりと出てきたワーブル様は大きな本を両手で抱えて戻ってきた。私の隣に腰掛けて早速本を開く。一人で開くには大きすぎるようだったので、私は本を引き寄せて見開きの半分を膝の上にのせた。ワーブル様は宝物に触れるようにページをめくる。それは花の図鑑だった。綺麗な挿絵が右のページいっぱいに描かれ、左のページには詳しい図と解説が載っている。
「城の庭にない花ばかりなんです」
「遠い国のお花なんですね」
「はい。……本物は一度も目にしたことがなくて」
ワーブル様は挿絵を優しくなぞりため息をついた。
「では、新婚旅行はこの図鑑に載っているお花を全て見に参りましょう。きちんとした旅程を組めばきっとまわりきれるはずです」
ワーブル様はぱっと私を見た。その瞳が一瞬子どもらしくきらめいたが、それもすぐに掻き消えた。代わりに苦笑が浮かべられる。
「世界旅行は魅力的な計画です。しかし、僕は兄たちの分も働かなければなりません。国を離れるわけにはいかないのです」
第一王子はご病気でお部屋から出られず、第二王子は次期国王としてお妃探しに奔走されている……とは、聞いたことがあるけど。まさか二人とも全く政務をしていないとは思ってもみなかった。知らなかったとはいえ気分を悪くさせてしまったな、と私は頭を下げた。
「申し訳ございません。ワーブル様の婚約者であるにも関わらず無責任なことを」
「あ……いえ。僕のためにおっしゃってくださったんでしょう。どうかお顔を上げてください。シトリン」
私はおずおずと顔を上げた。ワーブル様は自らを恥じるような表情をして目を逸らす。
「あなたのお気持ちはとても嬉しいですし、提案自体にもなんら問題はありません。世界中の花々を見て回れるだなんて、本当に、心から魅力的に思います。あなたと旅程を計画する時間も楽しいものになるだろうと、そんな予感さえしています」
ワーブル様は唇を噛み締めた。なんとなく何かを言いよどんでいる気がして待つと、ワーブル様はそっと私を見た。その窺うような目付きに気が付き、私は小さく笑みを浮かべて促す。ワーブル様はおずおずと口を開いた。
「僕が気にしている国での仕事だって、僕一人いなくなったところで何も問題はありません。あったとして、ほんの小さな穴で済むはずです。国政は父上が変わらず立派にこなされるでしょうし母上もいずれお戻りになります。僕や兄たちにまかされる程度の仕事など母上にかかれば一瞬で……ですから、お断りする必要などないのです。けれど、僕は自身が役にたてる存在であることを感じたくて……申し訳ありません。仕事が一つ上手くいった程度で浮かれてしまい、あなたを困らせてしまった」
ワーブル様の胸中は色々な不安でいっぱいになってしまったのだろう。引き結ばれた唇がぷるぷると震え、まだ小さな手はきつく握りしめられている。
「何かや誰かの役にたち必要とされることは誰にとっても嬉しいことですし、浮かれてしまうこともあるでしょう。ワーブル様はそれにご自身で気が付かれ、謝罪される謙虚さをお持ちです。加えてご自身の弱さを認める勇気やそれを告白する責任感もお持ちです。私はワーブル様の婚約者にしていただけたことは幸運だったのだと思います」
私を見るワーブル様の顔は驚きに満ちていた。私はつい笑みを浮かべる。
「今度こそ失望されたかもしれない、というご心配は無用でしたでしょう」
「……それもツバメが教えてくれたのですか」
心の内を読まれたのが悔しかったのか、ワーブル様は少しむすっとして呟いた。




