十五 ワーブルの寝室
ワーブル様から手紙が届かない。陛下との謁見を経た翌日のことである。昨日の鬼ごっこで捕まえられなかったのが悔しかったのかな、と大して気にせず今日も今日とて父上と城へ向かう。
「ああ、お待ちしておりました」
到着して馬車から降りているところに駆けつけた使用人さんから声をかけられる。何事かと父上と顔を見合わせた。お互い身に覚えはなさそうだ。
「何かあったか」
「ワーブル殿下がお部屋からお出にならないのです。お医者さまやお兄君様がお部屋を訪問なさったのですが、めまいがしたから今日は休むとだけ……」
私と父上は再び顔を見合わせた。あのワーブル様がめまいで執務やレッスンをお休みするだろうか。
「それは心配ですね」
「お医者様は確かに顔色は悪かったとおおせになったのでお体があまり思わしくいらっしゃらないのは確かなようなのですが……」
召使いさんは言葉を濁したが、ワーブル様は精神的に参ってしまっているのではないかと心配している様子はありありと見て取れた。父上も察して先を促す。
「どなたかワーブル様にお話しを伺っていないのか? 原因を除いてさしあげたいものだが」
「お兄君様にあらせられるサペンタリ殿下にもガルレス殿下にもお話しされなかったそうです。……そこで、恐れながら、常より親しくされているシトリン様にお力を、と」
「ああ、よくぞ勇気を出して来てくれた」
父上は緊張気味の使用人さんに優しく笑いかけて頷き、私も微笑んで頷く。
「あなたのおかげでいち早く知ることができました。ありがとう。早速向かいます」
「は、はい。よろしくお願いいたします」
使用人さんは勢いよく頭を下げた。
「では父上、私はここで」
「ああ。殿下のことをくれぐれも頼んだぞ」
使用人さんと父上に見送られ、ワーブル様の寝室へ向かう。相変わらず大きくて重たそうな扉を抜けて廊下を歩いているとサペンタリ様とばったり会った。大きな植物図鑑を小脇に抱えている。
「おはよう、シトリン」
「おはようございます」
「恋しい君に会えるなんて。なんていい朝なんだろう」
サペンタリ様は微笑んで私の手をとり軽くキスをした。
「光栄にございます。サペンタリ様にお会いできたこと喜ばしく存じます」
私は微笑み返したが、サペンタリ様の唇から一瞬で微笑が消えた。怖い。
「心からそう思うか? 誓えるか? 昨日はよく逃げ回ってくれたものだが」
「も、申し訳ございません。昨日は上空警護と鳥の訓練で多忙を極め、お会いすることが難しゅうございました」
あらかじめ考えておいた言い訳を伝える。サペンタリ様は目を伏せて未だに握ったままの私の手をじっと見つめた。
「分かった。信じよう。しかし、君に会えない私の心が酷く乱れたことだけは知っていてくれ。突然避けられてしまうようになった以上は君と顔を合わせることは二度とないのだと……それほどまでに嫌われてしまったのかと、どうしようもなく打ちひしがれた。私は最早君がなくては耐えられない。私の心は君の物なのだ。どうか捨てないでほしい」
捨てないでなんて。重い言葉に戸惑い、すぐには言葉が出ず見つめ返す。そんなに傷付けてしまっていたのか。いや対応に困るほど口説くサペンタリ様が全く悪くないと言うとそんなことはない、けれど何も言わずに突然避けてしまうのは一方的に不安にさせ傷付ける行為だ。その点で思えば私だって全く悪くないわけではない。
「申し訳ございませんでした。サペンタリ様」
「……悪いと思うなら私と二人きりで過ごす時間をくれないか。できれば君の住む屋敷に行ってみたい。鳥使いの屋敷は森の中にあると聞く」
「はい。必ずお連れいたします。ただ屋敷は少々鳥臭いので、ご承知おきいただければと」
「構わない。私が君を知ることを君が許してくれることが、私にとって何より重要だ」
サペンタリ様は今度は私の指先にキスをした。唇を押し当てたまま私を見つめる。金色の瞳は少し陰っていて昨日の状態から立ち直れたわけではないことを物語っていた。
「左様でございましたか。では屋敷内もご案内いたしましょう。普段過ごしている所をご覧にいれることも私を知っていただく一助となりましょう」
サペンタリ様はキスをやめ、曖昧に微笑んで私の手をそっと放した。
「ありがとう。楽しみにしている。……引き留めてすまなかった。ワーブルの寝室へ行くところだったのだろう。これを持っていってやってくれないか。見舞いの品だ」
「よろしければサペンタリ様もご一緒に……」
「私がいてはワーブルの気が休まらない。あの子の嫉妬深さは君もよく知るところだと思うが」
たしかに。あからさまに納得してしまった私にサペンタリ様は小さく笑って植物図鑑を預けると「書庫から見繕ってまいりましたと言えばいい」と言い残して行ってしまった。私はサペンタリ様の背に一礼して植物図鑑を抱え直しワーブル様の寝室へむかう。相変わらず豪奢な作りの扉をノックした。
「ワーブル様。シトリンでございます」
「……どうぞ」
少し間は空いたが許可はもらえた。私は片腕で図鑑を抱え直してドアを開ける。
「失礼いたします」
一礼して改めて室内を見ればワーブル様はベッドに横になったままじっと私を睨んでいた。不機嫌そうな顔をして黙っている。やっぱり昨日私を捕まえられなかったことが尾を引いているのかもしれない。……しかしあのワーブル様に限って、自分の機嫌が悪いというだけで執務やレッスンを休むだろうか?
「ワーブル様。お加減が思わしくないと伺いました。その後いかがでしょうか」
「……聞いてどうするんですか。あなたには関係ないでしょう? 僕のことなど放っておけばよろしいのでは? さようなら!」
ワーブル様は涙声で言い放つと寝返りをうって私に背を向ける。どうやらただの不機嫌ではなさそうだ。私はとりあえず室内に入りベッドの傍まで行った。抱えていた本をサイドボードに置き、看病の時と同様にスツールを運んできて座る。
「ワーブル様」
「……放っておいてくださればいいのに」
「それは出来かねます」
「僕のことなんかどうでもいいくせに!」
「そのようなことはございませんよ。どうでもよければ今ここにはおりません」
「それは務めを果たしているだけです。僕のことを本心から心配しているわけではありません」
「いいえ」
「嘘です。信じません。どうせ僕が子どもだからと甘やかして誤魔化そうという魂胆なのでしょう? 騙されません。僕は愚かではない。それくらいのことは分かります。駄々をこねている第三王子の機嫌をとってやろうと思っているんでしょう? 分かっているんですからね。あなたが僕をどう思っているかなんて。本当は僕のこと面倒な子どもだと思っているんでしょう。聞き分けのない手のかかる子どもだと、遠ざけておきたいと、構うのは疲れると、じゃ、邪魔だとお考えなんじゃないですか? 分かっています。遠慮せずどうぞ、おっしゃってください。そうしてここを出ていって……早く。早く出ていって!」
最後は半ば金切り声で叫び、ワーブル様はすすり泣く。私の何がこんなにもワーブル様を傷付けてしまったのだろうか。逃げたこと? 捕まらなかったこと? まあ不機嫌になるにはなるだろうが様子が尋常ではない。もっと別のことだ。放っておけばとか、どうでもいいとか本心から心配してないとか、遠ざけたいとか、邪魔とか。ワーブル様の口にした言葉から推測するに、私がそういった態度を取ってしまったことが問題なのだろう。しかし身に覚えがない。全くない。どうしたものか。
「お傍におります」
「もういいです。僕の相手なんかしたくないのでしょう」
「いいえ」
「嘘つき」
「嘘など、」
「嘘つき! もう聞きたくない! 嘘つき! 嘘つき嘘つき嘘つき!」
ワーブル様は飛び起きて両手で枕を掴むと私をめちゃくちゃに叩こうとした。ところが大きな枕はワーブル様の手に余っていて、見当違いな所にぶつけたり上手く動かなかったりで私にはほとんど当たらない。それでもワーブル様は枕を振り回した。癇癪で我を忘れているのかもしれない。涙まみれの真っ赤な顔で「嘘つき」と言いながら私めがけて枕を振り下ろそうと何度も何度も。
そうして散々振り回したワーブル様の手から枕がすっぽ抜けると、ワーブル様は次の手段に移るでもなくベッドの上でうずくまって泣き始めた。私は黙ったまま傍に控える。今この人の傍を離れてはいけないと思ったし、離れたくなかった。
「……シトリン」
「はい。ワーブル様」
しばらくしてワーブル様が心細そうな声で私を呼んだ。私は優しく返事をしながら、まだ少しぐずっているワーブル様の背中をさする。
「昨日はなぜ来てくださらなかったのですか。僕とあなたの関係についてお話ししたいとお伝えしたのに。……後回しにしてもいいとお考えだったのですか」
え、いつ? 大急ぎで記憶を探るがそんな約束をした覚えはない。王族の方々との会話は失礼のないようにできる限り詳細に記憶しているが、最近の会話では約束についての話題は一度も出ていない。そもそもそんな話題が出たら他の何を差し置いても絶対に覚えておくはずだ。となるとワーブル様は会話の他で私に伝えてきたのだろう。会話の他で伝えるって?
「いいえ。とんでもございません」
「ではなぜです? あなたが結婚相手を選択するとなれば、兄上たちは必ず、あなたを誘惑するでしょう? その前に、お話しをしておきたかったのに……。兄上たちはあなたに、会えなかったようですがそれは、結果論でしょう。僕は、ずっと待っていたのに」
ワーブル様はつっかえつっかえ責めてくる。私はようやく合点がいった。そして自分のやらかしを悟り、血の気が引いてめまいがした。くらり、と頭が揺れる。手紙だ。
「……申し訳ございません。ワーブル様。実は……昨日頂戴いたしましたお手紙を、最後まで拝読しておりませんでした」
「え……?」
ワーブル様が顔を上げる。私はその背中をさすっていた手を引いて立ち上がると深々と頭を下げた。
「誠に申し訳ございません」
「なぜです? いつもは最後まで読んでくださるのに……」
「陛下のご決断につきまして拝読し、即ご容赦いただかなければと頭がそればかりになりましてございます」
「では、あなたはご存知なかったのですね」
「はい。申し訳ございません。ワーブル様のご指示に反してしまい大変なご無礼とご迷惑を」
なんらかの処分は受けることになるだろう。いくら鳥使いの娘とはいえ王族への無礼は許されない。……どうしよう。父上に申し訳が立たない。せめて罰は私だけに与えていただけないか話をつけられないだろうか。
「……顔を上げてください」
「はい。……失礼いたします」
私は恐る恐る顔を上げた。ワーブル様はベッドの上であぐらをかいて腕組みをし、いつもの不機嫌そうな顔で私を睨んでいる。
「まず、許しましょう。あなたの立場を思えば理解できます」
「あ、ありがとう存じます」
思わぬ言葉についどもる。戸惑う私を気にすることなくワーブル様は続けた。
「昨日お話ししたかったこと、ここでさせていただいても?」
「はい」
「ではガルレスお兄様のことですが。なぜ今になってあなたの婚約者に立候補を? お心当たりは?」
「先日のことのお詫びをとのことでした。ガルレス殿下は酷く気に病まれているご様子で」
「詫びであなたを妻に?」
「はい。その……償っても償い切れないとお考えなのか、生涯をかけて私を不快な目や危険な目からお守りくださるとのことで。もちろん私は私の職務をまっとうしただけのことにございますから、そのようにお考えいただくことすら恐縮なのですが」
ガルレス殿下のプレゼン内容をやんわりまとめて話すと、ワーブル様は複雑そうな顔をした。
「それは、そうお考えになることは当然です。兄上は僕たち兄弟の中で最も心根の穏やかな人ですから。それにあなたとは親しい間柄です。傷だらけで倒れるあなたを見て大きな衝撃を受けたのでしょうね。僕だってきっと兄上と同じように考えて同じように行動するでしょう。実際あなたの前でずいぶん泣いてしまいましたから。……」
ワーブル様はそこで言葉を切って目を逸らした。思い出してしまったのか目に涙が浮かんでいる。引き結ばれた唇はそれでもかすかに震えていた。
本当に怖い思いをさせてしまったのだな。私は自分のしたことがどんなことなのか改めて思い知りながら、ワーブル様にハンカチを差し出した。ワーブル様はなんとか頷いてハンカチを受け取り目元にあてる。
「兄上があなたの婚約者に名乗りを上げた動機は分かりました。あなたを愛しているだとか好きになったからだとかそういうことではないのですね」
「はい」
「優しくなどしていませんね?」
ワーブル様の膝の上に投げ出されていた小さな左手が強く握りしめられる。目元を覆うハンカチを持つ手にも力が入っていて、さらに唇にも力が込められ歪になっていた。
「はい。お茶を嗜みながらお話しをしていただいた程度で」
「話とは、謝罪と償いですね。他の話題は? 兄上が喜びそうなことは言いましたか?」
「よ、喜びそうなことでございますか……これといって申し上げておりません。初めの話題が話題でしたし休憩も兼ねておりましたので、途切れ途切れの雑談といった所でございます」
「……そうですか」
嫉妬されるようなことはしていないが、ワーブル様にとって自分以外と過ごしていること自体が嫉妬の対象なのかもしれない。そんなに不安にならなくてもいいのに。誰が見ても分かるような高い能力を持っているのだから自信を持てばいいのに。
「とにかく兄上があなたを愛していないのであればよかったです。人付き合いができる兄上がその気になれば、あなたと今以上に親しくなることも容易いでしょうからね」
ワーブル様は目元からハンカチを外して綺麗に畳み直しながらぶつぶつ言う。それから不安そうに、赤くなった目で私を見つめた。
「サペンタリお兄様も僕も人付き合いという点においてはガルレスお兄様に大きく劣っています。もしかしたらあなたを妻にできるのはガルレスお兄様かもしれません」
「はい。人付き合いという一点においてはそうかもしれませんね。しかし陛下はお三方それぞれに異なる美点を見出してらっしゃいます」
宥めるとワーブル様は黙って頷いた。しかしその両手は畳み直したハンカチをぎゅっと掴んだままだ。
「ワーブル様。陛下のご決断まで七年余りございます。健やかに過ごされ立派に成人の年を迎えられたワーブル様をご覧になった陛下が、どのような御判断を下されますかどなたもお分かりになりませんでしょう。七年余りとはそういった時の流れなのです」
「その七年余りの間にガルレスお兄様があなたを愛してしまったら? あなたが兄上たちのいずれかを愛してしまったら? ……シトリン。あなたは僕よりずっと早く成人してしまうのですよ。成人同士の間に子どもの僕は割り込めません。外から見ていることしかできない。僕はそれが一番恐ろしいのです」
「そのようなことは決してございません。私はどなたも愛さないとお約束いたしました」
「でも、いつか、いつかその約束を邪魔に思う日が、あなたが誰かに恋をする日が来るかもしれません!」
ワーブル様は悲し気に言った。まさか恋の心配までしていたなんて思いもよらず、つい目を丸くしてしまう。ワーブル様ははっとして悔しそうに頬を赤らめた。まずい辱めてしまった、と慌てて私は口を開く。
「はい。恋をすることがないとは言い切れません。しかし恋愛感情を認めてなんらかの行動を取ることは決してございません。鳥使いの娘である自身の立場を重んじるべきとの考えがございます」
ワーブル様は目を見開き、すぐ気まずそうに目を伏せた。すると自分がハンカチを強く掴んでしまっていることに気が付いたのか、丁寧に皺をのばして私に差し出す。
「あなたのあり方を疑うようなことを言いました。申し訳ございませんでした」
「いいえ。きちんと申し上げずにきた私の落ち度でございます。申し訳ございませんでした」
私は謝りながら両手でハンカチを受け取る。ワーブル様はまだ気まずげで、さらに何か言いたげにしながらハンカチを差し出した手を下ろした。済んだことなんだからそんなに気にしなくていいのに。何か別の話題でも振ろうか。私はハンカチをしまいながら「そういえば」とワーブル様に笑いかける。
「もうすぐお昼になりますが、お食事はいかがいたしましょうか。部屋へお持ちするよう使用人に伝えますか?」
ワーブル様は使用人と聞いた途端にツンと唇を尖らせた。私は苦笑を押し殺す。ワーブル様の嫉妬はもはや反射的な物なのかもしれない。
「……できれば、あなたと摂りたいです。庭に席を用意させて、軽食を取りながらお話しをしたいです。ガルレスお兄様としたように、僕も……」
「ご一緒させていただけるのですね。ありがとうございます」
礼を言うとワーブル様はようやく顔を綻ばせた。




