十二 城 寝室
口の中を切った。鼻血が出た。顔に痣ができた。大きなたんこぶが二つできた。髪をむしられたところが円形にはげた。散々である。目が覚めると私は豪華な部屋に寝かされていた。なんだか見覚えがある。ああ以前ワーブル様に泊めていただいたお部屋だ。体を起こして背中とベッドフレームの間にクッションを挟み、背もたれにして座る。顔や頭だけでなく背中や腰、お尻も痛い。きっと体にも痣ができているんだろうな。
「失礼します」
ノックもなくドアが開いて俯いたワーブル様が部屋に入ってくる。疲れの滲む暗い声に、今回の騒動はもう知るところとなっていることはもちろん、事態の収拾に動いてくれたのだということを察することができた。
「ワーブル様」
「シトリン……!」
ベッドに座ったままにも関わらずつい声をかけてしまった。ワーブル様は弾かれたように顔を上げ、転びかけながら駆け寄ってくる。その勢いのままベッドに乗り上げ、苦痛を堪えるような顔をして、確かめるように私を見つめた。私は慌てて唇を開く。自分がワーブル様に酷く心配をかけてしまったことを悟ったのだ。
「ご心配をおかけいたしまして……誠に申し訳ございません。お騒がせいたしました」
「目が覚めて本当によかった。意識を失うほど頭を強く打ったんですよ。医師は心配ないとしか言わず、しかしあなたは目を覚まさず……」
飛び掛かられて押し倒された辺りで記憶が途切れているのはそういうことか。あの令嬢は華奢な見た目からは考えられないほど力が強いらしい。
「私は長く眠っていたのですか?」
「ええ。六時間ほど。……まるで永遠のようでした。あなたはぴくりとも動かなかった。このまま、……」
ワーブル様は口をつぐんだ。その目には涙が滲み、つんと上向いている小さな鼻の頭は赤くなっている。
「ワーブル様」
優しく名前を呼ぶと、ワーブル様は少し目を伏せた。途端にぼろぼろと涙が零れ落ちる。
「お手に触れても?」
「……はい」
ワーブル様は両手を差し出した。私は両手でワーブル様の手を包み込む。ワーブル様は顔を歪めて本格的に泣き出した。
「この通り、私は生きております。ワーブル様のお傍におります」
「……死なないで」
「はい」
「誓って」
「誓います」
「……本当に?」
「はい」
ワーブル様は幼い子どものような口調で不安げに言い募る。何度も何度も繰り返し確認してくるのは、どうしても不安が拭えないためだろう。それだけ私はこの子を深く傷付けてしまったのだ。
結局ワーブル様が落ち着いたのは、夜も更けた頃である。俯いて鼻をすするワーブル様を見守っていると、手の中でワーブル様の両手がもぞもぞと動いた。察して放すとワーブル様は俯いたまま顔を袖で拭き、そそくさとベッドからおりる。顔を見られたくないのか、俯いたままベッドサイドに立ち尽くしている。椅子に座ろうとしない様子からして恥じているのだろう。
「……あの、シトリン」
「はい」
「もう、大丈夫です」
「ようございました」
「すみません。意識が戻ったばかりのあなたに無理をさせてしまいました」
「どうかお気になさらないでください。ワーブル様のお力になれるのでしたら、私はいつでも」
少しでもワーブル様の気持ちが楽になればと優しく言う。ワーブル様が意を決した表情で何か言いかけたその時ノックの音がした。
「シトリン。入るぞ」
間もなくドアが開いてサペンタリ様が入ってきた。私と目が合うとサペンタリ様は目を見開き、すぐ嬉し気に顔をほころばせる。
「目が覚めたか。体はどうだ? 何か欲しいものはないか? ああ、よかった。なあ、ワーブル。彼女が目覚めたんだ。本当によかった」
サペンタリ様は矢継ぎ早に言いながらベッドまでくると、ベッドサイドに膝をついて私の手に手を重ねた。私を見上げる金色の瞳は蝋燭の火で美しく輝き、私はうっかり魅入られて口をきけなくなる。
「可哀想に。恐ろしかっただろう」
「…………」
「シトリンから離れてください! 女性に軽々しく触れるなんて許し難い行為です」
されるがままの私を見かねたのか、ワーブル様が苛立たし気にサペンタリ様の手を引きはがした。
「不躾だった。すまない」
「あなたもですよ、シトリン。相手が誰であろうと断ることができるようになるべきです。いいですね!」
「は、はい。お恥ずかしい限りで、面目次第も……」
ワーブル様に叱責されて我に返り私は慌てて頭を下げる。しかしワーブル様は黙ってツンと唇を尖らせると、何も言わずサペンタリ様を見やった。
「もう気が済んだでしょう、兄上。退室しましょう」
「いや、」
「駄目です」
サペンタリ様が軽く首を横に振りながら何か言いかけると、ワーブル様は食い気味に拒否しながらサペンタリ様のシャツの二の腕の所を引っ張った。無理にでも立たせようとしたのかもしれない。しかしサペンタリ様はびくともせず、困ったような微笑を浮かべる。
「長居はしない。すぐに出るよ。シトリンに夜会に出ることを伝えるだけだ」
そう言いながら、サペンタリ様は私を見る。
「……夜会に、いらっしゃるのですね」
私はそれだけなんとか返し、思わずワーブル様を見る。ワーブル様も寝耳に水だったのか、目を見開いてサペンタリ様を凝視していた。若干眉間に皺が寄り、信じられない物を見る目をしている。私も正直同じ気持ちだ。サペンタリ様を目にした国中の令嬢たちが、一度でいいからお話しをと殺到するのは目に見えている。また拗らせる令嬢が出ないとも限らない。何より、何よりガルレス殿下が。
「僕は反対です。いったい何をお考えになった末にそうなったのか全く見当も付きませんが、兄上が人前に姿をさらす行為が危険であることに変わりはありません」
「国中の人々が集まる場だからこそ、愛する人がいると宣言すれば一度に大勢の女性が私を諦めるだろう?」
「諦めない方がいらしたらどうされるおつもりですか?」
「相手をしない。そも、そういった方がいらっしゃるとは私には到底思えぬのだ。恋い慕う方がいる私に実らないアプローチを続ければ、周囲の目も親族の目も突き刺さるようになるだろう」
サペンタリ様の言葉を受けたワーブル様は軽く目を伏せ、一度ぎゅっと目をつむった。それからぱちぱちと何度か瞬きをしてから顔を上げる。とても真剣な顔をしていた。
「普通の人であればそうなのでしょう。しかし兄上。あなたは普通の人ではありません」
「確かに私は第一王子だが……」
「僕が言いたいのは立場ではなく見目の麗しさです。……ご存知なかったのでしょうが、同性の使用人ですら六十余人が里に帰されているのですよ。この意味がお分かりになりますか?」
サペンタリ様は大きく目を見開いた。小さく唇が開きかけたが、ワーブル様の変わらない表情に何も言えなくなったのだろう。何も発さず真一文字に引き結ばれた。やがて伏せられた金色の瞳は、忙しなくきょろきょろと動いている。話せなくなるほど動揺してしまっているその様子に、私はつい可哀想になってしまった。
「ワーブル様……」
「ええ。シトリン。分かっています。しかし兄上には今一度ご理解していただかなくてはなりません」
ワーブル様は真っ直ぐにサペンタリ様を見つめたまま厳しくも静かに言い放ち、私が何か言う間もなく「よいですか、兄上」と続ける。
「六十余人それぞれに、妻子や恋人がいたのです。里への手紙も仕送りも絶やさず、城下で遊ぶこともなかった、真面目な男たちだったのです。そんな彼らが仕事に手が付かなくなったと青ざめながら訴えてきた。それがいつからか、お分かりになりますか?」
サペンタリ様の唇がかすかに震え始めた。それを見たワーブル様はさすがに少し言葉に詰まって「そういうことですから」と話題を戻す。
「他者からの批判の目どころか自身の批判の目があったとしても、兄上の美貌の前では意味をなしません。その結果どうなるか。僕が一番恐ろしいのは、シトリンに矛先が向くことなのです」
サペンタリ様はずっと下げていた視線をワーブル様に向けた。
「なぜシトリンが」
「妬みです」
ワーブル様は短く言うと、私を見た。
「シトリンが巻き込まれるようなことは二度とないようにと僕は考えています。……この方は鳥使いの娘として行動されますから、またご自身を投げうちかねません。自分さえ我慢すればと考えかねない方なのです。危険に近付けないようにしなければ」
「それは、……その……」
泣かせてしまった手前、私には何も言えない。結局口ごもって終わった。サペンタリ様は小さく頷く。
「分かった。シトリンへの想いは隠しておく。夜会への参加も取りやめだ」
私はワーブル様と顔を見合わせた。ワーブル様はほっとした顔をしていて、私もおそらく似たような顔をしているだろうなと思いながら、ちょっと笑い合って二人でサペンタリ様を見る。サペンタリ様はじっと私を見上げていた。目があった瞬間私は思わず目を逸らす。サペンタリ様の切なげに細められた目やじれったそうな唇がやたら画になっていて、見てはいけないものを見ているような気持ちになったのだ。うわああごめんなさいすみません見てません見てませんと言いたくなるような、そんなやましい気持に一瞬でなってしまったのだ。
「……ワーブルと仲が良いのだな」
「え、と、はい、よくしていただき、不敬でしたでしょうか、何か、あの、失礼を?」
サペンタリ様のかすかに苛立ちの滲む声でさらに動揺し、私はついちらりとワーブル様を見た。するとワーブル様はなぜか嬉しそうにする。
「僕はそんな風に思っていませんよ。落ち着いてください、シトリン」
優し気な声で言いながら、ワーブル様はベッドの上に手を差し出した。私はその手に手を重ねる。私より小さな、けれどマメだらけの手が私の手を優しく握った。
「僕は好ましくない人の手をこんな風に握って宥めたりしません」
「ありがとうございます……」
心強く思う反面、十歳の子に頼る私ってと情けなさと恥ずかしさとで上手く笑えなかった。
「誤解をさせて悪かった。ただ私は嫉妬したのだ」
「ええ。存じております。僕の方がシトリンと通じ合っていることに気が付かれたのでしょう」
サペンタリ様の謝罪にワーブル様は得意げに頷く。しかしサペンタリ様はワーブル様を相手にしない。嫌な沈黙が流れた。大切な弟相手にも容赦ないその態度からは、サペンタリ様の嫉妬がおよそ可愛い物ではないことを察するにあまりある。
「シトリン」
「は、はい」
サペンタリ様が私を呼ぶ。私の手を握るワーブル様の手の力が強くなった。私はワーブル様の手を優しく握り返しながら、未だベッドサイドに片膝をついているサペンタリ様を見る。金色の瞳と目が合った。その瞬間、今度は目を逸らすことを許してくれそうにないと思った。サペンタリ様の綺麗な唇が開かれる。
「愛している」
「こ、光栄でございます。ありがとうございます」
「何に対して?」
「え、っと……あ、愛して、くださって……」
愛って言葉ってどうしてこんなに恥ずかしい気持ちになるんだろう。おまけにサペンタリ様の目を見て言わなければならない現状、恥ずかしさは段違いである。自分の顔の熱さが触らなくても分かった。サペンタリ様は微笑む。
「君が成人したその日に改めて想いを伝えたい。いいかい? 私の可愛いシトリン。もし君が私の想いを受け入れてくれたならどんなにいいだろうか。君のような人が妻となってくれたなら、これ以上の喜びはない」
「お忘れですか? 僕が十八になるまでシトリンは誰の妻にもなりません。父上がよいとおっしゃってお決めになったことなのですから違えることは許されませんよ。努々お忘れになりませんように」
急に口説き始めたサペンタリ様に戸惑う私の傍らで、ワーブル様が釘を刺した。たとえショックを受けていても、ワーブル様は言うことは言う。しかしその声にはいつもの刺々しさがある一方で、心細さで泣き出しそうな、まるで迷子のような響きもあった。私は安堵半分心配半分でワーブル様を見る。気のせいでなければ目が若干潤んでいるような。
「……ああ。もちろん心得ている。しかし口説くなとはおっしゃられなかっただろう?」
「屁理屈です。シトリンを誘惑していい理由にはなりません。今はシトリンにふさわしい人間になるための努力期間です」
「そうだな。しかし私は、魅力的だと思っていることを伝えることもまた同様に努力だと考える。愛していることは伝えるべきと兄は思うのだ」
サペンタリ様はワーブル様を見据え、穏やかにしかしはっきりと自分の意見を言う。ワーブル様はいくらか安心した様子で口を開いた。
「それはシトリンからの好感を得るためですか?」
「愛を伝えた結果得ることもあるだろう」
「好感で選んだ人間と結ばれることは能力で選んだ人間と結ばれることと比べ、シトリンが将来的に穏やかにいられる確率が低くなります。シトリンが穏やかに暮らせるようにあらゆる手を尽くすことができる人間こそが、シトリンと結ばれるべきと僕は考えます。つきましては兄上。シトリンが好感を抱くようなことは慎むべきとご理解ください」
「自身を愛している相手と結ばれることこそが幸せなのではないか? 心からの安堵を覚えるのではないか? 私は愛を伝え続けたい」
重い沈黙が流れる。どちらも自分の意見を曲げるつもりはないようだ。どうしよう、なんとか間を取り持たないと。でもこの流れで私に仲裁できるのかな? 拗れない? でもでもだからってただ黙って見てるわけにもいかない。少なからず私だって関わってるんだ。責任がある。じゃあどうやって? ……なんも考え付かない。きっとガルレス殿下なら上手いこと二人を宥めていい感じに収めるんだろうな、ということくらいしか。でも私ガルレス殿下じゃないし……私でもできることってないのかな。私がこの二人を動かせるとしたら……そうだ。
「……誠に申し訳ございません」
私は謝りながら敢えてベッドに横になった。さすがに無礼すぎるかもと内心冷や汗をかきながら二人を窺う。ワーブル様は泣きそうな顔で私を見つめながら握っていた手にぎゅうと力を籠め、サペンタリ様は引きつった顔で素早く立ち上がり私の顔を覗き込む。よ、よし。狙い通り心配してくれた……最低だ私。
「すまない。傷に障ったな。医者を呼ぼう」
「僕行ってきます」
「あっ、あっ、いえ、私、ただ、えっと……少し、えっと……」
まずい大事になってしまう。私は慌てて離れかけたワーブル様の手を握り直し、二人の顔をきょろきょろと見ながら言葉を探した。サペンタリ様は微笑んで小さく首を横に振る。
「遠慮は必要ない」
「え、遠慮ではなく、少し、少し座っていられなくなってしまって、体が、その、少しだけですが、本当に少しだけ……た、体力が。体力が足らず。申し訳ございません」
しどろもどろで見苦しいと理解しつつ必死に事態の収集を図る。これ以上お騒がせをするわけにはいかない。鳥使いの娘以前に人として。そんな私の必死さをどう思ったのかは分からないが、ワーブル様は頷いてくださった。
「そういうことでしたか。分かりました。しかしどうかお気になさらず。あなたは病み上がりなのですから。僕たちも長居してしまいましたし」
「ありがとうございます、ワーブル様……」
ほっとしてつい笑いかける。ワーブル様も微笑んで、小さな手で私の手を優しく握り返した。と同時にサペンタリ様が「そうだな」と言いながら私に手を差し出してくる。また嫉妬させては元の木阿弥というやつだ。私はおずおずともう片方の手を差し出した。サペンタリ様はベッドに片手をついて身を乗り出し、私の手をすくうようにして取る。
「無理をさせてしまい申し訳なかった。ゆっくり休んでくれ」
「は、はい。お心遣いありがとうございます。痛み入ります」
「そうかしこまらないでくれ。愛しているんだ」
サペンタリ様は私と目を合わせたまま軽く私の手を引き、止める間もなく私の手首にキスをした。……あの、手の甲よりもなんていうか、腕に近くて、なんていうか、なんていうか……! 真っ赤になっているであろう私にサペンタリ様は嬉しそうに目を細めた。
「君に唇を寄せるのは私だけであってほしいものだな」
「シトリン!」
ワーブル様が身を乗り出してぐっと顔を近付けてきた。鼻先が一瞬くっついたのに驚いてキスへの照れを忘れ、ワーブル様の真剣な目を見つめ返す。
「た、ただの挨拶ですよ。シトリン。いいですか? ただの挨拶に魅力を感じることはおかしなことです。あなたは病み上がりで疲れが出ていて判断が鈍っている状態です。ですから、好感を覚えることのないように、どうか。……もう一度言いますよ、いいですか、今のはただの挨拶です。あ、兄上に好感を抱くなんて、違いますからね、シトリン。あなたなら、あなたなら分かってくださいますよね? 僕たち、僕たち約束をしたのですから。あなたは誓ったのですから」
口を挟む間もないほどの早口でワーブル様が言い募る。少し涙目になっていた。取られてしまうのが怖いのだ。あんなに一生懸命に、婚約者としてふさわしい行動をと考えていたのにと不憫に思った。こんなことになってしまった悔しさや悲しさもあることだろう。私に顔を寄せるワーブル様を、サペンタリ様が軽々と引き離して抱っこした。
「兄上! 嫌だ! 離して! 兄上!」
「シトリンをそろそろ休ませてやろう。ワーブル」
「嫌だ! シトリン! 分かったと言ってくださるまで僕は! 兄上! もう! 兄上!」
「おやすみ、シトリン。いい夢を」
当然ワーブル様は抵抗するも力で敵うわけもなく、サペンタリ様と共に寝室を出て行ったのであった。




