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匂いで橋を呼ぶ私と、影に宿る彼  作者: NOVENG MUSiQ


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3/3

後編 影に宿る恋、こちら側の朝

 夜の底で、影がゆっくり呼吸している。内側でプネウマが微睡む気配は、黒の織り目に差した薄金の筋のようだ。私が手首を乗せると、脈と脈が半拍だけずれて、それから静かに重なる。ずれは誤りではない。共鳴の入口だ。


 明け方、硝都の窓という窓が白く曇る。昨日の会話の欠片はまだ冷たく、足裏に薄い問いを貼りつけたまま。私は影を起こさないよう台所で湯を上げ、桂皮と柑子皮を一枚ずつ落とす。湯気は細い橋の模型になる。こちらの名前を持つ光が、湯面に静かに張る。


 伴「もう行く?」

 霊花「橋が鳴く前に、手の調子を合わせたい」

 プネウマ「息は君の歩幅にする。僕はその半歩うしろでいい」


 仮橋の耐用は、今日の昼で終わると告知があった。砂の上を歩くほど、硝片の微かな光が足元で弾ける。橋脚の下では砂風が低く歌い、印床は夜露の名残で鈍く濡れている。私は香筒を置き、背骨鍵の擦写紙を胸元に差し込んだ。呼吸を七に揃え、【記香織】を起こす。匂いは糸に、糸は文に、文は景に——いや、今日は“手順”に変わる。


 七彩の声「問い七。君は“こちら側の朝”を恋の常設とするか」

 伴「最終って言葉、好きじゃないけど、締切の匂いは嫌いじゃない」

 霊花「常設は、儀式を小皿に分けること。台所の手数で、毎朝やり直すこと」


 私は印床に掌を置き、背骨鍵の形を言葉ではなく匂いでなぞった。蜂蜜硝、雨の石畳、羊脂、桂皮。四つの順序が呼吸の拍に乗って、橋の床に染み込む。世界が小さく━━"コココ"。

 床下で見えない硝糊が緩み、次いで固まりかける。物理の橋は昼で消える。だが匂いの橋は、台所の湯気みたいに、毎朝あたらしく架け直せる。


 プネウマ「君がこちらで灯す光は、僕にとって居場所だ」

 霊花「居場所は、広場より台所がいい。広場は見せびらかしになるから」

 伴「見せびらかしは恋の消耗戦。台所は保存食」


 鈴喚が一度目を告げた。砂の上の音は長く尾を引く。私は胸の内の迷いを並べ直す。裏切りについての問いは、昨夜の屋上で一度答えた。過去は寛容だ。けれど寛容と別れは別の語だ。私が恐れているのは、誰かを裏切ることより、私自身の歩幅を失うこと。歩幅を失うと、橋は向こう風にしか架からない。


 プネウマが影の端から半歩だけ実体化した。蜂蜜硝の瞳が風景をひと口ずつ飲む。

 プネウマ「お願いがある。今日、君が選ぶ瞬間だけ、僕を君の影から君の手へ移してほしい。重さで決心を歪めたくないから、移すのは“瞬き一回分”だけ」

 伴「慎重すぎるけど、嫌いじゃない」

 霊花「分かった。瞬き一回分」


 私は掌を影へ差し入れ、薄い重さを掬い上げる。指の間が温まる。温みが方角を指す。私は印床にその温度を押し当て、背骨鍵の最後の曲線を描いた。橋の中央に淡い光の継ぎ目が走る。継ぎ目は傷ではない。編み目だ。


 二度目の鈴が鳴る。列の人々が歩幅を揃え、誰の顔でも渡れる顔に寄ってゆく。彼らの信仰を否定はしない。でも私は、私の台所に宗派を置きたい。宗派とはつまり、毎日やることの順序だ。順序は私を守る。けれど硬くなれば視界を狭める。硬さと柔らかさの真ん中に、湯気の濃度くらいの、揺れる決意を置く。


 伴「ねえ、霊花。今日、渡らないって言える?」

 霊花「渡らないんじゃない。橋を呼び寄せ続けるの。こちらへ」

 プネウマ「君がそうするなら、僕は君の台所語を覚える。火加減、湯気、砂糖の刃、休ませる時間」

 霊花「刃?」

 プネウマ「甘さにも刃がある。切り分けないと、誰も食べられない」


 三度目の鈴。仮橋の役目はここで終わる。私は擦写紙をたたみ、香筒を片づけ、胸の前で両手を空けた。空けた両手は器だ。器は容量で恋の持続を決める。私の器は大きくはない。でも毎朝洗えば匂いは澄む。澄んだ器に、君の呼吸を半匙だけ混ぜる——そのくらいがいい。


 プネウマ「家賃は翻訳で払うよ」

 霊花「翻訳?」

 プネウマ「君の日常の匂いを、僕の向こう語にして返す。君は僕の夜を、こちら語にする」

 伴「契約、いるね」

 霊花「大袈裟にしない。小さく、確かに」


 私たちは香契(こうけい)を交わした。手首に桂皮の粉末を指で描き、蜂蜜硝を一滴、羊脂で封をする。儀式めいていないのに、結び目が皮膚の下で小さく脈打った。七彩のどこかが、静かに頷く。


 夕方、橋は完全に姿を消した。けれど印床のあたりにだけ、雨の石畳の匂いが薄く残る。私はそこへ寄り、鼻先で確かめる。匂いは記憶の居場所を指し示す矢印だ。過去は結果より経路を愛する。なら、経路に目印を撒けばいい。目印は痛みの少ない箇所にだけ置くのではなく、少しだけ痛い場所にも置く。刃物店の金属の匂いを混ぜるのは、そういう理由だ。


 香読所に戻ると、窓辺の瓶たちが夕光を飲んで、腹の底で小さく鳴った。私は看板を裏返す。休みではない。仕度中。仕度には順序がある。朝餅を二つ、半分ずつ。茶に桂皮を一片。湯気に記香織を薄く通す。影へ少し居場所を空ける。手首の香契を確かめる。忘れ物があれば、台所の引き出しに一度戻す。戻ることは敗北ではない。巡り直す地図だ。


 伴「今日の伸び代は?」

 霊花「朝餅一個ぶん」

 プネウマ「甘さで測る単位、好きだよ」


 私は机に腰を下ろし、紙の上に七つの語を並べた。蜂蜜硝、雨の石畳、朝餅、桂皮、羊脂、煮油、汗。最後に空欄を置く。空欄は未来の呼吸のための席。ここに何を座らせるかは、明日の私が決める。今日の私は、今日の手数だけを数える。


 窓の外で、砂の風が方向を変えた。遠くの巡吏の笛がかすかに漂う。私はペン先を止め、影の上に手を置く。中でプネウマが、こちらの眠り方を練習している。練習は誤差を養う。誤差は生活の余白。余白は翻訳の呼吸。呼吸は生の唯一の運動。運動は持続の別名。——そう順に並べると、胸の奥の測量がやっと水平になる。


 霊花「私が選んだのは、私を選ぶこと。そして、君を編むこと」

 プネウマ「僕は編み目の一部になる」

 伴「僕はその影」


 夜が落ちきる前、私は窓を少しだけ開けた。外気の冷たさが頬の骨を撫でる。温みが方角を指す。硝都の灯が砂に細い梯子を落とし、私の台所の湯気は、その一段目に静かに絡みつく。明日の朝、私はまた小皿を並べるだろう。橋を渡らず、橋をこちらへ呼び寄せるために。毎朝、少しずつ。毎朝、選び直すために。


――了――

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


本作は、Tales に投稿している原作『橋の手前で、わたしを選ぶ』をベースに、硝都版として書き直した姉妹編です。


もし気に入っていただけたら、原作もぜひ。

https://tales.note.com/noveng_musiq/wsp3e1tglen50

感想・レビュー・ブックマークが次話の燃料になります。


誤字脱字のご報告も大歓迎です。

それでは、また台所の朝で。

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