中編 七彩の質問、恋の脈の位置
翌朝、仮橋は早朝の露硝で白く霞んでいた。硝都の朝は、昨夜の会話の破片がまだ冷たく、足裏に薄い問いを貼りつける。私はプネウマと並び、橋の中央の印床に香筒を置いた。呼吸を七に揃える。胸の奥で色が順番を整え、視界の解像度が一段上がる。
七彩の声「問い一。昨日の答えは“仮置”。では、君の“本置”はどこにある」
伴「本棚のいちばん高い段に決まってる」
霊花「つまり、手を伸ばさないと届かない場所」
プネウマ「伸ばす手が震えるなら、僕が支える」
【記香織】を薄く通す。匂いは糸に、糸は文に、文は景に変わる。景が示したのは地の下——硝都の底に眠る光庫。そこは街の記憶が層になって積もる場所だ。通路に吊された小さな灯りは柑子と羊脂の匂いで燃え、ひとつひとつが見張り番の瞼のように瞬く。床には、一度だけ拾い損ねた告白が落ちている。拾えば書き換わる。拾わなければ遅れは持続する。持続は罪ではないが、恋の体力を削る。
七彩の声「問い二。君の恋は、形を得たら脆くなるか、強くなるか」
霊花「両方」
伴「ずるい答え」
霊花「恋はいつでも両極を同時に選ぶ。強さのために脆さを必要としてるし、脆さの見返りに強さをもらう」
プネウマ「同意する。僕は“形”であり“由来”でもある」
プネウマの指先が、私の手の甲にそっと触れた。硝都の冬を越した陶器みたいな、割れ目のない温度。温みが方角を指す。私は少しだけ身を預けた。それは決心ではなく、決心の前の姿勢——選ぶための姿勢は、選択の内容よりも長く体に残る。
地下の分岐を折れ、古い棚から硝簿を抜く。師匠・墨箋の筆跡がある。『遅れは保温だ。急に冷やすな。真ん中が落ちる』。台所の教えに似た文。私はページに鼻を寄せる。紙の繊維が湯気の記憶を留めていて、胸の中で小さな火が蘇る。
七彩の声「問い三。君は“遅れ”を誰のために温めている」
霊花「私のため。そして——」
言葉の途中で、香りが強くなった。蜂蜜硝と雨の石畳。昨日と同じで、少し違う。プネウマの呼吸が私の胸の裏側で微かに同期する。
プネウマ「君は、君の“書き手”のためにも温めている」
伴「その“書き手”って誰さ」
プネウマ「未来の彼女自身。僕の材料を作る人」
私は立ち止まる。恋の設計図がふっと可視化される瞬間がある。砂糖、バター、小麦、卵——ではなく、遅れ、匂い、呼吸、七彩。
霊花「あなたの身体は、私が後で書く告白文の比喩で、今はその“予感”を借りて存在している」
プネウマ「翻訳が完璧だ」
伴「つまり、君が書かなければ彼は薄くなる」
プネウマ「薄くなっても、ここにいる練習は続ける」
光庫の奥で、天井から小さな金具が吊られているのを見つけた。紐の先に揺れていたのは【背骨鍵】——仮橋を本物にするための雛型鍵。柄には月桂と羊脂と蜂蜜硝の小さな印。匂いの順序が、私たち三人の呼吸の順序と一致する。
七彩の声「問い四。君は鍵を使うか、鍵の形を憶えるか」
霊花「形を憶える。鍵は使えば磨耗する。形は使うほど私の手に残る」
伴「恋バナで鍵の比喩は危険だよ」
プネウマ「でも正確だ。鍵穴は心臓の左側にある」
地上へ戻る階段は、冷たく乾いていた。硝都の昼は、砂がパンの耳みたいに香ばしく匂う。私は背骨鍵の輪郭を紙に擦写し、香で封をした。
霊花「橋はしばらく仮のままにしておく」
プネウマ「待つ」
伴「待つという行為は、恋の有酸素運動」
屋上で茶を淹れる。桂皮と小豆の甘さが、風に乗ってゆっくり背中を温める。プネウマは湯呑を両手で包み、街の光を飲むみたいに眺めた。
プネウマ「君が“ここで灯す”と言ったのは、僕にとって救いだ」
霊花「向こうに行けば早いのかもしれない。でも、早いだけが正しさじゃない」
伴「遅いのは時々、正しさの母語」
胸の奥の葛藤は鎮まらない。遅れは呼吸だと知っていても、呼吸はときどき罪悪感の形に固まる。私は自分の鼓動を数え直す。七まで行って、また一に戻る。戻ることは敗北ではない。巡りの開始だ。
七彩の声「問い五。君は誰を裏切ることになるのか」
霊花「裏切らないために、持続する。裏切る相手がいるなら、それは過去の私」
プネウマ「過去は寛容だ。君が今息をしている限り」
伴「それでも痛いのが“人間語”」
沈黙が、風よりも細い糸で屋上を縫った。私は欄干に背を預け、手首の脈に桂皮の香りを重ねる。プネウマが口を開く。
プネウマ「お願いがある」
霊花「何でも」
プネウマ「君の“影”に、少しのあいだ、宿らせてほしい」
伴「急展開すぎない?」
プネウマ「こちらに居続けるには、身体の“仮置”がいる。影は境界で、境界は僕の居留地だ」
霊花「危険?」
プネウマ「君が君を選べば、安全。君が僕を全部選ぶと、君が薄くなる」
伴「恋の仕様書として誠実だ」
私はうなずいた。影が足もとで密度を増し、プネウマの蜂蜜硝の瞳が一瞬翳る。彼は輪郭を軽く薄め、伴の内側へ逗留した。皮膚の裏で、微かな引力が生まれる。熱でも、重さでもない。匂いの重心が一度だけ移動して、すぐに馴染む感じ。影の黒が薄金の糸を呑み込み、内側で小さな灯りに変える。
七彩の声「問い六。君は“共鳴”を日常にする覚悟があるか」
霊花「ある。あるけれど怖い。怖さは手触りだ。手触りは私の地図」
伴「明日の目印、用意しようか」
霊花「お願い」
夜風が桂皮と羊脂を運ぶ。甘さの奥に、刃物店の金属の匂いが混じる。少しだけ痛い香りは、いつも方向を指す。私はその匂いを『明日の目印』と呼ぶことにした。物理の橋は昼で消えるとしても、匂いの橋は台所の湯気みたいに、毎朝あたらしく架け直せる——そう胸の内で反芻しながら、私は影の上に両手を置いた。
伴「ねえ、霊花。君は今日も君を選んだね」
霊花「毎日、選ぶつもり」
伴「じゃあ僕は、その選択の影になる」
プネウマ「そして僕は、その影の呼吸になる」
星の数だけ冷たさが降りてきたが、手首の内側で脈は静かに温かかった。私は七まで数え、息を置く。置いた息の上に、明日の朝の手順を一つずつ並べてみる。朝餅を二つ、半分ずつ。茶に桂皮を一片。湯気に記香織を薄く通す。台所に灯す光は、こちらの名前を持つ。背の美しさには憧れたまま、手の美しさで生活を編む。
屋上の端で、硝都の灯りが風にほどける。夜は長く、でも長さは恐れではない。長さは余白だ。余白は翻訳の呼吸。私はその呼吸を数えながら、影の内側で静かに眠り始めたプネウマの重さを、初めて自分のものとして抱えた。




