前編 砂の都市、香りに書かれた恋
砂の都市は、硝都と呼ばれていた。夜の間に砂は光を食べ、朝に薄い硝子として吐き出す。通りの端々には昨日の会話が透明の欠片になって落ちている。踏めば━━"じゃり"。
それは痛みではなく、記録が新しい朝へ割り振られる音だった。
私、『鏡砂 霊花』は、職業として香読をやっている。匂いに書かれた手紙を読む技だ。紙の文字は誰の目にも開かれているが、匂いの文字は届けたい相手にしか届かない。矛盾のようで親切。それがこの街の正直で、私の生き方でもある。師匠の墨箋はよく言った——
墨箋「言葉は温度で片方に傾く。読む者は、片方の温度に責任を持て」
朝の市場は匂いで層を作る。砂糖の高い甘さ、革の渋み、柑橘の明るさ、鉄の湿り。私は鼻先で段差を測りながら、いつもの小路を抜けた。壁には昨夜貼られた硝片の告知が並ぶ。今日、砂海の上に【仮橋】が架かる。対岸から客人が来る。渡るのではなく『訪れる』。言い回しが、連絡路の脆さを正確に示している。
足もとで影が密度を増した。私の影は伴と呼ぶに相応しい一人称複数で、境界に近づくほど個別の考えを持つ。
伴「また橋だね、霊花」
霊花「橋はいつでも“こちら”の問題を“向こう”風にする装置だから」
伴「恋もそうだよ。こちらの胃痛を、向こうの綺麗事に変える」
霊花「恋は胃痛の発明品じゃないわ」
伴「じゃあ何だい」
霊花「遅れの言い訳」
伴「ずいぶん正直だ」
香読所の扉を開ける前に、私は硝子のドアノブに額を軽くあてた。硝都では、表面温度で日の機嫌を占うのが古い癖だ。今日の硝は昨夜より冷たい。冷たさは決心をよく透かす——透けたまま固まらない、あの感じ。
扉の前に、見慣れない旅人がいた。衣の縫い目は無紋、色は夕暮れの柘榴。砂風に揺れない立ち姿は、風のほうが遠慮しているからに違いない。瞳は蜂蜜硝の色で、光を割らずに飲む。
旅人「僕は『Pneuma Solis』。君に匂いの翻訳を依頼したい」
霊花「依頼の匂いがしますね。カラメル、月桂、それから……心臓」
伴「心臓の匂いは比喩だよね?」
プネウマ「比喩であって事実だ。言葉はときどき、その両方をやりたがる」
差し出された香筒は温かかった。封蝋の代わりに薄い金糸が巻いてある。糸をほどくと、空気がひとつ分膨らんでから耳の内側へ沈む。甘さより先に鋭い冷たさが来た。遠い湖底に手を入れ、落とした指輪を探る指の感覚。忘れ物を思い出すときの体温。
霊花「これは無名王国の調香ですね。匂いの文法が逆さ」
プネウマ「君にしか読めないと聞いた」
伴「営業の口上にしては直球だ」
霊花「内容は?」
プネウマ「宛名は僕。差出人は……君の未来」
笑い話ならよかったのに。けれど匂いは嘘をつかない。嘘は文字になるときに固くなるが、匂いは固まる前の肌触りでこちらに届く。私はカウンターの隅から嗅鍵を取り、香りの層を梳いた。上澄みは柑橘、真ん中は羊脂。沈殿は——石鹸と血と、書き損じのインク。呼吸を七つ数えるたび、違う色の糸声が浮いては沈む。
赤は体温の年齢を、橙は台所の火加減の癖を、黄は去年の笑いの回数を、緑は道草の配置を、青は未遂の涙の重さを、藍は夜更けの溜息の深さを、紫は言えなかった台詞の影を。
七つの色は一つの声で言った。
七彩の声「君は橋を渡るか、匂いで橋をこちらに呼ぶか」
伴「でたね、七彩。いつも真面目で退屈」
プネウマ「退屈は永遠の言い換えだ」
霊花「それ、誰の言葉?」
プネウマ「君の未来」
私は香りの末端に触れた。そこだけ温度が高い。誰かが私のために火を絶やさなかった痕跡。火の世話には時間がいる。時間は体温で支払う通貨だ。
霊花「この依頼、私が受ければ、過去が書き換わる可能性がある」
プネウマ「過去は結果より経路を愛する。経路が書き換わることを劣等とは思っていない」
伴「それ、口説き文句に近いよ」
プネウマ「口説きは翻訳の一種だ」
私は彼の靴底を見た。砂海用の目深い溝。来る気で来た足。
霊花「橋の中央で読む。匂いは移動の途中で別の意味を拾うから」
プネウマ「君の歩幅に合わせる」
伴「恋の前兆は、歩幅の譲り合い」
砂輝の平原を抜けると、仮設の簀橋が現れた。骨組みは樹脂鋼、床は硝片を編んだ硝織。踏めば昨日が━━"じゃり"。
薄く割れて、日差しの下に虹屑が舞う。橋の中央に印床が据えられている。そこに香筒を置く。砂風は控えめに髪の根を梳き、梳かれた部分だけ言葉の汗が出る。
私は呼吸を七に合わせ、【記香織】を起動した。匂いは糸に、糸は文に、文は景に変わる。景は淡く立ち上がり、手摺に小さな指がかかる。見なくても分かる——私の指。少し幼く、少し濡れている。
七彩の声「君の遅れは罪ではない。遅れは呼吸だ」
プネウマ「君は遅れを恥じている」
霊花「恥じているわけじゃない。ただ、抱え続けて“持病”のふりをしている」
伴「それを恋と呼ぶことも可能だね」
香文は続いた。「もし君が橋を渡るなら、私は君の背に、名前のない国の朝を貼る。もし君がここに光を灯すなら、私は君の影に住む」
私はプネウマを見た。蜂蜜硝の瞳の奥で、遠い湖の静けさが一秒だけきしむ。
霊花「あなたは向こうの人?」
プネウマ「向こうで“編まれた”。でも材料は、こちらの君の言葉だ」
伴「つまり彼は、まだ書いていない君の告白でできている」
プネウマ「説明が早い」
鈴が遠くで鳴った。鈴喚——準備完了の合図。仮橋は長く保たない。決心には締切が要る。私は印床の縁に指を置いた。冷たい。冷たさは決心をよく透かす。透けたまま固まらない——それでも、透けた像は方角を示す。
伴「ねえ、霊花。橋は逆側にも架かると思う?」
霊花「こちらへ?」
伴「うん。君のほうへ、君の匂いで」
霊花「できる。私の台所でなら——湯気は、橋の小型模型になる」
私は初めて、胸の奥で笑った。笑いは匂いを変える。雨の石畳が、焼きたてのパンに寄り添う。
霊花「答えは急がない。でも、こちらで灯す。まずは匂いで橋を呼ぶ」
七彩の声「どちらに伸ばしてもよい」
プネウマ「背は美しい。こちらの手も美しい。美しさは両極に生える」
その一瞬、風の甘さが増した。月桂の葉が乾いて割れる匂い。床下で見えない硝糊が━━"軽音"。世界が、私の方角にわずかに曲がる。私は香筒を抱えた。
霊花「あなたは、こちらの空気に慣れられる?」
プネウマ「練習は好きだ。練習は誤差を養うから」
伴「誤差は恋の居場所」
橋を降りるとき、私はふと街の由来を思い出した。硝都は昔、名を持たなかった。名がないのは怠慢ではなく、境界への礼儀。名はものを固定し、固定は時に道を塞ぐ。けれど誰かが言った——「固定は、帰る場所の別名でもある」と。私はその言葉に、まだ完全には同意できない。けれど、今日の私の答えはそこに触れている気がした。
香読所に戻る道すがら、私は市場の揚げ菓子を二つ買った。油と砂糖の匂いは決心をやさしく包む。プネウマは半分だけ齧り、残りを私の手に戻した。
プネウマ「僕は“完全”を食べきらない習慣がある」
霊花「縁起?」
プネウマ「余白が恋の居場所だから」
伴「余白は翻訳の呼吸」
夕暮れ、店の戸締まりをしながら、私は棚の上の古い道具を拭いた。|嗅鍵、鼻腔を温める|羊脂、香りを束ねる紙。奥の抽斗には、師匠の短い覚え書き——「急に冷やすな。真ん中が落ちる」。台所の教えみたいで、私はそれを好きでいられる。私の恋がどの形式を選ぶにせよ、形式は毎日の手数で支えたい。儀式は大皿だ。私は小皿がいい。
夜気が入ってきて、店の奥に並ぶ硝子瓶がいっせいに息をした。私は窓辺に香筒を置き、掌をかざす。薄い温度が皮膚を撫で、内側の歯車に合図を送る。過去から遅れて到着した後悔たちが、互いの場所を少しだけ譲り合うのが分かる。
伴「明日、七彩はきっと具体的な質問を持ってくる」
霊花「分かってる」
伴「ねえ、霊花。君は“遅れ”を手放す気がある?」
霊花「手放すんじゃない。編み替えるの。遅れを呼吸に戻す」
伴「恋の言い換え、更新だね」
プネウマは店の入口に立ち、硝都の夜を見ていた。街灯の|硝片は淡く、砂の上に細い梯子を落とす。彼は一段目に靴先を置いてから、こちらを見た。
プネウマ「お願いがある」
霊花「何でも」
プネウマ「君の“影”に、いつか少しのあいだ、宿らせてほしい」
伴「いつか、ってところが誠実」
プネウマ「急ぐと誤訳が増える。僕は居方を学びたい」
私はうなずいた。今ではない。けれど、可能だと知っている自分がいる。私の影は境界で半自律を得る。ならば、居候の礼儀を教えられるはずだ。私が私を選ぶ限り。
霊花「明日、橋は何度鳴く?」
伴「三度。昼までに」
霊花「物理の橋は昼で消える。でも匂いの橋は、台所の湯気みたいに、毎朝あたらしく架け直せる」
眠りに落ちる前、私は窓辺の香筒に指を置いた。まだ温かい。温みが方角を指す。試筆の匂いが、月桂と羊脂のあいだで微かに立った。
霊花「明日も、こちらで灯す」
言葉は誰に向けたでもない。けれど硝都の夜気が、小さく━━"こくり"
と頷いた気がした。




