5.
水筒を抱え、アリアは長い銀の髪の後姿に叫んだ。
「お水を汲んできたわ!」
倒壊した家屋の中、勝手に拝借したベッドの上に涼の背中がある。その前に立つヴィアードは、涼の背にある傷を検分していた。夜に肌が晒されたそこに、新しい血は流れておらず、既に乾いたらしい。
「新しい布を」
アリアは慌てて荷袋から言われた布を取り出して渡す。水を含ませた布で、痩身の背の傷口を丁寧に拭う様子をアリアは横から見守っていた。
「大丈夫なの? 助かるわよね?」
祈るように尋ねると、ヴィアードは淡々と答えた。
「傷口は浅い。大事には至らないだろう」
「よかった……」
心の底から安堵して息を吐きだす。するとヴィアードは、傷口を拭ったのとは別の布を裂き、傷口に押し当てて巻きながら問うた。
「彼は?」
誰なのかと聞いているのだろう。
「私の——」
世話役で、たったひとりの味方。アリアは答えようとして、一度口ごもる。実際としてその言葉の通りだが、彼が誰なのかと問われると何と答えたらいいのか、分からない。
「……大事な人」
結局そうとしか答えられなかったが、ヴィアードはそれで納得したらしい。流麗な目が背に流れ、やがて僅かに眉を寄せた。何かしらとアリアもヴィアードの視線を辿ると、同じように目を細ませる。
「なに、これ……」
左の肩甲骨の付近に、拳大ほどの大きさの模様があった。アリアの見たことのない字のようなものが円形に並び、幾何学的な模様で縁取られている。
「焼印か。知らなかったのか?」
ヴィアードの足りない言葉を、アリアは脳内で補って答える。
「当たり前じゃない、涼くんの背中なんて、見せてって言って見せてもらうものじゃないわよ」
当然だが、風呂も別だし、寝室も別だ。湯上りの姿も、アリアも涼も互いに見せないくらいの慎みはある。涼が怪我をしなければ、服で覆われている肌を見ようだなんて思いもしなかった。それはアリアだけでなく、他の誰かにだってわざわざ見せて欲しいとは思わない。
初めて知った涼の秘密ごとに、アリアは少々不安と、密かな喜びが相混ぜになった。勝手に見られたと知ったら、涼は嫌な思いをするだろうか。それでも、涼に関わる事柄ならば何でも知っておきたい。
「それより焼印って何?」
「……熱した鉄を肌に押し当てて、焼き付けて刻むものだ」
「それって痛くないの? 何の為にするものなのかしら?」
ヴィアードは無表情な中に、僅かばかり答えにくそうな表情を浮かべた。
「肌を焼くのだから、当然、痛みは生じる。身体装飾の意味もあるが——識別や、刑罰で刻まれる場合もある」
アリアは瞬きをしてヴィアードの横顔を見上げる。何を言っているのか、瞬時に理解できなかった。
「涼くんが刑罰? まさか、虫も殺せない人よ。いえ、まぁ涼くんは、虫は必要に応じて殺すこともあるけど……ほら、畑に害虫が出るとね、影響があるから……」
普段はとことん優しい涼は、作物に影響を与える虫にだけは手厳しかった。虫と格闘する涼を眺めて、笑い声を上げていた日々は最早懐かしい。
「そうか。私には分からない」
「それもそうね。あんたには分かんないわよね」
アリアはじっと、肌に刻まれた模様を見つめた。やはり何の意味があるのかはアリアには分からない。涼に尋ねていいのかも、今の段階では分からなかった。
「これって消えるのかしら」
要は、火傷の跡と同じなのだろう。痛ましい痕なら、消えてしまった方がいいのではないか。呟いたアリアにヴィアードの言葉は返る。
「多くの場合、永続的な印になる」
アリアは不快な感情が胸に渦巻いたのを感じた。どんな意図で押されたにせよ、
「涼くんにこんなことをした奴がいるなんて、信じられないわ」
アリアのあずかり知らないところで、涼の一部に痕跡を残すなど。アリアは自分勝手に憤慨し、涼の横顔を覗き込んだ。
——ねぇ、涼くん。いつか話してくれる?
じっと見下ろした涼の白くなった頬に、薄く白く透明な光の筋が差し込んだ。ぴくりと目元が震えるのを、アリアは見守り続ける。
「……アリア?」
薄く開いた黒い目に、アリアは綻んで頷く。
「おはよう、涼くん。まだ寝ていていいのよ」
安心させるように告げ、アリアは膝を折り涼の手を取った。ヴィアードは背を向け、周囲の警戒態勢に戻ったことが分かる。涼は再び目を閉じ、深い呼吸に戻った。彼もまた、夢見心地の空間を彷徨っているのかもしれない。
空を見上げれば、重苦しいガスと艇の隙間から、朝陽が昇ろうとしている。長い夜が明け始めていた。
◇
アリアの前にある涼の背中で荷袋が揺れている。涼の更に前に、長い外套の裾を翻し、ヴィアードが歩いていた。いつでも長物に手を掛けられるように警戒をして進む長身の男の歩幅は、アリアに合わせて背の割には狭い。
「涼くん、怪我は本当に大丈夫? 辛いなら、暫くこの辺りで休んでいてもいいのよ?」
すぐに目を覚ました涼は、飛び上がってアリアの身を心配してくれた。それからすぐに出立したものの、数少ない衣服を取り替えた涼の背を裂いた傷跡は、今も痛むはずだ。今も涼がやせ我慢をして歩いているような気がしてならず、アリアは何度も同じ言葉を掛けている。
「大丈夫だよ。手当をしてもらったし、もう血は止まったみたい。ありがとう、アリア」
振り返った涼の笑みと共にあった返事に、アリアは息を吐いた。涼が斬りつけられたあの瞬間は、生きた心地がしなかった。もし涼が死んでしまったら、アリアはどのような行動に出るのか、自分でも分からない。まだ納得はしていないが、いざとなればヴィアードに背負わせようとアリアは勝手に決めた。
それにあの焼印も。
意識的に隠していて、涼が話したくないのなら、わざわざ藪を突きたくはない。そして、もし、話すことでアリアと涼の関係が変わってしまうのなら、このまま知らない振りをしていてもいいとさえ思えた。涼のことならば何でも知りたい気持ちと、今の涼との関係を失うくらいならば知りたくない気持ちは、同じ強度で互いを引き合う。
アリアの心中を露知らず、涼は前を歩くヴィアードにも、軽く頭を下げる。
「ヴィアードさんもありがとうございました。すみません、助けていただいた上に、手当までしてくださって」
ヴィアードは涼をちらりとだけ振り返り、淡々と告げる。
「気にする必要はない」
涼が意識を取り戻した後、挨拶をしただけの二人は、それでもそれなりに上手くやっているらしい。涼が相手で険悪な雰囲気になりはしないだろうと、アリアもその辺りの心配はしていない。
「ほんとよ。涼くんが気にする必要ないわ。ヴィアード、次からは、涼くんが怪我をする前に助けなさい」
燻った怒りに任せて、指を突き付けて命令すれば、「了解した」とヴィアードは答えた。感情が顔や態度に出ない男だが、やや苦笑しているようにも見える。人形のように整った横顔で、ヴィアードがアリアに問うた。
「アリア。何処へ向かう?」
アリアにも、涼にも、行きたい場所も目的地もないけれど。涼も振り返ったのを見て、アリアはにっこりと笑みを向けた。
「そうね。とりあえず、世界で一番高いところへでも、行きましょうか」
何処へだって行けるのなら、天に一番近い場所へ。そこから涼と二人、滅びを睥睨してみるのも、悪くはないだろう。アリアは隣に座る涼を想像したけれど、二人の前にある終焉の光景は少しも見えはしなかった。