4.
「なんで涼くんは、余裕なの!」
遺跡の外に出た瞬間、アリアは地団駄を踏んで涼に叫んだ。じゃれかかる程度の八つ当たりに、涼はのんびりと答える。
「野良仕事をしてたから……かなぁ」
これが引きこもりだったアリアと、農作業や力仕事の手伝いをしていた涼の差であろうか。細身ながらアリアよりも健脚な彼は、荷袋を抱えているにも関わらず、疲れも滲ませていなかった。震えそうになる膝を叱咤し、アリアはどうにか姿勢を正す。
「アリア、明日は筋肉痛になるかもね」
自然と庭の方に向かう涼に続きながら、アリアはげんなりと溜息をついた。
白色の庭園に足を踏み入れると、遺跡の中とは違った風がアリアの頬を撫でる。ここで一夜を明かそうかと、口を開いた時だった。
眩く空が瞬く。夜空に点滅する金の光が増したと思えば、次々に何かが空から降ってきた。
「《魔弾》……! まだ襲撃は終わってなかったのっ?」
「アリア、走って!」
既に廃墟と化しているこの地を狙い、凄まじい轟音を上げ、遺跡の周囲に《魔弾》が投下され始める。咄嗟に涼がアリアを庇うように抱え込んで走り出そうとしたところで、次に襲い掛かる火炎をアリアは予想して、ざあっと体中から血の気が引いた。
落下してくる《魔弾》との距離が近すぎる。それでも逃げるしかない。二人は手を取り合い、踵を返そうとした。その直後に、強烈な地響きと共に《魔弾》が庭園と、祠の方向に戻ろうとした前方にも次々と突き刺さる。
「前にも……っ! これじゃあ、逃げ場が、」
悲鳴を上げ、揺れた地面に足を取られて、転びかけたアリアを涼が支えた。アリアに背後を見せぬようにした涼だけが振り返ったと、頬に触れた涼の髪の動きで悟る。
「燃えない……っ?」
極度の緊張で引き攣った涼の声に、アリアははっと目を見開いた。
——不発弾。
村を襲った《魔弾》の中に紛れていた、破裂しなかった一部のもの。結局、あれが何の目的で投下されたのかはアリアには分からなかった。それが今、目の前にある。息を飲んだ刹那、しゅん、と聞いたことのない音が鼓膜を打った。愕然と《魔弾》たちを見つめるアリアたちの前で、外装が浮かび上がり、一部が開いていく。
その直後に、闇の中に、がしゃがしゃと聞き慣れない音が響いた。複数のその音が、周囲から徐々にアリアたちに迫ってくる。
「人が、出てきてる」
涼の囁くよりも小さな声を聞いて、暑くもないのに、つうっと背筋に汗が滴り落ちた。本能が危機の警鐘を鳴らし、空気が極限まで張り詰める。
「何なの……?」
アリアが呟いた瞬間。
「アリア!」
涼の切羽詰まった声と共に、どんっと身体を突き飛ばされる。庭園の石に転がったアリアの目に映ったのは、涼に迫る鈍い銀の凶刃と、背を裂かれ上がった血飛沫だった。
「涼くん!」
悲鳴を上げたアリアは、無理矢理に体勢を取り直し、倒れる涼の身体を支えてがむしゃらに後ずさる。背後からもがしゃがしゃと音が聞こえ、息を飲んで涼を腕に抱える。涼は裂傷の衝撃で気を失っており、その背に刻まれた裂傷から血が滴り落ち、白い床に広がっていっていた。見る間に白くなる端正な横顔に、アリアは今にも叫び出したくなる衝動を必死に堪える。
——涼くんが死んじゃう!
手で傷を抑えてみても、血が止まるはずもない。どくどくと波打つ自分の煩い鼓動がアリアを急かす。どうにかして逃げなければと必死に周囲に目を凝らすが、闇に溶けるようにして、黒衣に身を包んだ者たちが、いつの間にか背後にも展開していた。血が滴る刃を携え、アリアの存在を確かめると、彼らは指を動かし何かの合図を送る。
「あんたたち、何者よ⁉ 私を殺しにきたの⁉ なら、涼くんは関係ないじゃない! 私を殺しなさいよ!」
返答はなく、凶刃を掲げた彼らが一斉にアリアたちの元へ向かい、跳躍した。
——殺される!
アリアは強く目を瞑り、涼の上体を抱え込んだ。例えアリアが殺されても、涼にだけは生きていて欲しい。アリアよりも涼が先に死ぬなど、そんなことだけは耐えられなかった。
だが、斬撃はいつまでも訪れない。恐る恐る目を開くと、突然、一筋の光が宙に走った。
空気までも切り裂くような、刃の閃光。圧倒的な力で振るわれた居合の一太刀が、黒衣の者たちを斬り伏せていた。
「え……?」
夜に翻ったのは、長い銀の髪と裾の長い外套。二メートルに近い長身で腰を据えていた男が翆玉で光る刀を構えると、辺りには一瞬だけ静寂が広がった。
「そこを動くな、アリア」
怜悧な視線が黒衣の者たちを捉え、玲瓏な短い声が響く。
次の瞬間には、一人、また一人と、黒衣の者たちが倒れていった。目に捉えられない速度で、銀髪の男はこの場を制圧していく。彼の動きは無駄がなく、刀で斬り伏せられるくぐもった悲鳴だけが、戦況をアリアに伝えていた。
数秒後には、男は血を払い、刀身を鞘に納める。かちっと鳴る音を聞いて、アリアは瞬いて男の背を見上げた。
「あなた……」
銀髪の男が振り返る。その彫刻よりも美しい顔立ちに、アリアは膝の上にある涼の肩ごと、頭をぎゅっと抱き締めた。涼の体温は暖かく、薄く呼吸をしている。それだけを確かめる。
——大丈夫、生きてる。
「一応、礼は言うわ。あなた、《世界の観測者》ね?」
読んだ本の記憶から、名を引きずり出す。銀髪の男はただ静かに首肯した。
「名をヴィアード・ラバッツァという」
「そう」
アリアは目を伏せ、夜風に流れる髪を耳に掛ける。明けようとしている夜の中、土から沸き上がる翠の光はふわふわと漂い、天へ上りながら消えていく。
アリアから見えない世界の中で、息を顰め、生きている者たちがいる。だが、それは。
「なら、この世界は近いうちに終わるのね」
もう失われるしかない命だ。アリアは目を細めて、込み上げた感傷を喉で押し殺した。悲しくはない。だが、同時に、アリアと涼にも長い時は残されていないと理解してしまった。
「結末は誰にも分からない。私はただ、お前と、世界の行く末を見届ける」
「――私以外の《春の目覚めの少女》は?」
「皆、逝った」
ヴィアードの銀の髪が雪崩れる長身に、翠玉が集まっている。彼の身体に吸い込まれて消える光を、アリアはじっと見つめていた。
アリアが山から見た、天を貫いた緑の閃光。円を広げ、翼となり、艇を飲み込み消えた刹那の光。
「……そう」
それでアリアは理解した。最後に残された今、アリアの前に、彼が現れたのだと。
「なら、これからは、私の命令に従いなさい。でないと、あんたの目的は達成できないでしょ」
「了解した」
短く答えた男に、アリアはぎゅっと涼を抱きしめていた手の力を緩めた。まずは涼の治療をしなければならない。
「涼くん、ごめんね……」
——アリアに出会わなければ、こんなことに巻き込まれなかったのに。
見下ろした涼の白くなった頬に、薄く白く透明な光の筋が差し込んだ。長い夜が明けた。重苦しいガスと艇の隙間から、朝陽が昇ろうとしている。