2.
——今、どこにいるんだっけ。
微睡む意識の中で、ふわっと鼻孔にスープの香りが漂う。食べ物の香りがするなら、きっとアリアはまだ生きて、現実にいるのだろう。
うっすらと瞼を開くと、壊れた白い天井の割れ目から、深い夜の闇が空に広がっていた。ちかちかと瞬くのは、星ではなく艇から洩れる照明の光だ。
未だ朝は来ず、本当の星の煌きを、もう何年も目にしていない。
「おはよう、アリア」
「ん……」
大好きな涼の声に促され、清潔なシーツも、感触のよさもない、床に置いた外套の上でアリアは目を覚ます。
いつもの竈ではなく、即興の焚火の上で小鍋を混ぜる涼がいた。彼の手でスープがくるくると混ぜられる度に、いつもと同じ匂いが立ち込める。全面が白い石で出来た祠の中でも、無造作に薪を組み火を起こしているのは、意外なところで建物の景観や破損を気にしない大雑把な涼らしい。倒壊しかけている祠の床の焦げを気にしたアリアの方が神経質なのかもしれないが。どちらにせよ、涼の手で汚されるのなら祠も本望に違いない。
ぼんやりと考え、半壊した祠の片隅で眠り込んでいたアリアは、慌てて上体を起こした。乱れた髪を手櫛で慌てて撫でつける。
「ごめん、私、寝ちゃってた?」
「一時間くらいかな? 大丈夫だよ。少しでも眠れたならよかった」
答える涼の前、まだ夜も深い闇の中で、燃える焚火が夜風で揺れている。焚火は空からは見えないように、祠の屋根が残っている部分に作り、白い石で火の周囲を囲んでいた。
「無事に山を下りられて良かったよ」
「そうね。事前に涼くんが道を確認してくれていたお陰ね」
村人から追われるように山を下りてから、二人は崩れて人の往来もなくなった街道を歩いていた。かつては街と街を繋いでいたらしい道は、破壊され凸凹になっているものの、かつては精緻に石が積まれた美しい街道であったに違いない。多くの人々が行き交っていたであろう道に、アリアと涼の影しかなく、いかにも物寂しい雰囲気が漂っていた。闇が占める影の中、鳥の鳴き声すらも聞こえてはこない。
そんな街道の途中で、街道の傍にあった壊れた祠まで辿り着くと、休憩をしようとどちらからともなく話したところまではアリアも覚えている。止まることができない下山の強行軍で、疲れ切ったアリアがいつの間にか仮眠を取ってしまった間に、涼が寝床も焚火も食事も用意してくれたに違いなかった。
改めてアリアは祠を見回す。爆風か、または別の要因かで崩れた石の壁。半分以上割れた窓の硝子は、枠にしがみついているもの以外、すべて何処かへ飛び去ってしまっている。祠は吹き込む風の全てを防ぎきれず、時折強い風が吹くと肌寒さを覚えた。祠の中心にある泉の水は枯れ、罅割れた底面に干からびた植物が横たわっていた。様子を見るに、随分長い間、この祠は放置されていたらしい。
硝子のない窓から空を見上げれば、今も遠い何処かに向かって、鋼鉄の艇から次々に《魔弾》が投擲されている光景が見える。今夜はまだ、襲撃が止まない。最近は特に夜間にかけての攻撃が苛烈で、この調子では人々が生きる街は殆ど燃やされつくされているのかもしれなかった。
「アリア、寒くない?」
心配そうに問う涼に、アリアは夜空を睨んでいた表情をすぐに消して、にっこりと笑んだ。
「大丈夫よ。涼くんこそ寒くない?」
「僕は平気……はい」
暖めたスープと、固めた餅がアリアに差し出される。それを受け取りながら、アリアはシーツの代わりにしていた涼の外套を拾い上げ、焚火の前に座り直した。ひんやりと冷たい石の温度が、布越しに脚に伝わってくる。
「ありがとう。準備、大変だったでしょ? 片付けは私がやるから、涼くんは休んでね」
涼は柔らかく笑う。
「そんなに気にしないで。急に動いたから、疲れるのは当然だよ」
「涼くんはいっつも私を怒らないから、私がどんどん駄目な人間になっていく気がするわ……」
アリアが溜息をつくと、涼が軽やかに笑い声を上げた。
「アリアを怒ることなんて、何もないよ」
村人から罵声を浴びてきたアリアに向かって、彼はそう言う。アリアは返事の代わりにスープに口を付けた。小屋に居た頃とさして変わらない薄い味だ。果たしてこの味もいつまで持つかとふと考える。ありったけの食料は持ち出したが、そんなに長い期間の二人の食い扶持にならないとは、アリアも涼も分かっている。
「よく火がつけられたわね。この辺りに、木の枝でも落ちていたの?」
涼に問うと、彼は頷く。
「ああ、この周りは野原と、奥の方に林があったよ。西の方角には、丘があるみたい」
「丘?」
「そっか、アリアは見たことがないよね。後で行ってみようか? ちょっと寒いかもしれないけど、風が気持ちいいよ」
そうか、とアリアも思った。
「――もう何処に行ってもいいのよね」
これからは、アリアの行動を戒める人々はいない。じっくりとその意味を噛み締めていると、ふと祠の中が焚火以外の明るさを灯した。
祠の床から、ゆっくりと翠の光が零れ、宙を漂い始めている。淡い翠玉に、アリアを見守っていた涼の横顔が照らされた。彼は光に触れるように指を伸ばす。
「光が……」
「人魂ね。こんなにたくさん見るのは初めて」
人は肉体が死を迎えると、魂が離れる。その姿は、時を経て翠の光となって今世を漂い、天へと誘われていく。アリアと涼が見つめている間にも、祠や周囲にある荒野の土から翠玉は続々と浮かびあがり、夜空に向かって昇っていった。
涼は夜空を見上げ、物悲し気に呟く。
「こんなに、人が死んだのか……」
——涼くん。まだ《魔弾》は落とされてる。こうしている今も、何処かでは誰かが死んでいるのよ。
そう言えるほど、アリアは涼に対して酷薄にはなれない。慰めるように手を伸ばし、涼の肘に指を載せた。
肩を寄せ合い、翆玉が灯す荒野を共に眺める。小屋に居た頃とは全く違う目の前の光景は、冷えた風に吹かれて尚更、アリアにも寂しいものに見えた。
やがて光たちは、荒野に一筋の道を照らす。祠から東に延びる道は、淡やかな光源に照らされて闇の中に伸びていた。アリアが眉を寄せると、涼は不思議そうに首を傾げる。
「何だか、光の道みたいだね」
「そうね。人魂には、人の最期の思いが込められているらしいから——私たちを誘っているのかもしれないわ」
——さて、どんな誘いかしら。
悪い人に着いていってはいけませんとは教えられてきているものの、この場合は悪い人に当たるだろうか。ちらりと涼を窺うと、彼は器を置いて、じっと翠の光を見つめていた。涼にとってはあまり見かけない光景だろう。一見して幻想的な姿に、興味を惹かれるのは理解できる。故に、涼の次の言葉も、アリアには予想できた。
「行ってみようか?」
予想と違わない返事に、アリアは顔に笑みを作る。
「涼くんのお誘いなら、何処へだって行くわ」
涼の肘に載せていた指を差し出すと、困ったように笑んだ涼が手を取った。
「アリアも僕を甘やかしてくれるから、僕も駄目な人間になっている気がするよ」