2.
涼の暖かい手を握り、アリアは森の中を走る。二人の弾んだ息遣いと、麓から届く空気が弾け燃え上がる音が、辺りには響いていた。
オイルや脂の臭いは遠ざかり、徐々に森林の水気を含んだ土の香りが広がってくる。自然が作った腐葉土を踏み、やや小走りで前を行く涼の背中で揺れる革の荷袋を、アリアは見つめていた。二人分の荷物が入っている袋は、重たそうに一定の間隔で跳ねている。その中にはきっと、持ち出せるだけの食料と、旅に必要最低限のものだけが入っているはずだ。
このまま右に抜け、山を道なりに進めばアリアと涼が暮らしていた小屋がある。残した物があるのなら、今、取りに帰るしかない。アリアは一瞬、住み慣れた小屋を思い返したが、すぐに首を横に振った。持っていきたいものなど、結局は何もない。涼が居てくれるのであれば、アリアにとっては他に何も必要ではなかった。
「アリア、まだ走れる?」
「大丈夫よ!」
涼がアリアの歩幅に合わせているお陰か、まだ息が荒くなる程度で済んでいる。山を下りるまでこのまま駆け抜けられればいい。出来れば、誰にも会わずに。誰かに出会えば、ろくでもない事態になる未来しかアリアには見えない。
けれどアリアの願いも虚しく、樹々で覆われた闇の向こうから、人間の足音が聞こえてきた。一人ではない、複数の足音だ。アリアが音を聞いたのなら、相手の方も分かっているはずだ。今この時、山から下りる選択をする者たちが、アリアたちしかいないことを。
——そう簡単にはいかないのね。
アリアは口の中で呟いて、涼の手を引いた。振り返った涼が立ち止まると、すぐに樹々の間から男たち数人の姿が現れる。息を切らし、肩を上下させている体格のいい男の一人が、アリアたちを目に止めた。途端に気色ばみ、目尻を吊り上げ、一歩前に足を進める。
「この……人でなしが!」
何の会話もなく、太く赤い手が振り上げられ、アリアの頬を張り飛ばそうとする。勢いよく振られた手と頬が触れる前に、男とアリアの間に涼の背中が割り込んだ。
「涼くん!」
悲鳴をあげると、男は涼を殴る直前で手を止める。僅かに安堵したアリアを背に庇い、涼は強く男を睨み据えた。
「暴力はやめてください! アリアに手を出すのは許さない!」
「そこを退け! お前がいつまで経ってもこの女を連れ出さないから、こんな事態になっているんだ!」
怒声を上げた男は、アリアのみならず、涼までも詰り始める。アリアは涼の背中越しに、男の姿を強く睨み上げた。男の顔は醜く歪み、口角から泡を飛ばし、憤怒に歪んだ唇をしている。なんて醜い男なのだろう。わなわなと震える男の手を何とか押し留めようとしている涼の姿を見ると、アリアは尚更、そう思う。一度そう思うと、開いた口から言葉は止まらなかった。
「なに、うるさく騒いでるのよ。ちょっとは自分の姿を顧みてみたら? 無駄に図体だけ大きい男が、私みたいなか弱い女の子に怒鳴り散らすなんて、みっともないと思わないの?」
男の顔は更に歪み、空気を震わす怒声が撒き散らされた。
「か弱いだと? お前が――お前が、村を見捨てておいて、みっともないと言うのか!」
「見捨てるなんて人聞きが悪いわね。貴方たちだって、村を放棄して逃げ出したんじゃないの? ほら、まだ村には火に巻かれている人たちがいるじゃない。こんなところで私を責める前に、助けに戻らないの?」
男はとうとう、涼を力づくで押し退け、アリアに掴みかからんばかりに激昂した。こめかみの血管が浮き上がり、怒りで頬は赤く染まり、唇が震えている。男の顔が眼前にまで迫り、アリアは嫌悪を露わに舌打ちをした。
「私の妻はな……娘と共に生きながらにして焼かれたのだぞ! お前が! お前が、まだこんなところに居る所為で!」
——くだらない。
冷めた目をしたアリアの周囲に、村から逃げ延びてきた人々が集まり始める。彼らは這う這うの体で山を登って来たらしく、肌を灰に、靴を土に汚していた。アリアを囲む人垣に気付くと、充血した目を向け、憎悪に口元を震わせる。
「人殺し共が! 自分達だけおめおめ逃げやがって!」
「村が焼かれたというのに……戦いもせずに何をしているのよ!」
「役目を放棄するなんて、酷いわ! お父さんを返して!」
次々と投げられる怨嗟の声を前に、アリアは再び。それでアリアは、きゅっと自分の唇を引き結んだ。強い眼差しで顔を上げ、涼の隣に立つ。涼はアリアだけを心配そうに横目で見つめている。それを確認して、アリアはちらりと笑んだ。
大丈夫。アリアには涼がいる。こんな奴らの言葉で、傷ついたりなんてしない。
「知らないわよ。何で私があんたたちの為に、何とかしてやらないといけないの? 娘が死んだですって? 勝手に死んでなさいよ。私にはあんたの娘なんて、何も関係ないんだから。あんたの娘がこの星を救ってくれる神様だっていうのなら話は別だけど、所詮ただの人間なんでしょ。何であんたたちの家族如きが、私を責められる要因になるとでも思っているの?」
「――貴様ぁ!」
とうとう殴りかかってきた男の拳を避け、今度はアリアが涼の手を引く。こんな者たちの相手をまともにしていたら、アリアたちまで馬鹿になってしまう。アリアはともかく、涼にはこれ以上、彼らの罵声を聞かせたくないとも思った。彼はきっと、アリアが傷つけられたことに、傷ついてしまうから。
どーん、と、一際大きな轟音が村の方から聞こえてくる。激しく上がった炎柱に人々の視線が集まり、絶望的な色に変わっていった。
——今しかない。
人のいない方向へ涼と共に数歩駆け出し、アリアはくるりと振り返る。侮蔑を込めた目で、咄嗟にアリアたちを振り返ってきた、怒れる人々を睥睨した。
「ご心配なく。私たち、行くから――あんたたちも、私たちに二度と顔を見せるんじゃないわよ」
言い捨てて、アリアは涼の手を引いたまま、再び駆け出した。背後から聞こえる憎悪の叫びは、背中で聞こえない振りをする。こんな状態でアリアたちを追いかけてくるほど、彼らも愚かではないと信じたい。
「行こう、涼くん」
今度はアリアが言うと、横に並んで走る涼が頷いた。
「うん――アリアの行きたいところに。僕もずっと付いていく」
その言葉だけがあれば、アリアはこの星の何処にだって行ける。
涼と一緒であれば、何処へだって行ける。
本心から笑んだアリアはこの時、この惑星の誰よりも、自由であった。