8.
「すごく高い……! 山から見ていた景色とは、全然違うわ。あっちの方なんて、白くなっている山があるわよ」
アリアの横顔は朝陽を受けて密かに輝く。街の中心に聳える塔から、アリアたちは街を見渡していた。
朝日が昇った街は、目覚めの空気を纏って人々の息遣いを増していく。要塞に囲われた街の中は、ほとんどの建物が形を保っていた。家屋には朝早くから洋服が干されているところもあり、物品の不足で苦労しながらも、昔ながらの生活は維持されているように見える。
「本当だ。雪山かな。寒い地方があるんだね」
アリアは、横に並んで街を見渡す涼の横顔を見上げた。
「あのね、涼くん。ジェシカの家を出るって、ジーナさんに言っちゃったわ。ごめんね、勝手に決めちゃって」
優しさを知れば、優しさを失う時が怖くなる。涼はただ穏やかな口調で、アリアに答えた。
「僕もその方がいいと思ってた。一人で対応するのは大変じゃなかった? 僕も、もう少し早く起きればよかったね」
アリアの正体も性格もすべてを知っていて、アリアに優しさを向けてくれるのは涼だけだ。揺るがないものを与えられて、昨夜から少し胸の奥で疼いていた小さなしこりが、不思議なほどにすっと消えていく。
「それは良いんだけど、涼くんも何か不便なことがあったの?」
何故、涼もジェシカの家を出た方がいいと感じたのか、アリアには不思議だった。ヴィアードと二人で寝るだけの夜に、何か問題が起こるとは思えないのだが。
「僕たちの使っていた部屋、きっとジェシカちゃんのお兄さんの部屋だと思うんだ」
アリアははっと気が付く。リビングにあった絵には、二人の子供が描かれていたはずだった。空いている部屋、賑やかになった——そう語ったジーナの笑顔を思い出して、胸の奥が軋む。ジェシカもジーナも失った家族の存在を語らなかったのは、こうしてアリアたちが憂うのを避けたかったのかもしれない。
「寝具も、開いたままの本も、そのままになっていて……けれど、長い間、使われてないみたいだった。だから、あのまま滞在するのは、申し訳なかったんだ」
ジーナやジェシカが快く部屋を貸してくれた以上、他意があるわけではないだろう。だが、その空間を見た涼が、故人が残した空気を乱す行為に抵抗を覚えるのは無理もなかった。
人が人を思うのは、ひどく難しいのだとアリアは思う。ジーナやジェシカの思いやりが、アリアや涼にとって抵抗感があっても、それを優しさではないとは言い切れなかった。
アリアは一度瞼を閉じ、感傷を振り払って首を振る。
「街の構造を確認したら、要塞でお部屋が借りられるか確認してみようと思うんだけど、どうかしら? すぐに此処を出ても、どうしようもないし」
可能であれば、四方の扉がある付近の部屋が余っていることが望ましい。北は雪の積もる山の方面に出て、南は山がなく茶色の砂だけが広がる大地があった。東はアリアたちの来た方向、西は深い山稜の合間に道が伸びている。
——逃げるなら、西かしら。
けれど、世界一高い場所なら。地形を見て考えるアリアに、涼は頷いた。
「そうだね。暫く滞在するだろうし、配給の仕組みとかも、忘れないうちに聞いておこうか」
ヴィアードは話を聞きながら、特に口も挟まずに街を見下ろしている。左右に動く瞳孔は、街の造形を余すところなく観察し、目に焼き付けているからかもしれなかった。
方針を決めるアリアたちの背後には、大きな鐘がある。見張りの男は、最上階まで登ってきたアリアたちに軽く挨拶をすると、交代の時間なのか階下へ降りて行った。アリアは欄干に腕を載せ、風に目を細める。視界の隅で、ジーナが結んでくれたリボンが揺らめいていた。
「あれ? 何か人がこの下に集まり始めているわね」
塔の下は大きな広場になっており、円形のそこに、街の東西南北からまばらに人が集まり始めている。涼もその姿を見、
「そういえば、村の人たちも集まってる時があったなぁ。礼拝の時間って教えてもらったことがある」
「礼拝?」
アリアが聞き返したところで、ヴィアードが静かに口を開いた。
「信仰心が厚い都市や、《聖者》がいれば礼拝が定期的に行われることもある」
「皆で祈るの? 何を?」
「アリア。お前に、祈る」
アリアは目を瞬かせてから、集まり始めた人々に目線を戻した。これから、集まり、教典でも読んで祈りを捧げる人々の姿を想像し、深く溜息を吐く。
「昔、お祈りをさせられたこともあったけど、私、あれは好きじゃなかったな」
昔からある伝承を読み、教えを受け、祈る。祈ったところで何になるのだと、アリアは当時から疑問だった。
「世界には、きっといろんな人がいるから。祈りに救いや慰めを求める人も、きっといるよ」
慰めるような声音で涼は言い、ふとヴィアードを見上げる。
「僕はあまり教義に詳しくないんですが、教えてもらえますか? それとも、何処かで学べるものでしょうか?」
ヴィアードはやや考え込み、答える。
「……私が答えるより、実際に見た方が早いだろう。認識の齟齬も少なくなる」
アリアに聞けと言わないのは、ヴィアードなりの配慮だったのかもしれない。ヴィアードが直接涼に教えないのも、彼なりの思いやりだろう。
「涼くん、本当に知りたいの?」
「うん。知らないと、対処出来ないことが多い気がして。後手になっちゃいけないところもあるんじゃないかな」
「そうなのかしら……」
敢えてアリアは、この星にある教義や伝承を涼には深く教えてこなかった。村人も、涼に礼拝への参加などを強いたことはない。アリアにとっては涼に知られたくないという個人的な私情だが、村全体で隠匿してきたその不自然さを、ヴィアードが指摘した。
「知らないということが、あり得るのか」
言外に、普通に生きていれば、親から絵物語のように伝承を教え込まれ、自然と知る内容であると彼は告げる。アリアが一瞬どう答えようか迷った瞬間に、涼が口を開いていた。
「僕は、記憶がないんです。アリアたちの村で目覚めた、その前の記憶が」
ヴィアードが僅かに驚いたように目を見張った。アリアは嘆息して、涼とヴィアードを交互に見つめる。
「まぁ、そういうことよ。涼くんは、ある日あの村で拾われて——自分の名前は分かっていたけれど、何処から来たのかも、何で村の近くで倒れていたのかも、分かってないの」
「それで、村の人たちが介抱してくださって……。生活に慣れた頃、アリアの世話役として、働けることになったんです」
アリアはその言葉を聞いて、複雑な心境を持て余した。小屋に押し込めた少女の世話を、記憶のない少年を少し過ぎた行きずりの人間に押し付けたのは、人身御供に違いない。その薄暗い目算を、アリアは最初から知っていた。
目を落としたアリアの横で、ヴィアードは涼に再度、確認する。
「……狩猟の知識はあったな」
「都合がよく聞こえるかもしれませんが、知識として蓄えていたり、身体が覚えていることはあるのかもしれないです。僕も、自分が何を覚えていて、何を忘れてしまったのか、よく分かりません」
例えば球体がある。元々、それを球だと認識していれば、球が欠けたと分かることも、元が球だと知らなければ欠けた事実すら分からない。涼は自らの記憶喪失を放置していたわけではないが、村での生活は外部刺激も少なく、ついに欠けた記憶が戻りはしなかった。
「僕が知っているのは、村の人たちと、アリアが教えてくれたことが全てです。アリアが《春の目覚めの少女》として外敵が現れた際には、古から残された兵器を使って戦う使命を与えられてしまったことと——」
言葉を切った涼は、口にするのすら耐えがたいと、顔を歪めた。
「伝承の通りに戦えば、アリアが……死んでしまう、という、ことです」
ヴィアードは暫く考え込み、アリアに視線を向ける。アリアが頷くと、低く呟いた。
「この塔の下から、大きな力の気配がする。行ってみるのがいいだろう」
「大きな力?」
頷いたヴィアードは、北の方向に目線を向ける。アリアと涼もつられて、北にある雪山を見つめた。遥か高く聳える山頂は、薄い雲に覆われて輪郭がよく見えない。
「この塔も随分高いと思ったけれど……ここはまだ世界で一番高い場所じゃないのね」
アリアが呟いた後、三人の間には沈黙が落ち、風だけが髪を撫でて吹き抜けていた。