6.
久しぶりに湯あみをし、アリアはジェシカの部屋に敷かれた寝具に身を委ねていた。既に町中の明かりは消され、部屋の中も真っ暗だ。ジェシカの部屋は、ベッドの上に草臥れた手製のウサギのぬいぐるみや、幼い子が読むような絵本、そして、いくつかの本とハーモニカが置かれている。ジェシカの両親が、ジェシカの為に作り与えてきたものたちに囲まれて、アリアは部屋の天井を見上げては落ちそうになる溜息を飲み込んだ。子供の頃からこの部屋で過ごしてきた部屋の主は、ベッドの上から無邪気にアリアに話しかけている。
「ねぇねぇ、アリア。涼って、変わった名前だね。それにあの綺麗な黒い髪。黒色の髪と黒色の目なんて、私、見たことないわ」
アリアは有無を言わさない口調で答えた。
「そうでしょ。よく似合ってるわよね」
此処に来てアリアにも分かった。青みを帯びた黒い目も、艶のある黒い髪も、確かに物珍しいのだと。山奥の村と小屋の生活では実感を得なかったが、多くの人々を見れば、涼と似たような容姿を持つ者はいないのだとはっきりと理解した。そしてそれはジェシカに指摘されたくはない。容姿を言及するなんて、だとか、もっと上手い切り返しもあるはずだが、社交をあまり知らないアリアは真っ直ぐに答えるか嘘をつくかしか対応の方法を知らない。涼ほど気安くもなく、ヴィアードほど気楽にも話せない相手に対して、アリアは少し気疲れしていた。
——普通の女の子って、ジェシカみたいな感じなのかしら。
「格好よくて、涼と話すときはちょっとドキドキしちゃう。アリアとは昔から付き合いがあるの?」
「ええ、そうよ。昔からね」
好きにならないでねと言うのも変な気がして——そもそも涼はアリアの物でもないし、涼の自由を阻害するのは我慢ならないので、アリアは短く答えることで突っぱねるしかなかった。
「涼ってどういう意味なのかなぁ。名前って大事よね。私は、先を見る者という意味で、私が生まれる時に、ジェシカってお父さんがつけてくれたんだって」
「へぇ……そうなの」
人の名前に意味があるのかと、アリアは先程よりは興味を持って相槌を打つ。ベッドの上からは無邪気な問いが続いた。
「アリアは、やっぱり、ご両親が《春の目覚めの少女》から取られたの?」
一瞬だけ跳ねた自分の鼓動を、アリアは聞いた。直後に、名の由来など——本来の名前すら知らないアリアには答えようがないと、ジェシカに背を向けて横になる。寝具は柔らかく、肌にも気持ちいいが、対するアリアの気持ちは暗く、眠気は遠い。
「ええ、そうらしいわ」
他の名が欲しいとか、本当の名を知りたいとか、そんなくだらないことは思わない。涼がアリアをアリアと呼んでくれるのならば、それ以上の意味はないのだと、ジェシカに言いたくもなければ、知られたくもなかった。
「そうなんだ! 素敵な名前だよね、アリアって。アリアちゃんって、結構、この街にも多いんだよ。アリアのご両親もきっと、《春の目覚めの少女》のように育って欲しくて、あやかってくれたんだろうね。もしかしたら、この子に《春の目覚めの少女》の素質がありますようにという、お願いだったのかも」
ジェシカがまるで楽しい想像をして思わず笑うような声が、室内に小さく響く。アリアはまったくの真顔だった。
アリアの記憶の中に、母の姿は殆どない。《春の目覚めの少女》の血筋を途絶えさせない為に、母のように血筋を引いた存在は、子を産むとすぐに隔離され、また次の子を産むためだけに生きるのだと、幼い頃に聞かされていた。当たり外れがあるからだと。故に、アリアは生まれた時以外、母と顔を合わせたことはない。おそらく、母はもう役目により死んだのだと、アリアは理解していた。
《聖堂》に集められた他の《春の目覚めの少女》たちは、いずれ迎えるかもしれない自らの役割を熱心に聞き、アリアは内容を完全に理解はしていなくても、おぞましさに泣き出したのだと、後から司教たちに教えられた。勿論、司教たちは伝承と思想に染まらぬアリアに、厳しい折檻をしたのだが。
救世主であらなければならぬ。お前たちの命は、星に生きる者たちすべての希望であり、その為だけにある。世界の為に生きよ、世界の為に死を——。
「……そうね」
少し間を開けて、アリアはジェシカを肯定した。嘘をつくのは苦しい。早く寝てくれないかしらと思いながら、部屋の壁にある本棚をじっと見つめる。
ジーナは生まれたばかりのジェシカを抱きかかえて、夫の付けた名を優しく呼んだのだろうか。
「あのね、《春の目覚めの少女》たちが、今どれほど残っているか分からないし……私たちは私たちで《荒涼の狼》という義兵団を作って、あいつらと戦う為の準備をしているの」
ジェシカは光を落とした自室で、天井を明るい瞳で見つめながら、アリアに語る。
「私のお父さんとお母さんが、義兵団のまとめ役なんだ。この街を守ろうって、皆で力を合わせているの」
アリアはベッドの方向に向き直る。ジェシカから語られた話題の中で、今の街の状況、これこそが一番知りたい。
「この街は、今までよく艇から狙われなかったものね。こんなに大きな都市なら、簡単に標的にされそうなのに」
「言われてみればそうだね。ネルドラドの対空装備に怯えてるのかな? 要塞の上にね、砲台を用意しているの。襲撃があれば、艇に向かって照射できるように。きっと艇をやっつけられるよ」
ジェシカは明るく言うが、言い分には納得は出来ずにアリアはじっと変わりもしない天井を見つめた。
——私ならどうするかしら。
アリアが星を侵略している立場なら、この街を狙う。付近に主だった街や村がない以上、人々の大多数はここに集まっているに違いない。ネルドラドを《魔弾》で襲撃しない理由がなかった。
そして、ふと気が付く。
ネルドラドも、いずれ襲撃はされるのだ。その好機を——散り散りになった人々が、ここに集結するのを待っているのではないか。各地に散り散りになった人々を、空から狙うのは難しい。地上戦が始まっても、逃げる人々を探すのは時間を要するはず。それならば、一点に集結させてしまえば効率がいい——例え、その目論見が分かっていたとしても、飢えや雨風を凌ぐために、人々は配給などを求めて集まるしかないのだから。
——意外と時間はないかもしれないわね。
アリアは明日は、街の構造を理解するのに努めようと決めた。ネルドラドからも逃げる時が近いとすれば、どこから脱出できるのかを早いうちに見定めておく必要がありそうだ。土地勘がなければ、逃げ遅れて炎に巻き込まれてしまう。
「アリア、知ってる? あの艇にいるのって、別の惑星の人たちらしいよ」
「そうらしいわね。風の噂で聞いただけで、私もあまり知らないのだけど」
「噂ばかりでよく分からないよねぇ」
いつの間にか広まった噂を、人々はさざめき合っているとジェシカが語る。
鉄鋼の船を蔓延らせている者たちは別の惑星の人間である。この星の人類を滅亡させ、侵略する目的で攻勢を仕掛けてきているそうだ。彼らからの声明は開戦時に一度あったきりで、それ以降は交渉に応じることもなく、一方的に空から《魔弾》を投下し続けてきた。降伏すらも無視するため、各都市や国の重鎮たちも成す術なく死んでしまったようだ。
対するこの惑星の住民も、《魔弾》を迎撃する兵器を開発しようとしたが、すぐに都市や工場が集中的に狙われ、ろくな対空兵器も作れないままに生産が停止してしまった。物流は滞り、生き残った人々同士の情報も行き交いが少なくなり、辛うじて断続的に村には届けられていた新聞も、離れた土地への伝達は難しく、先日からとうとう途絶えているらしい。
「ネルドラド以外の大都市は、《魔弾》でやられちゃったみたい。他の村も……多分、駄目だろうね」
「そう……」
アリアたちの村は辛うじて自給自足の生活を送れていたものの、果たしてそのような集団がどれほど残っているか。
《魔弾》から現れる黒衣の者たちを知り、ますますアリアは確信した。ヴィアードの言う、この星と同じ匂いがしないとは、即ち生きている星が異なっているということなのだろう。
ジェシカの語る噂も、アリアたちと同じように《魔弾》から出てきた黒衣の者たちと会った者が発端なのだろうか。
「そういえば、ジェシカ。山で会った時、山賊と言ってたわよね。あの時、私たちを疑ってきたからよく覚えているのだけれど」
さらりと言葉で刺せば、ジェシカが僅かに笑った気配があった。
「いきなり脅されたから私も忘れられない体験だわ——最近ね、賊がよく出没するらしいの。山に獣を狩りに行った人たちが帰ってこなくなって……死体はたまに見つかるんだけど、荷物とかは全部獲られてるんだ」
「それ、もしかしたら山賊じゃないかもしれないわ」
どういうこと、と、夜の中にジェシカの声が問う。