5.
「ただいま!」
住宅街にある二階建ての一戸の扉を開けたジェシカが明るく声を上げる。すると、家の中から穏やかな女性の声が返ってきた。
「お帰りなさい、ジェシカ。遅かったのね。何かあったんじゃないかと思って、心配したのよ」
アリアが開いた玄関から覗き込むと、豊かな茶の髪を一つ括りにした女性が、娘を抱きしめていた。母の腕に包まれたジェシカは「大丈夫だよ」と言い、やや乱暴に腕を振り払う。
アリアはその光景をじっと見つめてしまった。娘に抱擁を解かれても、母は鷹揚に笑みを浮かべているだけで、それが何ともアリアの目には感傷的に映る。
「山で、焼け出された村から避難して来た人たちに会ったの。連れて来たんだけど、いいよね?」
「あらあら! それは大変だわ。すぐにご案内しなさいな」
「うん!」
頷いたジェシカはアリアの手を強引に握り、家の中に連れて行く。
「ちょ、ちょっと……!」
脚を取られてたたらを踏みながら、玄関にアリアが現れると、ジェシカの母は目を丸くした。すぐにアリアに近寄って、娘に代わってアリアの両手を包んでくれる。暖かい体温にアリアは少しぎょっとしたが、ジェシカのように振り払えはしなかった。
近付いたジェシカの母の顔は、娘によく似ていた。だが、ジェシカよりも他者を包容するような、重ねた歳の分だけ柔らかい顔立ちをしている。
「まぁ……! こんなに可愛い娘さんだったなんて。此処までよく頑張ったわね。可哀相に、避難するのも大変だったでしょう。危ない目に遭わなかった? 怪我はない? お腹は空いてる?」
声の端々に、何の他意もなく、惜しみのない労りが込められているのが分かる。慌ててちらちらとジェシカを横目で見るが、彼女は首を傾げるだけで、アリアの救助信号には気付かなかった。結局、アリアは口でもごもごと言葉を詰まらせて答える。
「あ、あの、すみません、突然、お邪魔、して……」
「お邪魔だなんて、とんでもないわ。せめて今夜はゆっくり休んでいってね……あら、そちらはお連れの方々ね?」
ようやく涼とヴィアードに気付いたらしく、彼女がアリアの手を離して、同じように涼の手を取る。
「こんばんは。ジェシカさんのご親切のままに、甘えて来てしまいました。行きずりの人間にまで手を差し伸べてくださるなんて、お優しい方ですね」
涼がジェシカの功績として伝えれば、母は娘への賛辞に嬉しそうに目を細める。ジェシカは若干気まずそうに何処ともつかない空間に目を逸らしていたが、満更でもないのはアリアにも分かった。
——別に涼くんは、あんただから特別ってわけじゃないんだからね。これが標準だから!
心中で釘を刺しつつ、まさかこの場で口にはしない。
「ジェシカが貴方たちと出会ったのも、神様のお導きよ。こんな時ですもの。出来る範囲で協力し合うのは、当然のことよ。さぁ、どうぞ、ご遠慮なさらないで」
ヴィアードとも軽く握手をし、ジェシカの母がアリアたちをリビングの椅子へと、半ば強引に追いやる。手編みの刺繍で編まれたレースが掛けられたソファーは、年季が入っているが丁寧に取り扱われているらしく、まだ弾力がある。ふわりと体重を受け止めてくれる綿の存在と、その前にある木の低いテーブル。その上にある花瓶に飾られた野草が、幼気な白い蕾をつけている。本棚にいくつかの本と、小さな絵画。絵には夫婦と子供が二人、描かれていた。
アリアたちが過ごした小屋とは、また違う空間が此処にはある。これが、営みなのだと思えば、アリアは若干の居心地の悪さを覚えた。
ソファーに大人しく座るアリアの隣に、涼も腰かける。ヴィアードはリビングの壁に背を預け、玄関の方に神経を向けているようだ。暫くキッチンに籠って人数分の香草の茶を用意したジーナに礼を述べつつ、アリアたちが名を名乗ると、ジェシカの母もジーナだと名乗った。
ばたばたと忙しなく動き続けていたジーナは、手を叩いて朗らかに告げる。
「そうそう。ひとつお部屋が空いているから、寝具の準備をしてくるわ。男性二人はそこの部屋を使ってね。アリアちゃんは、申し訳ないけどジェシカの部屋で寝て頂戴。ジェシカ、貴方もお部屋に寝具を一つ、用意しなさいな」
「えっ? 同じ部屋……⁉」
「はーい」
アリアの驚愕に満ちた声は、ジェシカのそれにかき消された。ジェシカとジーナはすぐに立ち上がり動き出してしまって、ぽかんと口を開いたアリアの言葉は二人には届いていない。ぱたぱたと階段を昇る音が、リビングに響いていた。
「え、え? あの子と一晩、一緒……? あの子の部屋で、寝ろって言ったの?」
三人だけが残ったリビングにアリアの呆然とした呟きが落ちる。ヴィアードはちらりとアリアに視線を投げただけだが、涼は慰めるように微笑んだ。
「危害は加えられないと思うよ。もし何かあったら、大声で僕を呼んで」
「そ、そういう心配をしているんじゃないんだけど……」
むしろ危害があるのなら、ヴィアードを呼ぶ。涼が凶刃に巻き込まれるのは、アリアが嫌だ。
「私、誰かと一緒に寝たことなんてないわよ? しかも、今日初めて会ったばかりの子なんて、どうしたらいいのか、全然分からないわ」
「緊張するよね。村にも、アリアと近い歳の子はいなかったし」
涼以外の人間とろくに会話をしたことのないアリアにとって、いきなり誰かと横並びで寝るのは抵抗感が強い。すぐには返事が出来ずに黙り込むと、涼がアリアを気遣うように顔を覗き込んだ。
「一晩、ただ寝るだけだから、大丈夫だと思うよ。アリアが気負うことはないけれど……でも、もし安心して眠れなさそうだったら、リビングで寝かせてくださいってお願いしようか? 僕が移れば、アリアはヴィアードさんと一緒の部屋になるし……」
リビングには寝具がない。ソファーで寝ることになるのだろうが、そこに涼を追いやるのも嫌だったし、アリアが此処で寝ると言えば、ジーナが渋るような気がした。
ヴィアードをリビングに配置していれば良いとは、アリアも涼も考えない。彼を蔑ろにしたいとは思わないからだ。
そして万が一、アリアと涼の部屋を入れ替える形になってしまえば、それがアリアにとっては最も避けたい結果になる。まさかと思うが、誰も気にしないからこそ、絶対にないとも言い切れない。
「……だ、大丈夫、ジェシカと一緒に寝るわ。涼くんも、寝具を使って寝るのは久しぶりでしょう? ゆっくり休んでね」
「ありがとう。アリアも眠れなかったら、僕たちに用意してくださる部屋に来て寝てもいいんだし、本当に無理しないで」
「確かに、後でこっそり移動してもいいわね……」
はぁとアリアは溜息をつく。親切だからこそ、無碍に断りたくなくなるのは、厄介に思えた。
「……親切って、なんだか、一筋縄じゃいかないのね」
呟きに、涼がただ静かにアリアに微笑んでくれる。深い黒い目と視線が合うと、その目を通してアリアは自分の葛藤を見出せるような気がした。真絹に包まれたように苦しくて、居心地が悪いのに、強烈に欲してしまうような強い矛盾だ。その矛盾を涼は、何となくでも察して、アリアに寄り添ってくれている。
涼に小さく笑んだ時、たんたんと、二階から誰かが降りてくる音が響いてきた。リビングに現れたのはジェシカで、手には布を三枚と、数枚の衣服を持っている。
「お母さんが、共同のお風呂に連れて行ってあげなさいって。疲れてるならこのまま寝ちゃってもいいけど、どうする?」
そういえばとアリアはふと自分の肩に鼻を寄せる。続いた野宿の間でも、沢や井戸を見つければ身を清めていたが、きちんと風呂に入れたのはもう随分昔のように思えた。
「折角だから、私は行こうかしら」
「僕も案内してもらえたら嬉しいな」
二人が同意すれば、ヴィアードの意見は聞くまでもない。すぐに壁から背を離したのを見て、ジェシカは頷いた。
「じゃあすぐに行こっか。もうすぐ街の灯は全部落とされちゃうから、急ぎ足でね」