3.
アリアは火の回りを歩き続け、やがて暗くなりそうな空を見上げた。
「やっぱりついていけばよかったっ! 涼くん、迷子になってないかしら? 帰り道が分からなくなってたらどうしよう、探しに行った方がいいんじゃない?」
涼が狩りで場を離れてから、少しも心が落ち着かない。木の幹に背を預け、瞑想らしき姿で座っているヴィアードが呆れた目でアリアを見上げる。
「山は日の入りが早い。まだそれほど時間は経っていない上に、すれ違う可能性がある」
「あんたは涼くんが心配じゃないのっ? 危ない目に遭っていたらどうするのよ!」
「殺気があれば私が気付く」
そういう問題じゃないとアリアは溜息を吐いた。だが、ヴィアードに当たっても仕方がないことだと、分かってはいる。
「過保護だな」
ヴィアードが僅かに呆れたように呟いたのを、アリアは聞き逃さなかった。
「過保護じゃないわよ! 必要な心配をしてるだけ。涼くんってちょっと抜けてるし、お人好しだから放っておいたら自分から苦労を背負い込むのよ。村でもいっつも助けを求められたら断れなくて、要らない雑用ばっかりさせられてたんだから。そうやって誰にでも優しくするから、村の女が手助けしてくれた涼くんに惚れただのなんだので、その婚約者に怒鳴られたこともあったらしいし——それに、こうやって目を離した隙に、また、怪我をしちゃってるかもしれないじゃない」
アリアの脱線した捲くし立てを律儀に最後まで聞き、ヴィアードは淡々と言う。
「涼はお前の思うほど、無能な男ではない」
——そんなこと。
アリアは唇を噛んだ。
「分かってるわよ、そんなこと。誰が涼くんを無能だなんて言ったの? 二度と涼くんのことで知ったかぶって、私に説教しないで」
小屋の生活の、重たる部分である家事を支えていたのは涼だ。旅の途中でも、炊事や必要な水分の確保などは、涼の方がやってくれる。その他、あらゆることにおいて、特に苦手な分野がなく、万遍なく何でも出来るのが涼だった。誰に教わったのか、アリアが初めて遭遇する出来事であっても、涼はすぐに対処の方法が分かる傾向にある。
涼が遺跡で怪我をしたのも、元はといえばアリアを庇った所為だと、アリアが一番分かっていた。涼が一人であれば、刃を避けられたに違いない。あの夜を思い出すとアリアの中に新鮮な怒りが沸いて出てくる。
「アリア、ひとつ問いたい」
「なに?」
口を開きかけたヴィアードがふと視線を鋭く、森の中に向ける。俄かにぴんと張り詰めた緊張感の後、彼は薄く呟いた。
「……僅かに殺気がある」
「早く行って!」
叫んだアリアは、すぐに走り出したヴィアードの後に続いて、山の土を踏んで駆け出していた。
◇
アリアが見失わないように速度を抑えて、先を急ぐヴィアードの後をアリアは必死に駆けた。自分を置いて先に行って欲しいと口に出す余裕は、弾む呼吸の合間には無い。柔らかい土の上に根を張る蔓や木から落ちた葉に足を踏みつけ、ただ駆けに駆けた。
やがて深い木々の合間に、人の服の裾が棚引くのがアリアの目にも見える。その持ち主の、黒い髪の姿も。
「涼く——!」
声を上げたアリアは、途中で言葉を飲み込んだ。
——涼の奥に、彼の額に向かって弓をつがえた、誰かがいる。
矢を突き付けられた涼は困惑しながら、丁寧に言葉を重ねているようだった。アリアは瞬時に頭に血が上り、喉から声が迸る。
「ちょっと、あんた、何してんのよ!」
咄嗟に叫んだアリアの前に、ヴィアードが立っていた。いつでも抜刀できるように構えた彼を押しのけて、アリアは二人を凝視する。驚いたようにアリアの声の方向を見たのは、涼と、肩のあたりで切りそろえた茶の髪を揺らした、少女だった。
驚きでか、少女が抑えた矢が今にも放たれそうに指から力が緩んでいる。
「なにっ? だ、誰……っ⁉」
「今すぐその弓を下ろしなさい! 涼くんから離れて! 早く!」
「待って、アリア——」
焦った涼の声が響いたが、アリアよりも少女よりも、もっと早くに動いた者がいた。アリアの横から消えたかと思えば、次の瞬間には少女の喉元に抜刀した刃先を添えていたヴィアードだ。
少女が息を引き攣らせて悲鳴を上げかける。咄嗟に涼がヴィアードの腕を掴んでいた。
「ま、待ってください、誤解です、彼女に危害を加えられたわけじゃないんです!」
必死に言い募る涼をヴィアードは静かに見下ろし、そっと手を離させようとする。
「お前に危害が及ぶ前に助ける」
「なら、必要ないです、危害なんて——」
涼がヴィアードの刀を離させる前に、アリアは叫んだ。
「弓を離して地面に置いて、今すぐに!」
折角拮抗した状態が、再び涼にだけ凶器が向けられる状態に戻るなど、耐えられない。アリアは少女だけを見据えて命令し、ゆっくりと三人に近付いていく。少女は腰に鞄らしきものを巻き、動きやすそうな革の外套に、長裾のズボンを履いていた。遠く転がっているのは木の枝で編まれた籠だろう。
気色ばむアリアを見咎め、慎重に両手を上げた少女は手から弓を離した。土に弓と矢が落ちる音が響く。少女は、黒目を揺らがせながらも、黄昏色の目頭を尖らせた目でアリアを睨み据えた。
「随分なご挨拶ね。それとも自己紹介頂いているんだったりしてね? この頃、この辺りに出るようになった山賊ってあんたたちなんでしょ?」
「おあいにく様。こんなに可愛い山賊がいて堪るもんですか。だいたい、先に涼くんに凶器を向けたのは、あんたの方よ」
少女から視線をそらさないまま、アリアは傲然と言い放つ。心の中がささくれ立っていた。涼は背を怪我をしたばかりな上に、二度目の流血を見るのは耐えられない。苛立ちを隠せないアリアに、当の涼が静かに語り掛けた。
「アリア、落ち着いて。僕が不注意だったんだ。この子は獣を狩りに来て、僕を獲物と見間違えただけだ」
「涼くんを獣と見間違えたですって? そんな馬鹿なことがある?」
狩りを知らないアリアは釈然としないが、涼に頼まれれば無下に断るわけにもいかない。アリアが手を振るとヴィアードは刀を鞘に納めた。きんっと音が鳴り刀身が見えなくなると、少女が息を吐いてから涼に視線を向けた。その目に僅かな親しみを感じて、アリアは舌打ちをしたくなった。
「ありがと。あっちは貴方の連れっぽいから、御礼を言うのも変だけど」
アリアを睨む目を、アリアも同じ色で見返した。涼がアリアの傍に寄り、二人を仲裁して顔に笑みを作る。
「急に驚かせてごめんね。僕は涼。この子はアリア。そちらはヴィアードさん」
穏やかに謝罪し名乗られると、少女もまた渋々といった風に矛先を納めた。
「……私はジェシカよ。あなたたち、山賊じゃないなら、何処から来たの? この辺の人じゃないでしょ。見たことないもの」
アリアは一瞬考えたが、素直に答えることにした。これ以上、涼とジェシカだけに会話をさせるのが気に入らないからだ。
「……ずっと北の、山奥の村から。《魔弾》に焼かれちゃって、逃げ出してきたの」
すると、強張っていたジェシカの顔が、ふと解かれた。ジェシカはアリアの頭から靴の先まで視線を移す。そして、アリアたちの服の汚れ具合や靴の草臥れ具合、着の身着のままの姿を確認したようだ。
水面に水滴が落ちたかのような、一瞬で変わりゆく雰囲気にアリアは瞬きをする。最後に、少女の黄昏のような色の目に、純粋な労りと慰めが浮かび上がった。
「そうだったんだ……それは、大変だったね。あなたたちだけでも無事でよかった」
痛ましそうな顔をして、アリアたちを慰めるようにした口調である。
——私、憐れまれているの?
アリアはジェシカの態度が、何故だか妙に癇に障った。
「もしかして、森に迷い込んだの? この辺りの地理は分かる?」
ジェシカは親切心を発揮して、次々と尋ねてくる。アリアは内心で勢いに押されながら、負けないようにと言葉を返した。
——負ける、なんて、勝ち負けなどないはずなのに。
「実は、さっぱり分からなくて。この近くに街か村はある?」
地理の情報は絶対的に欲しいものの一つだった。アリアとしては付近の地理と道を教えて欲しかったのだが、ジェシカは微笑んで答える。
「山奥の村からじゃ分からないよね。もう日も暮れるし、案内するよ——山で一夜を過ごすのは危ないから。さ、行こ!」