光草むしり
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
お、つぶらやくん、草むしりはだいたい済んだかい?
いやはや、植物たちの生命力には恐れ入るねえ。ちょっとしたすき間、ちょっとした時間、わずかでもゆとりがあると見たら、抜け目なくその身、その種をねじ込んでいく。
自然界にいる存在ならば、特におかしいことではないのかもしれない。これが人間社会になると、スマホなりパソコンなりをいじる時間に置き換わるのだろうな。
昼夜を問わない積み重ね。それらは良くも悪くも、結果となって現実にあらわれてくる。楽しいことは重ねるのが苦にならないから、そうと意識せずとも形になってしまうのが厄介なところだねえ。
良薬は口に苦しというか、自分にとって苦しいことを重ねたほうが将来的に役に立つことは多い。けれども、それを実践するのはとっても難しい。ひょっとしたら、昔より今のほうがだ。
選択肢がありすぎる。
できることを絞られるうちは、しぶしぶやることもできただろうけど、今はひとつのことがダメでも二つ目、三つ目と目移りすることができて、なあなあにできてしまう。
ある意味で昔よりも強い自制心がなくては、結局なにもできずに終わってしまうかもしれないな。ならば、必要ならば尻に火がつくような状況へ追い込むか、追い込まれるかが大事になってくるだろう。
草をむしることをめぐる私の昔話、休憩ついでに聞いてみないかい?
いまから数十年ほど前のことだ。
ある朝に起きた時から、私は喉へタンが絡むような不快感を覚えてね。洗面所へ向かったんだ。
何度もうがいをし、咳き込もうとも試みた。すぐ対処できるよう、わきにティッシュも用意して。
でも、なかなかすっきりとしない。タンらしきものも、喉奥へからんだままでどうしようもない。さいわいにも食事をとったり、しゃべったりするなどの日常動作に支障をきたすことはなかったが、覚える違和感は個人としては大問題になりやすい。
当初は風邪の可能性を考え、数日間は無理をしないようにつとめれば、改善するものと思っていた。
けれども、日を追うごとにこの違和感は増してくるように思えてね。何かに集中しているときは我慢できる、というか無視できるんだ。まるで、頭をひっこめて隠れているかのようにかき消える。
しかし一日中、集中してなにかをしていることなどまず不可能。
ふと気を抜くときになると、喉へあっという間に絡みついてくる。そのたびいろいろな対処を試みたよ。自らリバースすることすらね。
けれど、それでもさしたる効果はあらわれず。いざ病院へ行ってみても原因ははっきりと分からずに風邪薬を処方される結果に。案の定、それらの薬のお世話になっても、喉の違和感は取れずにいたんだ。
ほとほと困っていたとき、救いの手を差し伸べてくれたのは祖父だった。
「――夜、起きることはできるか?」
悲嘆しかけた私のもとへ、ふいと祖父がやってきてそう尋ねてきたんだ。
私の症状は病院へ行く前に、すでに家族へ共有している。その直後には、祖父は何もいってはこなかったんだ。
しょっちゅうじゃあないけれど、テレビの映画などを見る時は夜更かしすることはある。私は祖父の言葉にうなずいた。
「ならば、今夜の午前2時にじいちゃんのところへ来い。ひょっとしたらその症状、治せるかもしれない」
治せるかもしれない。
いまこの時において、どれほどありがたい言葉だっただろうか。私は目覚ましを午前2時の5分前へセットしたうえで、その日は早めに床へ入ったんだ。
時間通りに祖父の部屋へおもむくと、上着をぽんと渡された。これから外出するのだという。
すでに暖かい陽気になり始めているとはいえ、ややもすると結露が見られるような時季だった。それでも祖父は構わず、履物を履いて玄関を出ていく。私もそれに続いた。
歩きなれた道を進んで、10分くらいしただろうか。川にかかる橋のたもとへ私たちはやってきていた。
ひと目で、不思議に思ったよ。
今日は月が出ておらず、近くに家などもなく光源は祖父が持ち出してきた懐中電灯くらいのもの。
それがここへ来て、ガードレールを越えたところにある茂みたちから、青白い光がそこかしこに灯っているのを認めたんだ。電灯の光が当たっているわけでもないのに。
「あれらをとれ。とって食べろ。そのままでな」
思わず、祖父の顔を見てしまったがその口調は冗談とも思えなかった。
「自分の手で抜かねば効果がない。やるんじゃ」
昼間の苦しさを思い出し、自分を奮い立たせながら私は光る草たちのもとへ、おずおずと近づいていく。
「草を引き抜くときは、おそらくかなり痛い思いをするじゃろうが、我慢できぬものでもないはずじゃ。草はそのまま口に入れて、噛んで飲み込め。これまただいぶ苦いじゃろうが、耐えろ」
我慢できないほどじゃないが、かなり痛い。その表現、的外れじゃなかった。
触れたところすべてに注射針が備え付けられているかと思う激痛が、手を走ったよ。けれども血どころか皮膚が赤くなった様子さえない。
幻覚の一種なのか? と少し怖くなったが、この喉の違和感もまたお医者さんの手をもってしても分からない手合い。ならば本当に効果があるのでは、と淡い期待を抱いたね。
実際、吐き出したい衝動に駆られる苦さの草を飲み込みきると、ここへ来るまでものどへ詰まりかけていた違和感が、すっと消え去ったんだ。
でも、素直に喜ぶことはできなかった。
これは一時的な療法に過ぎず、回数が少ないうちはまた次の日に同じ症状が来ると。
その解消のときまで、一晩たりとも欠かすことなくここの草を飲め、とね。
あらかじめ取っておいては効果がなくなる。この時間の、この光っている草を口にしろ、と。
私はずっと律義に続けていたよ。おそらく4桁日数は頑張ったんじゃないかな。でも、どうしても足を運べないときが来てしまってね。いまだ症状は完治していないんだ。
もし、あのときずっと続けていたならば、今ごろこれに悩まされることもないのだろうか……とも思ったりするが、もうすべてが謎だ。
もう、あそこへほいほいと簡単にいくこともできない状態だし、我慢をし続ける日々なんだ。