1945年8月6日・9日
僕の名前は一ノ瀬二郎。お母ちゃんの畑に行っているところだ。前まではお父さんもお兄ちゃんもいたんだけど、戦争に行っちゃったんだ。でもお父さんとお兄ちゃんとは絶対に生きて会うことを約束sているから、俺も死なないように一生懸命頑張っているんだ。今日は久しぶりの学校に急いで学校まで行っていたんだ。でもいきなりの空襲警報のサイレンが鳴って家に帰った。空襲警報は誤報だったようで、空襲も来ていなかった。僕はもう一度、家の玄関まできた。「いってきまーす」僕は念の為上を見上げた。すると上には戦闘機一基だけが空を舞っていた。一瞬で背筋が凍った。すると黒い大きなものが落ちてきた。すると瞬く間に白い光があたり一面に広がり、突風につき放たれた。何が起きたかわからず、瞳を前に向けると黒い煙が街全体を覆っていた。母が街の方に買い物に行ったことを思い出し、僕は一目散に街に駆けた。僕は絶望した。皮膚がただれている人、ガラスが体中に刺さっている人。僕はその現状を一言では表せなかった。まさに地獄を再現したような光景だった。兵隊さんたちが僕に駆け寄ってきた。「悲しいことはよく分かるが手伝ってくれないとこの地獄は終わらない」街にいた人たちは被害を受けているため、誰も助けに行ける人が少なかった。僕は兵隊さんたちを助けるためにともに行動した。でもこの地獄は始まっただけに過ぎないことがわかった。川を移動していると皮膚がただれガラスが刺さっている人たちが川にたくさんいた。みんな苦しそうな顔をしていた。いつもはきれいな川は赤く絶望に染まっていた。俺は吐いた。僕は負傷者たちを兵隊さんと医師のいる方へと運んだ。爆弾のせいで、何もかもが瓦礫と化し、負傷者はベットもない土へと置かれた。負傷者を運んでいると僕より小さい子どもたちがうめき声を上げて、苦しんでいる。そして僕はまた運んだ。その時点で僕の心は何も考えることができなかった。水をくれという声も、うめき声も何もかも聞こえなくなってた。僕の心がなくなりかけたとき、あるものを見て俺は泣いた。苦しんでいる赤ん坊がいた。1歳にも満たないくらいの赤ちゃんがうめき声を上げていた。喉を大やけどして泣くことすらもできなかったようだ。赤ちゃんの体は爛れ、全身にガラスの破片が突き刺さっていた。赤ちゃんの肌は冷たく、兵士の人に見せると死んでいることがわかった。死体は直ぐに焼却しなければ間に合わないので、僕は轟々と燃え盛る炎の中に赤ちゃんを入れた。赤ちゃんは泣き声を上げるわけでもなく、静かにこの世を去っていた。オレの心は完全に崩れきった。
5日後、お父さんとお兄ちゃんの戦死と天皇陛下による降伏宣言により長い戦争は幕を閉じた。母上は街にいたため蒸気になってこの世を去ったと考えられるそうだ。そして僕は戦争孤児となった。そして僕も家族の跡を追うように、放射線の影響で死亡した。
太平洋戦争では日本人約300万人が死亡したと言われ、そのうちの約80万人は民間人による被害と言われている。今回は広島、長崎の原爆の様子を書きました。原爆ではヒロシマ・ナガサキ合わせて約21万人が死亡したと言われています。その多くは放射線による影響が大きいと言われています。アメリカが今や世界の中心として機能している中歴史を見れば、民間人を大虐殺したというタブーを起こしています。アメリカにも言い分があるのでしょうが、民間人を手に掛けるのは戦争ではないと思います。日本もアジアの侵略をした過去があるということを忘れず、戦争のない平和な世の中が伸びるように。この世は戦争と平和だけの世界になっています。歴史を見れば戦いばっかしているのが我々人間なんです。未来を変えれるのは今だけです。良い世の中にしていきましょう。
僕が伝えたいことは今がどれほど幸せな時代に生きているかをわかってほしいからです。今は簡単に外に出られ学校や遊びができるのですが、戦争中は外は爆撃をうけ、学校教育もままならない状態でいつ死ぬかわからない時代だったのです。僕のおばあちゃんは空襲を経験していて、いかに今が平和かを話してくれました。今学校にいけない、未来が怖いと思う人は今どれほどの幸せな時間にいるかを考えてほしいです。今は平和な時代ですか、必ず未来では戦争しています。逃れようとしても無理なのです。それが人間の生き様だから。