第一話 サンヴェロッチェの花形役者④
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王都セントレアの貴族街の朝は今日も静かで平穏な空気が流れている。騒がしい下町とは違って貴族たちは行儀の良い者しかいないのか、門の向こうで時折響く馬車の蹄の音とハチドリの鳴き声がやけに大きく響くのでロザリーは何だか逆に落ち着かなかった。
「……はぁ」
ロザリーはため息をつきながら箒で庭を掃いていた。秋口に咲くアザレアの花が彩る美しい花壇を前にしても、ロザリーの心は重くどんよりとしている。
理由は言わずもがな昨晩の舞踏会。帰宅してから夜も遅い中、ロザリーは刺客に襲われた話をカインとエゴールに報告した。
「そうか……、君も、よく無事で戻ってきてくれた」
二人は青い顔をしながらロザリーが無事に帰ってきた事を安堵した。
ロザリーはかすり傷程度で済んだが刺客を逃したのは痛かった。あの後バルコニーに戻ってみると最初に倒した方の男も消えていた。恐らく二人目のあの男が連れて帰ったのだろう。
「刺客を差し向けた犯人は分からずじまい、か……」
「申し訳ありません。私が後れを取ったばかりに」
「いや、君のせいではない」
とは言え手がかりは未だゼロ。戦況としてはこちらが不利だ。敵は恐らくフロレンツィア暗殺を諦めてはいないだろうし、エルメルト家が影武者を雇っているとわかれば、アプローチの仕方も変えてくるかもしれない。
「父上、やはりこの件の公表はしばらく控えるべきかと。下手に煽ると連中どんな行動に走るかわかりません」
「そうだな……」
カインは堅い表情で頷いた。そして彼は再びロザリーに目を向け、
「すまないロザリー君。今しばらくフロレンツィアの護衛と影武者をお願いできないだろうか? ……また今日の様な危険な目に遭うかもしれない。だが――」
「私は大丈夫です」
カインは『サンヴェロッチェ』再建をロザリーに約束してくれた。それが叶うまでロザリーは降りるわけにはいかないし、何よりこのままエルメルト家を去ってこの家の人間に何かあったら目覚めが悪い。ロザリーがそう宣言すると、カインも安堵した様に破顔した。だが、
「本当に君には感謝しきれんよ」
「そうですね。幸いベルクオーレン家との顔合わせも恙なく終了したようですし」
カインとエゴールが和やかに言葉を交わしている側でロザリーはぎくりと肩を震わせる。
本当はまだ報告していない事が一つある。それもかなり重要な、――下手をするとロザリーの首が一瞬で飛びかねないような事案が一つ。
「とにかくご苦労だった。君のおかげで、娘は無事だったんだ」
「はい……」
「今日はもう下がりなさい」
カインの労わるような視線が逆にロザリーを追い詰める。ロザリーは疲れたふりをして顔を伏せたままカインの執務室を後にした。
ロザリーは誰もいないのをいい事に大きな欠伸を打つ。昨晩は一睡も出来ず、昨日の疲れが抜けきらない上に完全に寝不足だ。顔色もきっと酷いに違いない。
(それもこれも全部あの男のせいだ)
『あの男』と心の中で呟いた瞬間、またしても燻っていた怒りが燃え広がる。思わず箒を力任せに振った。
ルートヴィッヒ=ベルクオーレン。
名を思い起こすだけでも胸がむかむかする。あの軽薄で人を小馬鹿にしたような調子でこちらを嘲笑う姿が脳裏に焼き付いて離れない。
(秘密守ってくれるって言うからちょっとはいい奴だと思ったのに)
婚約を破棄しないと、フロレンツィアの事を考えてくれると、そう言った口であの男は、
「なんで……、あんな事されなきゃいけないんだ……!」
唇に触れた生々しい感触が消えなくてロザリーは思わずごしごしと唇を擦った。ロザリーにとって初めてのキスをよりによって最低最悪のあの男に奪われるとは。
怒りに任せてガシガシと音を立てて箒を地面に押し付ける。すでに落ち葉が払われている地面に引っかき傷が残った。
「あーっ! こんなところにいたのね」
乱心していたロザリーの元に高い鈴の音の様な声が響いた。正気を取り戻したロザリーが顔をあげると、そこに可愛らしいドレスに身を包んだ少女が頬を膨らませて立っている。
「フロレンツィア様――、おはようございます」
「おはようじゃないでしょ! なんで私の部屋に来ないのよ!」
フロレンツィアは朝からご立腹のようで、ロザリーに大股で向かってくる。腰まで伸びるブロンドの豊かな髪がくるくるとカールを描いて、秋風に揺れて甘い花の香りを漂わせた。
透き通るような白い肌に薔薇色の頬、アクアブルーのぱっちりとした瞳に小動物のような愛らしさが伺える。
彼女こそが正真正銘のエルメルト家子女、侯爵令嬢フロレンツィア=エルメルト。
昔劇団にいた頃、別の団員が姫や令嬢を演じているのを見た事があるが、本物の美しさにはやはり敵わないな、と彼女と出会って初めて本物と偽物の違いを痛感した。
とはいえ、
「昨日の事早く知りたいって言ってたでしょ! 朝一番に来なさいよ!」
この気の強さは本当に令嬢のそれだろうか、と疑問に思わなくもない。勝気で我儘で癇癪もちのお嬢様は、ロザリーがこの屋敷に来てからというもの事あるごとにロザリーを構いたがる。
「申し訳ありません、お嬢様。昨晩は夜も遅い時間に帰宅したものですから、本日も早朝から仕事でしたし……」
「もうっ、言い訳は結構よ。ていうか、……貴女またそんな格好しているの?」
フロレンツィアは怪訝な目でロザリーの頭のてっぺんからつま先までをねめつけてため息をついた。ロザリーは今使用人の恰好をしているのだが、簡素なワイシャツにベスト、そしてスラックス。――男物の使用人の服だ。
「いやだって、こっちの方が楽で……」
「せめて女物着なさいって言ったでしょ! せっかく髪も伸ばしたのに」
フロレンツィアはロザリーの背に回ると、髪紐でゆるく縛っただけのぼさぼさのロザリーの髪を撫でてまた深いため息をついた。ここに来た当初は少年の様な短髪だったが、フロレンツィアの命令で伸ばすよう言われ、今はようやく肩甲骨の辺りに届くくらいになった。昨晩のフロレンツィアの変装では鬘を着用したから髪は伸ばす必要はなかったのだが。
「そうだ! ちょっと私の部屋にきて!」
「えっ、あ、いや。私庭の掃除が――」
「そんなもん他の使用人がやるわよ。いいから来なさい!」
何かを閃いたフロレンツィアがロザリーの手を無理やり引く。ああまた厄介事かとげんなりしつつも、実はフロレンツィアに構われるのはそんなに嫌ではない。彼女の影武者を勤めるため、ここ二か月彼女に付きっきりだった。彼女の普段の様子や言動。何に心を動かされどんな反応をするのか。色んなフロレンツィアを間近で眺める中で、ただの我儘なお嬢様ではない彼女の魅力もたくさん知った。
だからこそ、フロレンツィアには無事今回の件を乗り越えて幸せになってほしいのだけれど――。
ロザリーはこの天真爛漫な主の将来を憂いていたが、その主に引きずられている今の状況を思い出して慌てて意識を戻した。