第一話 サンヴェロッチェの花形役者②
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『警告
ベルクオーレン家とエルメルト家の縁談を即刻で破棄せよ。
さもなくば令嬢の命は保証しない。
警告は一度きりである。二度目はない』
エルメルトの屋敷に招かれたロザリーが見せられた紙には走り書きの様な粗雑な字でそう書かれていた。学の無いロザリーでもこの程度の文章なら読める。
それはいわゆる、『脅迫状』という奴だった。
「先日、屋敷に投函された手紙だ。差出人は不明、その手紙以外に手がかりが一切ない」
「ベルクオーレン家とエルメルト家の縁談っていうのは?」
ロザリーが疑問符を浮かべるとカインが懇切丁寧に解説してくれた。
「近く、王国南部が公国として独立するという話は知っているか?」
「まあ、……噂程度には」
「その公国の主となるのがザイル=ベルクオーレン公爵。フォルテ王国南部と新大陸の広大な領地を所有するベルクオーレン家、その当主だ。ベルクオーレン家は強力な実権と独自の経済基盤を有し国王でも関与が出来ない神聖不可侵の領域となっていた。加えて対外貿易による莫大な利益によってもたらされる財はフォルテ王家に匹敵……いや、王家すら凌駕するとも言われている。そこで王家は下手な諍いを起こす前にベルクオーレン家に自治を認め手放す事にしたのだ。ただし、独立にはいくつかの条件を設けそれを協定という形で明文化した。その条件の一つに、ベルクオーレン家とエルメルト家の縁談があるのだ」
「独立条件の一つが縁談?」
「要は、独立は認めるが王国としてはこれからも密接に付き合っていくという意志表明だ」
口を開いたのはカインの隣に控えていた若い男だ。カインの長男で次期当主、エゴール=エルメルトは厳つい目つきに顎ひげを蓄え、厳しい表情をロザリーに向けている。
「王家とて大事な資金源であるベルクオーレン家を無条件で手放すわけにはいかないからな。フォルテ王家側が独立を認める代わりに、ベルクオーレン家はフォルテ王国の官僚一族との縁談を受ける。そして選ばれたのが財務長官を務める父上の娘――つまり俺の妹であるフロレンツィア。相手は南部領主の一人でブラムヘン領辺境伯、ザイル=ベルクオーレンの嫡男、ルートヴィッヒ=ベルクオーレンだ」
「政略結婚って事ですか?」
カインとエゴールは共に頷いた。独立する一族を王家と繋ぎ止めるための縁談。庶民のロザリーには縁遠い話だ。しかしながら国策のために一人の娘が知らぬ男の元に嫁がされるというのは、なんとも言えない気持ちになる。
「まあ協定自体は両家で数年にかけて議論され、双方納得の上ですでに締結されたものだからいいのだか、問題は世間の反応でな」
「世間の反応?」
「協定締結に反対する勢力があるのだよ。主に、ベルクオーレン家と競争していた王都の商人ギルドの者たちなんかだな」
「……なんで王都の商人たちが協定締結に反対するんですか?」
「そりゃあ、独立する事でベルクオーレン領の関税撤廃とか貿易制限の緩和とか――ああ、そういう難しい話はお前にはわからんか」
エゴールは鼻を鳴らして嘲笑った。少しムッとしたが確かに事細かな経済の話をされてもロザリーには理解できないのは事実なので押し黙る。
「とにかく、この協定が締結すると色々と都合が悪い連中がいるんだよ。だから阻止しようとしている。その目先の妨害として、うちの縁談を潰そうとしているんだ」
ロザリーもようやく事態の全貌が把握できた。国の策略の末に政略結婚させられしかも命まで狙われる。何とも不憫なご令嬢だ。
「今はフロレンツィアには決して家から出ないようにと言ってある。少々我儘で奔放な娘だが命を狙われていると言われればさすがに大人しくしている。だが、問題は二か月後に控えた舞踏会だ。娘は今年で十七歳、社交界にも顔を出す事を許された年齢になった。その二か月後の舞踏会にはどうしても出席しなければならない」
「命を狙われているのに、そんなとこに行ったら危ないんじゃ――」
どこの誰に狙われているかわからない状況で人の多いところに出向くなんて自殺行為だ。だが、貴族には庶民であるロザリーにはわからないしきたりというものがあるらしい。
「それにその舞踏会は例の縁談の顔合わせも兼ねている。お相手の辺境伯も南方から上京され、二人は初めて顔を合わせる事になっているのだ」
ここで顔合わせが滅茶苦茶にされれば二人の縁談は遠のき、協定にも亀裂が入る。こちらから拒否した場合も同様だろう、故に何としてもその舞踏会での顔合わせだけはこなさなければいけない。――と、そこまで理解しロザリーにも先の展開が読めた。
「あの……、つまり、どうしても顔を出さないといけないけど本人を行かせるのは危ないから私に行け、と……」
「理解が早くて助かるな」
またしても二人の男が同時に頷くのでロザリーは気が遠くなりそうだった。遠ざかる意識を慌ててひっつかんで、二人に抗議する。
「む、無茶言わないでください! 庶民の私が貴族の令嬢のふりなんてできるわけないでしょ! すぐにばれるに決まってる!」
「なんだお前、役者なんだろ? 令嬢のふり位できないのか?」
「令嬢役なんてやった事ない!」
ロザリーが担当したのは聖騎士や王子、盗賊など、見事に男役ばかりだ。その体裁きを活かして立ち回りの激しい役ばかりをこなしていた。動きにくいドレスを着てにこやかに笑うなんて、そんな演技やった事がない。
「大体なんで婚約者まで騙そうとするんですか⁉ 協定に関係する事なら向こうにも伝えて延期してもらえばいいでしょう⁉」
「それがそういうわけにもいかないのだ。この脅迫の出所がわからない。下手をすれば、ベルクオーレン家自らが糸を引いている場合だってある」
「え、そうなんですか?」
「この縁談が潰れて喜ぶ人間はベルクオーレン家にもいるからな」
政治的な難しい駆け引きはロザリーにはわからない。ただ一つ言える事は、エルメルト家にとって今誰を信用し、誰を疑っていいのかわからない状態なのだという事。
「脅迫の出所がわかるまでの対処だ。さすがに影武者を本当に嫁がせたらエルメルト家の沽券に係るからな」
「当たり前です! というか、そもそも受けるなんて一言も――」
食い下がるロザリーに、カインはそれでも、と念を押した。
「無理を承知で頼みたい。娘に扮することが出来て、万一の時も身を守る事の出来る人間がどうしても必要なのだ」
「でも……っ!」
「私はかつて君の舞台を見た事がある。『聖騎士バイヘンの唄』、あの時の君は素晴らしかった。観客を一瞬で引き込み魅了する演技に威風堂々とした剣捌き、私も酷く感銘を受けた。あの芝居を見たからこそ、君に頼みたいと思ったのだ」
ロザリーは言葉に詰まる。
『聖騎士バイヘン』を演じていた時の自分。まだ父が生きていて、仲間と共に舞台に上がって脚光を浴びていた。劇団『サンヴェロッチェ』のかつての栄光――。
「本来無関係な君に、娘の代わりに危険な場所へと赴けというのは虫のいい話だとは重々承知している。見返りは十分に用意するつもりだ。君が属していた劇団『サンヴェロッチェ』の事も調べた。君は劇団の再建を目指しているそうだな?」
「……! どうしてそれを……」
「サンヴェロッチェは団長エドヴィン=ヴェロッチェ――君の父親のたゆまぬ努力により輝かしい功績を納め世間からも注目されてきた。だが、彼の亡き後団員の離反や鞍替えで一座は壊滅寸前。残されたのはエドヴィンの一人娘であるロザリー=ヴェロッチェ、君ただ一人だ」
ロザリーは唇を噛む。父が亡くなってからこの一年、ロザリーは劇団の崩壊になす術がなかった。全て自分の力不足。改めてその実情を突きつけられると屈辱で涙が出そうだ。だが、
「もしこの任務が成功し娘を守り抜くことが出来たら、私が『サンヴェロッチェ』を再興させよう」
ロザリーは驚きに目を見開いた。
「私が劇団の後続人となり、君が失った資産と仲間を取り戻して見せよう。君をもう一度、あの輝かしい舞台に戻してやることが出来る」
「……それは、本当ですか?」
「エルメルト家の名誉にかけて、必ず約束は守る。――だからどうか、どうか娘を……!」
カインの目が真剣で、娘を助けるために藁をもすがる想いであるという事がこちらにも伝わってきて言葉が出ない。
カインも、少々威圧的なエゴールでさえも、侯爵家という身分を取っ払って今はもう何も持たない小娘であるロザリーに深々と頭を下げる。
「どうかフロレンツィアを守って欲しい。ロザリー殿」
ロザリーは言葉に詰まり静かに目を伏せた。
『サンヴェロッチェ』を立て直したい。だが今の自分にはその力は無く、このままずっとあの下町で貧しい暮らしを強いられるのは間違いない。
「……」
この人たちが本当に劇団を立て直してくれるという保証はない。でも、ロザリーのかつての栄光が今、ロザリーをこの場に呼び寄せたのだとしたら。
――聖騎士と謡われた自分にこんなにも真摯に頭を下げられては。
「――わかりました」
ロザリーは大きく首を縦に振る以外なかった。
これが劇団『サンヴェロッチェ』の最後の団員ロザリーが、エルメルト家に仕える事になった経緯である。