閑話3
鶏が鳴くよりも早く起き、アンは装備を磨き上げる。
他の新兵は眠たそうに眼をこすりながらやっていたが、アンは昼間と変わらない目の鋭さで丁寧に愛剣を磨いていた。
「おお、新兵と思えぬ慣れた手つきではないか。それに早起きも苦ではないと見える。父御の装備を磨いていたのか?」
教官がアンの前で足を止めて感心しながら尋ねてきた。
がっしりとした体格と険しい顔、年を重ねた熟練の教官の前で他の新兵は縮み上がるが、アンは怖気づくこともなかった。
『クレメール嬢と過ごしていたからかな。あの方の常に湧いて出る自信が私にも作用したみたい』
アンはそう思うとますます勇気が湧いてきた。
眼光の鋭い教官と向き合い、丁寧に答える。
「父母はおりません。ここに来る前、早朝から洗濯婦をしていましたので、他の方よりはコツを掴みやすいのです」
『洗濯婦』の言葉に他の新兵は動揺したが、教官は面白そうに「ほう」と呟いた。
「街の洗濯婦がわしの眼光にひるまず堂々と答えるか。いやはや面白いな。……今の言葉に動揺した者よ。貴様らの中でわしに怯えず会話できるものがおるか? 騎士に必要なものは経歴ではない。そのことをよく覚えていろ」
教官の声に新兵は緊張した顔で返事をした。
ビクビクする彼らを一笑し、教官は官舎へと戻っていった。
教官の姿が見えなくなると、アンは一気に質問攻めにあった。
「君、すごいなあ。あんな恐ろしい教官相手に堂々としゃべれるなんて俺には到底まねできないよ」
「洗濯婦って衣類を洗うんだろ? なんで剣にも応用できるんだ?」
次から次へと押し寄せる声にアンはおどろいたが、一つ一つ答えていった。
「元々、物おじしない性格に加えて最近知り合った方がとても自信に満ち溢れているんです。多分、その方の影響ですね」
「たしかに衣類を洗っていましたが、汚れを落とすという点では手入れも違いがないんですよね。なので汚れを落とす手順を応用しました」
アンの話は新兵にとって知らないことばかりで彼らは目を輝かせてアンの話に聞き入る。
朝日が昇る頃にはすっかり皆と打ち解けて、帰りに飲みに行く約束までした。
楽しい気分をそのままにアンは寮に戻った後、ベッドに寝転がると今までのことを思い返していた。
ちょうど今頃は花を売りに街角を歩き回っていたことだろう。夜会やオペラで女性に花を渡すために、夜の方が売り上げが良いのだが、街娼と間違えられるのが嫌でアンは朝にしか花売りをしない。
偽ダニエル……イメリオはそれを良しとしなかった。
「朝より夜の方が稼げるんだから、さっさと売りにいけよ。危ない目に合うかもしれないといっても、逃げりゃいいだけだろ?」
そう言われても、アンはかたくなに拒んだ。
好きで好きでたまらないイメリオの言葉だったが、アンはそれだけは拒み続けた。
アンは自嘲気味に言葉を吐く。
「クレメール嬢に出会わなければきっと今もあの男に縋っていたままだっただろうな」
孤児のアンは物心をついたときから親を知らない。
その他大勢の孤児と同じように救貧院で育ち、いじわるな年上の孤児から虐めを受けて育った。
十五歳を過ぎると救貧院を出なければならず、アンは身一つで飛び出した。アンをいじめていた人間たちはそろって娼婦になったという。「羽振りのいいお大尽をみつけて妾にでもなってやるわ」と豪語していたが、噂で聞くとよくない病を貰ったというから、玉の輿には乗れなかったのだろう。
アンは女衒から声をかけられたが、彼女たちの二の舞は御免だった。
街を歩き回って働き口を探し、やっと酒場の給仕の仕事にありついたのだ。
酒場で働き始めて三か月がすぎたころ、質の悪い酔客に絡まれているところを線の細い紳士に助けられた。誰かに助けてもらう経験をアンは初めて経験し、そして人の優しさにアンはいままで張りつめていた緊張が一気に解れていくのが分かった。
ダニエルと名乗った彼はいつも優しかった。
アンの体調をいつも気遣い、夜道が危ないからと家まで送ってくれた。
一人で生きてきたアンにとって自分を理解して愛してくれるダニエルはまるで神様みたいな存在だったのだ。そしてそんな神様のためにならお金をいくら渡しても苦ではなかった。
アンは必要とされたかったし、もっともっと彼から愛されたかったのだ。
今だからこそそれが奴の手口だったと分かるが、もしクレメール嬢に会わないままだったなら嘘と気づいてもずっと奴の手のひらで踊り続けていただろう。
しかし、皮肉なことに彼の言葉を真に受けてクレメール邸に訪ねたからこそ今のアンがある。
「そう意味では信じて良かったのかもしれないな」
アンは喉を鳴らして笑う。
騎士になると決めた時から言葉遣いを男言葉に改めた。
不思議と身が研ぎ澄まされるような感覚になる。
イメリオの態度に始終おろおろしていた昔の自分とは大違いだ。
「イメリオ。すべてを投げ出すくらいに愛していたよ。そして、ありがとう。あの方に会わせてくれて」
アンは胸の中で溢れる言葉を一つ一つ紡いでいく。
今となっては憎らしい男だが、同時に感謝していることもあるのだ。
「私はずっと孤独で不幸の連続だった。誰も愛してくれず、誰も必要としてくれないと、いつも涙を流していた。だが、彼女に会ってようやくわかったのさ。私自身が一番私をぞんざいに扱っていたとね」
流言飛語にも屈しないベアトリスの気高さはアンの中に気付きをもたらした。同じ立場なら、アンは噂に怯えて泣き暮らしていただろう。
だが、彼女は怯まずに真っ向から戦う強さを持っていた。それは自分に自信を持っているからに他ならない。
だからアンは強く思うのだ。
誰かからの愛をひたすら待つのではなく、いっぱい褒めて、いっぱい労って、いっぱい甘やかして、自分を信じて愛し続ける。
そうすればきっと心から笑える日が来るだろう。
「大好きだよ。これからよろしくな」
新しい自分へ、心からの応援を込めて。