後編
ベアトリスが失恋してから一か月が過ぎた。
ばらまかれた悪評は鎮静化し、代わりに偽ダニエルのニュースで階級を問わず持ちきりだった。
どうやら偽ダニエルがあちこちの女性にベアトリスの悪口を吹き込んでいたために起きた騒動だったらしい。「俺はお前と結婚したいけど、傲慢な令嬢に振り回される可哀そうな俺」の構図を作り出し、同情を誘っていたのである。
ベアトリスは裁判官に「あの男のせいで婚約解消されましたの!!!」と泣きつき……ではなく怒鳴り込んで偽ダニエルがそう簡単に釈放されないように頑張った。
しかし努力もむなしく、
「お気持ちはわかりますが、私は刑法に則り裁くだけです」
とけんもほろろに却下されている。
一方、ベアトリスとダニエルの婚約解消の手続きは粛々と進んでおり、ベアトリスの表情は日に日に悪くなる。寝不足でクマができたベアトリスはまさに悪役面である。
さて、そんなベアトリスに客が訪ねてきた。
すらりとした手足、凛々しく引き締まった顔の美しい少年騎士である。
選ばれた騎士しかつけることを許されない青い勲章を胸に添えていることから、年に似合わずかなり実力があるらしい。
「いったい何の御用かしら?」
ベアトリスが聞くと騎士は恭しくお辞儀をした。
胸に手を当てて頭を下げる所作は洗練されて実に優雅である
「お久しぶりです。クレメール嬢。アンです」
高いが凛とした声で言われ、ベアトリスと付き添いのメアリーは目が点になった。
「え……えええ? アン? わたくしの知っているアンは可愛らしい顔立ちの可憐な少女ですわよ……?」
ベアトリスが戸惑いながら言うと、騎士はにっこりと笑った。
「はい、そのアンです。ダニエル様に拾われて騎士になりました」
ハキハキと言うアンは初めて会った時のようなオドオドした雰囲気はなく、自信に満ち溢れ、大きな目には芯の強さを感じさせた。
「そ、そうですしたの。それはおめでたいことですわ。何かお祝いをしなければ……と、そちらの勲章、たしか相当の武勲をあげなければ手に入らないはずですけれど?」
ベアトリスが戸惑いながら尋ねるとアンは思い出したように声を上げた。
「ああ、これはモンスターを退治したときのものですね。二週間前、人里が大型モンスターに襲われたので、それを討伐した褒美に頂きました」
「まあ、すごいですわ。騎士に入隊してそんなあっさりと倒せるものですの……?」
目を瞬くベアトリスにアンは屈託のない笑顔を向ける。
「元々素質があったようです。大隊長殿から天賦の才だとほめて頂きました」
「そ、それは何よりですわ」
ベアトリスは声が掠れる。
名前を聞いただけでも胸がかき乱され、平静を保つのがやっとである。
「おっと、うっかり話し込んで本題を忘れるところでした。クレメール嬢にお見せしたいものがありますので一緒に来ていただけませんか?」
アンの笑みは邪気がないが、有無を言わせぬ迫力があった。
ベアトリスがしぶしぶ頷くと、アンは流れるような所作でベアトリスをエスコートし、馬車に乗せた。
気まずい時間になるとベアトリスは思ったが、アンはモンスター退治のことを面白おかしく話してくれるのでベアトリスはまったく退屈しなかった。それどころか、久しぶりに笑えたのである。
「アンはお話し上手ですのね。こんなに笑ったのは久しぶりですわ」
「ご要望があればいつでもお話ししますよ。さて、到着しました」
アンはエスコートするために手を差し出した。馬車から降りるとそこは木々のにおいが立ち込めた郊外だった。意外に長い時間、移動していたらしい。
アンに連れて行かれたのは厩舎だった。
そこには艶やかな葦毛の美しい馬がおり、アンの姿を見ると甘えるように嘶いた。
「まあ。素晴らしい馬ですわね! こんな立派な馬をはじめて見ましたわ」
「シェンリン国原産の馬です。名はゴウユ。これに乗るとまるで滑空しているかのような気分になりますよ。よろしければ乗ってみませんか?」
アンの提案にベアトリスは一も二もなく頷いた。
ベアトリスは七歳のころから馬を乗り回しており、乗馬は大好きな趣味の一つなのだ。
「本当によろしいの? あとで怒られたりはしませんかしら?」
「大丈夫です。この周辺は馬場ですのでいくら走っても問題ありません。ただ森の中に入らないように注意してください」
アンは馬を厩舎から出してベアトリスの目の前まで連れてきた。見れば見るほど美しい馬にベアトリスは胸が高鳴る。
「うれしいわ。ありがとう!」
ベアトリスは喜び勇んで馬に飛び乗った。鐙を踏む感触に昔の経験がみるみるうちに思い起こされる。ベアトリスは手綱を取り、軽く引いて脚で圧を少しかける。馬はベアトリスの思う通りに駆けだした。
だんだんと速くなるスピードにベアトリスは嬉しくてたまらなくなる。もっと速く、もっと早くと脚で軽く圧をかける。
アンは遠くなっていくベアトリスの姿を見て小さく笑い、懐から小さな笛を取り出すと口にくわえて小さく吹く。
馬の聴覚は人間の数万倍良く、馬はアンの笛の音をしっかりと聞いた。
何も知らないベアトリスを乗せ、馬は森の中へと入っていく。
意図しない馬の行動にベアトリスは驚き、必死に手綱を引いて止めようとする。しかし、暴れ馬となったゴウユはベアトリスの指示など聞かず、振り落とされないようにするのが精いっぱいだった。
ゴウユは一気に森を駆け抜けて広い平原へと飛び出した。
森を突き抜けた先には白いテントがあり、人がちらほらいるのが見える。
『早く止めなければ激突してしまうわ!!!』
ベアトリスはぎりっと歯を食いしばり、手綱を力いっぱい引いた。ゴウユは嘶いて立ち上がる。ベアトリスは振り落とされそうになるものの、ゴウユにしがみついた。
荒々しい止め方であったが、ゴウユはそれ以上走らなかった。先ほどまでの暴走が嘘のように大人しくなり、今度は一歩もそこから動かない。
「な、なんなんですの!!! この馬は!!」
いきり立つベアトリスだが、ふいに足音に気づいて視線を向けた。すると幾人かの騎士に混じってダニエルが目を丸くして凝視しているのに気付いた。
「ダ、ダニエル様……? ということは……騎士団の駐屯地ですの?」
ベアトリスの顔はひきつる。
ダニエルは何も言わず、ただ無表情でこくりと頷いた。
ベアトリスは恥ずかしさに顔から湯気でも出そうだった。
『この運のなさは何なのかしら。また醜態をさらして恥の上塗りをしてしまいましたわ……』
遠い目になるベアトリスにひときわ立派な鎧の騎士が声をかけてきた。
「素晴らしい馬術ですな、クレメール嬢。ダニエルの奴が憧れるのも納得です。なあ、皆!」
「ええ本当に」
「それに聞いていた通りにお美しい。これはダニエルの奴が惚気るのもわかります」
騎士たちは口々にベアトリスをほめそやす。
「お、お前たち、いい加減うるさいぞ! それに団長。クレメール嬢と私はすでに婚約を解消したのです。おかしなことを言って迷惑をかけるのはやめてください!!」
ダニエルは怒鳴る。
ベアトリスはその声に心がだんだんと冷えていく。
ダニエルの言葉はどれもベアトリスの心を折る威力があり、もはやボロボロゾーキンである。
『こ、これ以上傷口に塩を塗らないで欲しいですわ……』
乙女心が粉砕したベアトリスの目に涙が浮かぶ。
涙を見せないようにベアトリスはダニエルに背を向ける。
するとダニエルの慌てたような声が耳に入ってきた。
「こいつらの戯言は気にしないで下さい。クレメール嬢。屋敷までお送りします。停車場までお連れします。しばらくご辛抱ください」
ダニエルがゴウユに乗ってきたとき、さすがにベアトリスは驚いて体が強張った。
しかし、ダニエルは降りることもせず、ゴウユに脚で圧を加えて指示を出す。
ゴウユは二人分の重さを物ともせず、ダニエルの指示通りに動き出した。
『好きな人との二人乗りは嬉しいですけど素直に喜べませんわ。しかも、婚約解消したとたんダニエル様は敬語で話されますし、心の距離がとても寂しくてたまりませんわ……』
トキメキと失恋の痛みが渦巻いてベアトリスの頭の中はごちゃごちゃになっていた。
そんなベアトリスの耳にダニエルの言葉が落ちる。
「クレメール嬢。……私は明後日からベルキュール地方へ赴任します。国防の要で王都にももう戻ってこないつもりです」
突然の言葉にベアトリスは頭が真っ白になる。
「どうしてですの!? まさか戦争の兆しが?」
ベアトリスの言葉にダニエルは否定した。
「いえそんなことはありません。国王陛下に地方に飛ばしてもらうようにお願しました」
ダニエルの声は淡々としている。
ベアトリスはダニエルの言葉に安堵しつつ別の不安を覚えた。
「もしかしてわたくしが王都にいるから地方に行くのですか?」
ベアトリスの声はいつになく硬くなる。
ダニエルはすぐに答えなかった。蹄の音と風を切り裂く音だけがベアトリスの耳に響く。
暫く間をおいてからダニエルが答えた。
「そうです。嫌いな私がいなくなればあなたはきっと元気になる」
ダニエルの言葉にベアトリスは涙が溢れそうになる。
『ああ、やはりダニエル様はわたくしが嫌いでしたのね。ええそりゃもう、わかっていましたわ……ん?』
ベアトリスは言葉に引っかかりを感じて思考を止め、確認のためにダニエルに尋ねた。
「ええ……と、少し耳が変になったようですわ。きっと聞き間違いですわね。嫌いな私。すなわち、ダニエル様はわたくしが嫌いで、ええっと元気になるのはダニエル様ということですよね?」
自分で言っていて悲しくなるが事実確認は必要である。
ダニエルほど優れた騎士を地方にやるのはもったいない。国難などで必要ならやぶさかでもないが、隣国とは仲が良く、むしろモンスターが横行する郊外の方が騎士の需要がある。
それにダニエルがベアトリスから逃げたいのであれば、ベアトリスが王都から離れればいいのだ。
ベアトリスがそう考えながら尋ねるとダニエルが変な声を出した。
「な、なぜそうなる!! クレメール嬢を嫌うだなんてそんなはずがない。なにしろ私は十年前からあなたに惚れていた!!」
間近で大きな声を出されてベアトリスは耳を押さえる。
しかし、言葉はしっかりと聞き取れた。
ダニエルは言い終えた後で慌てふためく。
「あ、大きな声を出して済まない。その、私の思いを誤解して欲しくなかったんだ」
「……いえ、とてもよく伝わりました」
ベアトリスの言葉はとても小さい。
なにしろいきなりのことなので体も心も驚いているのだ。心臓はうるさいほど鼓動を早め、胸はもうはちきれる寸前である。
そしてベアトリスの気持ちが最高潮になった時、一気に感情があふれ出した。
「わたくしもダニエル様が大好きです!! 世界で一番愛しています!!」
ベアトリスは負けじと大きな声を出した。
言い切った後の爽快感たるや、まるで五月の晴れの日のようである。
「ク。クレメール嬢が私のことを?! しかし、私と婚約してからあなたはいつも暗い顔で過ごしていたし、クレメール侯爵家からも娘が結婚を嫌がっているから白い結婚にしてくれと頼まれていたから、てっきり……」
ダニエルはうろたえながら言う。
片思いをこじらせすぎた彼はベアトリスの告白を素直に受け止めきれないのである。
「な、なんですってええ!!! お父様とお母様そんなことをしていましたの!? 初耳ですわよ!! それに暗い顔をしていたのではなく、男性が好きなクールビューティーを目指しておりましたの! ダニエル様に好いてほしくて頑張っていたのですわ!!」
ベアトリスの言葉にダニエルは虚を衝かれたように呆けた。
しかし、次の瞬間に笑い出した。
「なんだ……そうか。そうだったのか!!」
ふいにダニエルは手綱を片手だけで持ち、空いた腕をベアトリスの前に回し、ぎゅっと抱きしめる。きゃあと小さくベアトリスが声を上げるが、ダニエルは十年分の思いをこめて華奢な身体をかき抱く。
「愛している。ベアトリス。ずっと言いたかった」
ダニエルの言葉にベアトリスは心が温かいもので満ち溢れる。
土埃が染みついた団服の繊維の匂い、逞しい体温にベアトリスの動悸は一気に激しくなる。
「わたくしもですわ!!」
ベアトリスが答えるとダニエルが希望に溢れた声で言った。
「こうしちゃいられない。屋敷に行って婚約解消を取り消してもらおう!!」
馬のスピードがますます速くなるが、ダニエルにがっしりと抱かれてベアトリスに怖さはない。
結局、二人はアンのいる停車場をすっかり通り過ぎ、騎乗したままクレメール侯爵邸に行き結婚の承諾を得た。
驚く侯爵夫妻だが、自分たちの誤解で迷惑をかけたと謝って二人の恋を祝福した。
アンが馬を引き取るためにクレメール侯爵邸に着いたときには、使用人も集まっての盛大なパーティのようになっていた。
「おめでとうございます。クレメール嬢」
アンがお辞儀をする。
馬を受け取ってそのまま帰ろうとしたところを引き留められ、パーティに招待されたのである。
「ありがとうアン。あなたのおかげですわ!! それにしてもいつダニエル様とわたくしが相思相愛だと気付いたのかしら?」
「そうですね。もしかしてと思ったのは大隊長が偽者を殴り飛ばした時ですけれど、入団後、『私はクレメール嬢の側にいられないからお前が騎士になってあの方を守ってくれ』と言われたので確信に変わりました」
「まあ、ダニエル様がそんなことを?!」
ベアトリスが驚いた声を上げるとアンは楽しそうにほほ笑む。
「ええ。驚きでしょう? でもそれくらいあの方はあなた様のことを愛していらっしゃいます」
「嬉しいわ、アン。あなたのおかげで長年の恋が報われましたわ。本当にありがとう。感謝してもしきれなくてよ」
ベアトリスが満面の笑顔で言うとアンも微笑む。
「今回の計画は私だけじゃなくて騎士団全員が絡んでいます。なにしろ大隊長はクレメール嬢の名を呼びながら酔いつぶれていましたからね」
アンの言葉にベアトリスは恥ずかしさと嬉しさに真っ赤になる。
「それと、感謝しているのは私の方です。無礼な町娘の私を追い返しもせずに受け入れて下さり、こうして騎士という未来まで繋げて下さいました。本当にありがとうございます」
「あなたの実力ですわよ。それと、わたくしのことはぜひベアトリスと呼んでちょうだい」
「いえ、さすがにそれは……身分が違いますし……」
「アン、お願いですわ」
そう言いながら微笑むベアトリスにアンはついつい顔がほころんだ。
「光栄です。ベアトリス様」
身分違いであるが、アンとベアトリスは固い友情で結ばれた。
この二人を結び付けた偽ダニエル……本名イメリオだが、他の地域でも似たようなことをしていたため、その貴族の怒りを買い、どこかの炭鉱で身を粉にして働いている。高位貴族の中傷は極刑が妥当なのは確かだが、「本当のことを言ったから消された」などと言われたくないため、命だけは助かったらしい。
しかし、愛と友を見つけたベアトリスにとってはもはや過去のことで思い出すこともなかった。