中編
アンの家は木造の古びたアパートだった。今にも崩れそうな建物にベアトリスは血の気が引く。他の家も似たり寄ったりで、ベアトリスはこの国にこんな場所があるのだと己の無知さを恥じた。
ベアトリスが内心で自己嫌悪に陥っているのを知らないアンは深く頭を下げる。
「送って下さってありがとうございます。本当にご迷惑をおかけしました」
「お気になさらないで。わたくしもいい人生勉強になりましたわ。それではさようなら」
ベアトリスが言うとアンは再び深々と頭を下げた。
するとその時である。
「アン。どこに行ってたんだ!! 六時までに金を工面しとけって言っておいただろ!!」
と男の怒鳴り声がした。
ベアトリスが視線を向けると軽薄そうなひょろい姿の男が小走りに駆け寄ってきた。
黒い上着と白いシャツ、カーキ色のズボンを履いた彼はこの界隈にしては身なりが良い。
男はベアトリスを見ると鼻の下を伸ばした。
「お、この人誰? もしかしてメイドの職でも見つけてきたのか? さすがアンだな! ……にしても美人だなあ。俺の婚約者よりも数段別嬪だぜ」
軽薄そうな男はベアトリスを値踏みするように見る。
細い目が蛇のようにねちっこくて厭らしく、ベアトリスは寒気がした。
「……あなた、お名前は?」
顔をひきつらせながらベアトリスが尋ねると、彼は得意げな顔で鼻を鳴らした。
「ダニエル・ド・グランさ。グラン侯爵家の嫡男にして王立騎士団大隊長を務めているんだぜ。すごいだろ?」
ペラペラとしゃべる男の言い方にも内容にもベアトリスは腹が立って仕方がなかった。
このアホ面の男が大好きなダニエルの名前を騙っていると思うと腹の底から怒りが湧いてきたのである。
だが、聞きたいことが他にもあり、ベアトリスは怒りをなんとか抑えながら尋ねた。
「……あなたには婚約者がいらっしゃるの?」
ベアトリスの言葉に男は待っていましたとばかりにペラペラとしゃべり出す。まるで唇に蜂蜜でも塗られているかのように滑りが良い。
「ああいるさ。君も聞いたことがあるかもしれないが、ベアトリス・ド・クレメールっていう傲慢で性格の悪いブスだよ。あいつ、金で俺のことを買った気でいるんだ。俺の領地が飢饉で財政が傾いているからって、援助と引き換えに婚約を強制したんだぜ。酷い女だろ?」
男は同意を得ようとベアトリスに笑いかけた。しかし、その顔はすぐにベアトリスの視界から消えた。
後ろにいた本物のダニエルが偽者を殴り飛ばしたのである。
ひょろい体は華麗に宙を舞い、弧を描くように吹っ飛んだ。石畳に落ちず、ゴミダメに落っこちた彼は運が良いのだろうが、異臭を放つ生ごみまみれになっている。
「ひぃ……てめぇ。お、俺様にこんなことしていいと思っているのか!! 俺様は騎士団大隊長のダニエルだぞ!! 侯爵家の嫡男だぞ!!」
ゴミに埋もれながら彼は言う。
「そうか。奇遇だな。私の名前もダニエル・ド・グランだ。よくも私の婚約者を愚弄してくれたな。ただではすまさんから覚悟しろ」
ダニエルは珍しく大きな声を上げた。
ベアトリスはダニエルのその言葉に言い表せないほどの感動を覚えた。
ダニエルがそんな声を上げることができるのにも、ちゃんと文章になる言葉を言えたのにも、自分を婚約者扱いしてくれたことも嬉しかったのだ。
ダニエルはふとベアトリスの視線に気が付くと、急に狼狽え始めた。
「す、すまん。女性にこんな荒事を見せてしまうなんて騎士失格だ」
項垂れるダニエルにベアトリスは首を横に振った。ダニエルと会話ができたことがとても幸せだった。
「そんなことは良いのです。ダニエル様」
見つめ合う二人に、偽者のダニエルは真っ青な顔で震えていた。なにしろ、本物が出てきたのである。消されるかもしれないと怯えた彼はアンを呼んだ。
「ア、アン。お前は俺の味方だよな? お前の差し金で俺がダニエルを騙ったコトにしてくれ。そうすりゃあ俺は無事に逃げられ……ブフォ」
偽者の頬に思いっきりアンの平手打ちが飛んだ。
「ふざけんな!! あたしの金返せ!!!」
大きな声は華奢なアンに似つかわしくなかったが、とっても勇ましくてかっこいいとベアトリスは思った。
アンは髪のリボンをほどいて偽者の手を後ろで縛りあげる。もがく偽者を押さえつける手際は素晴らしいの一言に尽きる。
「ダニエル様。こいつはどこに突き出せばいいですか?」
「私が預かろう。裁判にかけて君に返金されるように手配する。それにしても素晴らしい腕力だな。何か武道の経験でもあるのか?」
「ないですよ。でも、洗濯婦ってすごい腕力要るんです。それで鍛えられたんじゃないですかね?」
アンの言葉にダニエルは楽しそうに笑う。
水を吸った衣類はとんでもない重さになる。それを大量に川まで行って洗うのは確かに重労働で、アンが偽者をふんじばれたのも頷ける。
ベアトリスはすぐに理解できなかったが、そういう世界もあるのだと初めて知り、またたくましく生きるアンを凄いとさらに思った。
四人は再び馬車に乗り込み、偽者は屋根の上に乗せて騎士官舎へと向かった。
偽者は牢屋にぶち込まれ、アンはメアリーとともに馬車に乗って帰路に就いた。
ベアトリスが帰らなかったのはダニエルが引き留めたためである。メアリーもいない応接間にダニエルとベアトリスは二人っきりである。
応接間はとても広く感じられ、緊張のためかベアトリスはカラカラに喉が渇く。
何か言わなければとベアトリスはプレッシャーを感じながら、言葉を選びきれないでいるとダニエルがポツリとつぶやいた。
「今日の君はとても快活だな」
『ひいいいいい!!!!! クールビューティーを演じるのを忘れてましたわああ!!!』
ダニエルの言葉にベアトリスは血の気が一気に引く。
アンと出会ってからベアトリスはクールビューティーの皮を被るのを忘れ、素で過ごしていた。大人しくもないわ、口数も多いわでケヴィンのいう『男性が憧れる女性像』とは全く異なる。
真っ青になるベアトリスだが、ダニエルは再び口を開いた。
「10年前と同じだ」
その言葉の衝撃にベアトリスは魂が抜けそうになった。
10年前といえば、ベアトリスは我が儘盛りで始終高笑いしていたモンスターなのである。試行錯誤してクールビューティーな女性に擬態したというのに、今日一日で化けの皮がはがされてしまった。
『うわああ……!! 私の人生終わってしまいましたわ。絶対に婚約破棄されてしまいますわね……。ああもう!!これもすべて偽ダニエルのせいですわよ!! 彼がダニエル様を騙ったりしましたから怒りで冷静を保てませんでしたもの。こうなればあることないこと裁判官に吹き込んで鉱山に最下級の奴隷として送り込んでやりますわ』
擬態が必要でなくなったベアトリスは偽ダニエルに鬱憤をぶつけた。もはや思考が悪役そのものだが、本来ベアトリスは清廉潔白な女性ではない。
ダニエルに相応しくあろうと必死で頑張って今の自分を作り上げたが、ベアトリスの恋路を破壊した偽ダニエルに慈悲を施す必要性を感じなかったのである。
心が闇に落ちかけているベアトリスにダニエルのさらなる追撃が襲う。
「婚約を解消しよう」
ベアトリスは頭を大槌で殴られたような衝撃を受けた。
そうなると思ってはいたが、いざ言われてしまうとショックで体中が震える。
大声を出さないよう、ベアトリスは唇を噛んだ。
「ああ、もちろん私のスキャンダルで解消するように双方の両親に言うから安心してくれ。葡萄の独占契約もそのままにする」
「……わかりましたわ」
ベアトリスが言うと、ダニエルは「馬車の準備ができ次第、君を呼ぶのでここで待っていてくれ。では失礼する」と言って応接間から出た。
ベアトリスは腹で号泣し、表面上はいつも通りのクールビューティーを装って迎えを大人しく待った。
暫くして見知らぬ騎士がやってきてベアトリスを丁重に案内した。
クレメール侯爵邸に着いたベアトリスは先に着いていたメアリーを見ると勢いよく抱き着き、その場で大泣きした。
「もう終わりですわあああああ!!!!!!」
ベアトリスの絶叫に他の使用人も心配してやってきたが、メアリーが気を利かせて一人で部屋まで連れて行った。
人払いを済ませた自室で、ベアトリスは倒れ込むようにベッドに顔をうずめて泣き叫ぶ。
その様子から、メアリーは大体のことを察して必死にベアトリスを慰めた。メアリー自身も、『わたしが素が出ていることを注意して差し上げていればこんなことには……!!』と後悔で胸がいっぱいである。
仲の良い主従は最終的には抱き合ってわんわんと大声で泣いた。
クレメール邸はベアトリスの号泣に戸惑うばかりだったが、侯爵の「とりあえずそっとしておこう。下手に介入して『お父様なんか嫌いよ』と言われでもしたら私は立ち直れない」という言葉で静観することになった。
「ああ、早くキャロラインが帰ってこないかなあ……。ハニーがいないと寂しいよ」
なお、奥方のキャロラインは領地の婦人会に呼ばれて留守である。
奥方にぞっこんな侯爵は妻が縫ってくれたハンカチをぎゅっと握りしめて窓から空を見上げた。