前編
ベアトリス・ド・クレメール侯爵令嬢は昨今、世間に悪名を轟かせる悪女である。
流れる噂はすべてろくでもなく、気に入らない仕立屋を王都から追い出したとか、誰それを陥れたとか、メイドを無意味に虐げたとかいう聞く人がみな顔を顰めるようなものなのだ。
父の侯爵は噂の出所を突き止めようと密偵をあちこちに放っているが、多すぎて火元の手掛かりすら見つけられない。
そしてそんな最悪な状態でベアトリスの婚約者が屋敷を訪ねたいと言い出した。
父侯爵は「すわ婚約破棄か」と焦ったのも無理はない。
というのも、婚約者の名前はダニエル・ド・グラン。
グラン侯爵家の嫡子で騎士団の大隊長を務め、若いながら才気あふれる彼は年頃の令嬢を持つ貴族から引っ張りだこなのである。
ベアトリスとダニエルが相思相愛だったのなら侯爵も心配などしなくていいのだが、二人の婚約は十年前にグラン家の良質な葡萄を独占するため、クレメール側が半ば強引に取り付けた政略結婚なのである。貴族である以上、政略結婚は珍しくもないが、この二人は義理の付き合いすらこなさなかった。
贈り物のやり取りは疎か、手紙すら互いに送り合わず、会うにしても式典などの公式な行事にパートナーとして同伴するくらいで一言も交わさない。
ベアトリスとダニエルの不仲説は社交界では暗黙の了解で、腫れ物に触る扱いである。
クレメール侯爵は天を仰いだ。
「あああ……とうとう婚約破棄を言い渡されるのか……。幸い、グラン家からは何があっても葡萄の独占契約を継続すると確約を貰っているが、ダニエル殿がメローデ伯爵とかワイン醸造所を持つ貴族と結婚でもしたらそれもどうなることやら……」
将来を悲観し、クレメール侯爵はうめき声をあげながら頭を抱える。
ベアトリスはそんな父親を冷ややかな目で見たあと、ダニエルが待つ応接間へと向かった。
ベアトリスが応接間に入るとダニエルが鋭い眼差しでベアトリスを見る。
彼は立ち上がると、つかつかとベアトリスの正面まで近寄った。
向かい合わせの二人はしばらく無言だったが、口火を切ったのはダニエルだった。
「噂は本当か?」
ダニエルの言葉はいつも単刀直入で用件のみである。
「いいえ」
ベアトリスも端的に答えた。
するとダニエルは何も言わず、そのままベアトリスを避けて扉から応接間を出て行った。
残されたベアトリスは相変わらず無表情だったが、ダニエルの靴音が聞こえなくなると、倒れ込むようにソファに座る。
様子を窺っていた専属メイドのメアリーが慌てた様子で部屋に入ってきた。
「お嬢様、大丈夫ですか?」
「……メアリー。やっぱり、ダメだわ。ダニエル様を前にするといつも緊張で言葉が出なくなるわ」
ベアトリスは額に手を当てて、苦しい胸の内を吐露する。
「今日こそはちゃんとお話ししたいと思っていましたのに、何の話も出来ませんでしたし、手縫いのハンカチも渡せませんでしたわ!!」
ベアトリスは悔しさに唇を噛みしめながらハンカチを握りしめる。
政略結婚とはいえ、ベアトリスは十年前に親から紹介されたダニエルを一目見て気に入ってしまったのだ。それまでは勝気で我が儘な性格だったが、ダニエルに釣り合いたい一心でベアトリスは慎ましやかな女性であろうと務めた。
従兄弟のケヴィンに「男性はどういった女性を好むか」を根ほり葉ほり聞き、彼が解放してくれと涙を流すまでベアトリスは理想の女性像の研究に勤しんだ。
こうして出来上がったのが『クールビューティーなベアトリス』である。
これは凛々しくてかっこいい女性が好きなケヴィンの趣味なのだが、ベアトリスはこれこそ一般男性が好む女性像だと勘違いした。
もちろん身近に恋愛の猛者がいればベアトリスを諫めでもしただろうが、二つ年上のメアリーも、仲のいい友人たちも知識が全くなかったので、ベアトリスはクールビューティーを極めることになったのだ。
元々勝気な顔つきのため、無表情になると迫力が倍増するのだがベアトリスは「これでダニエル様に好いていただけるわ」とご満悦である。
こうして理想の女性像になったベアトリスだがダニエルに会いに行くことはなかった。
なにしろケヴィンによると「女性は近寄りがたい雰囲気があればより好ましい。動かざること山のごとし!男が来るのを待っていて欲しい!」というではないか。
ベアトリスは大好きなダニエルに会いたいのも手紙を出すのも我慢した。
そんな中、ようやく屋敷に来てくれたと思ったら一言で会話が終了である。ベアトリスが悔しがるのも無理はないだろう。
もし、ベアトリスの本心を彼女の母が知ったなら「くよくよ考えずに手紙を送るなりすればいいじゃないの」とアドバイスをしただろうが、ベアトリスがダニエルに対してあまりにも冷たすぎるので「この子はよっぽどこの結婚が嫌なのね。ウチの家業のことがあるから結婚を白紙にできないけれど、白い結婚をあちらの奥様に打診しましょう」と違う気を回しているのである。
家族にも誤解されまくったベアトリスに更なる不幸が訪れる。
ある日、クレメール侯爵邸の門前で一人の娘が大声で騒いだ。
「クレメール嬢! どうかダニエル様を解放してあげてください。金の力であの方を苦しめないで!」
もちろん門番は騒ぐ彼女を止めようとしたのだが、テラスからちょうど騒動を見ていたベアトリスはメアリーに頼んでその娘を連れてこさせた。
応接間ではなく、ベアトリスは自分の部屋に貧相な姿の娘を迎え入れた。
つぎはぎだらけの古びたドレス、癖のある亜麻色の髪は傷んでおり、満足な手入れすらされていない。指先が酷く荒れており、あかぎれから血が滲んでいた。
しかし、そんな薄汚れた姿と逆に顔かたちは整っており、春の庭が似合いそうな愛らしい見目をしている。
娘は門前の騒動が嘘のようにここに来るまで大人しくしていたが、ベアトリスを見る目は憎悪に溢れていた。メアリーはあまりの無礼さに怒鳴りつけようとしたが、ベアトリスはそれを手で制した。
「ようこそ、お嬢さん。クレメール屋敷へ。わたくしはベアトリス・ド・クレメールよ。あなたのお名前は?」
ベアトリスが尋ねると娘は一瞬、ぎゅっと唇を噛んだ。
そのあと、血のにじむ唇を開いてドレスの裾をつまんでお辞儀をした。
「アン・ユーベルです」
「そう、ところであなたが話していた内容に興味があるわ。詳しく話してちょうだい」
ベアトリスが言うとアンは戸惑った顔でベアトリスを見たが、すぐに覚悟を決めたように顔が強張った。
「はい!」
アンはよくとおる声で答えた。
もはやほとんど喧嘩腰でアンは話し始める。
「私のお話というのはダニエル様との婚約破棄です!! あの方はあなたとの婚約が苦痛でしかないんです!! 没落寸前のグラン家をクレメール家が援助をするための婚約なのは知っていますが、せめてダニエル様をいたわってあげてください。借金を返済するためにあの方は危険な任務にも志願して死にかけたこともあるんですよ!!」
アンは悲鳴のように叫ぶ。
その声はあまりにも悲痛で聞いているこちらですら胸の痛みを覚えるものだったが、どれもこれも初耳である。
混乱したベアトリスはめまいがした。
「ちょ、ちょっとお待ちなさい。グラン家が没落寸前ですって? そんな話は聞いたことありませんわよ?」
ベアトリスが言うとアンは一瞬目が点になる。しかしすぐに言い返した。
「ええ!? グラン家への援助を条件にクレメール家のご令嬢が無理やり結婚を強制したともっぱらの噂ですよ!! その話は下町にだって広がっています!!」
自信満々にアンは言うが、ベアトリスは首をかしげるしかない。
「……むしろ、グラン家の方がわたくしの家よりお金持ちですわよ?」
ベアトリスが混乱したまま言うとアンはまたまた目を点にする。
「そ、そんな……。でも、ダニエル様がおっしゃったんです。婚約者が毎日のように金銭を要求するから、自分はモンスター退治などの危険な任務に就いて金を稼がないといけないって……」
アンの声から段々と迫力がなくなり、代わって言いしれない悲しみが言葉に織り込まれていく。
「け、今朝……。ダニエル様がモンスター退治に出かけられたんです。もう二度と帰ってこれないかもしれないって、わたしにこのボタンを下さいました。ダニエル様が死んでしまうかもしれないって思うと私……私……!!」
アンはわあっと声を上げると、その場にうずくまって泣き出した。
ぽろぽろと大きな目からこぼれる涙は止まる気配がなく、メアリーがあわててタオルをアンに渡した。アンは「ばりがどぶございまずう……」とくぐもった声で礼を言い、またわんわんと泣き出した。
アンが泣いている間、ベアトリスは痛む頭に手を当てながら、彼女の言葉を整理していた。初対面だが、この娘が嘘をついているようには見えない。
しかし、グラン家が没落寸前だなんて寝耳に水な話であるし、事実だとしたら連座で没落する貴族が大量に発生する。
仮にダニエルが金に困っていたとしても、一大穀倉地帯を有する彼の領地なら財産なんてすぐに作れるだろう。
「ああもう!! 悩んでいても仕方がありませんわ。直接、ダニエル様に問いただしに行きますわよ!!」
本来のベアトリスは大人しくも慎ましくも、ましてやクールビューティーでもない。
過激で苛烈、そして我が儘なのである。怒り心頭に発した彼女は猫を被ることを忘れた。
そしてメアリーも同じく、目的にのみ集中し、主人の化けの皮がはがれていることに気が付かず、同じような意気込みで返事をした。
「わかりましたお嬢様!! すぐに準備をいたします!!」
メアリーはベルを鳴らして人を呼び、馬車の手配とベアトリスのドレスの準備をした。
「それと、アンという娘をお風呂に入れて適当にドレスを見繕ってあげて。こんな姿のまま連れて歩けないわ」
ベアトリスが言うとメアリーはすぐに人を呼んで泣き崩れているアンを引っ立てて行った。
すべての準備を終え、馬車に揺られて騎士団官舎へ着いたのは夕方くらいになっていた。
門衛はベアトリスの来訪に目を見開いていたが、戸惑いながらも素直に中へ案内してくれた。
ベアトリスは楚々とした青いドレスを着ながらも、濃い金髪と目力のおかげで大層目立ち、道行く騎士が足を止めた。
アンはめそめそと泣きながらピンクのドレスで後に続く。ベアトリスに泣かされた可憐な少女の図だが、ベアトリスの堂々とした態度に誰も何も言わなかった。
ベアトリスは官舎の貴族用の応接間に通された。
革張りのソファに腰を掛けてダニエルを待つ。
隣のアンはメアリーから貰ったタオルを顔に押し当て、ジュビビーと鼻をすすった。
五分も経たないうちに、慌ただしい靴音がしたかと思うと扉が勢いよく開き、息を切らせたダニエルが入ってきた。
「ベアトリス嬢……!!……お待たせした!!」
まだ荒い息遣いでダニエルが言う。
「そんなに待っていませんわ。お気になさらず」
ベアトリスが答えるとダニエルはほっとした顔になる。
しかしすぐに鋭い顔つきになってベアトリスを見る。
「用は?」
いつもどおり短い言葉で会話が始まる。
ベアトリスは内心落ち込みながらも平然とした顔で答えた。
「この娘をご存じ?」
ベアトリスがアンに目線をやって言うとダニエルは首を横に振る。
「初対面だ」
ここでベアトリスはようやく肩の緊張が解ける。ダニエルを疑っていたわけじゃないが、何らかの形でダニエルが巻き込まれているかもと不安だったのだ。
「アン。この方を知っているかしら?」
ベアトリスがアンに尋ねると、アンはタオルから顔を離してパチパチと瞬きをした。
「いえ、知りません」
はっきりと答えるアンにベアトリスはあまりの嬉しさに高笑いしたい気持ちでいっぱいだった。
「オーホホホホホ!!! そうですわよね!! アン。よいですか? よーくお聞きなさい。この方こそ、ダニエル・ド・グラン様ですわ!!」
ベアトリスの言葉にアンは声を上げて驚く。
「ええっ!!? わたしの知っているダニエル様とは違います!! この方は偽者です!!」
さすがにその言葉でベアトリスはいらだった。
「この方がダニエル様で間違いありませんわ!! ほら、右胸に百合と鷲の紋章がありますでしょ? グルーブ砦の山賊を退治した褒美に陛下から頂戴した唯一無二の勲章ですのよ!!」
大きな声で怒鳴るベアトリスにアンは負けじと反論した。
アンは首にかけたペンダントを外してそれを掲げて見せた。
「こ、このペンダントこそわたしのダニエル様が本物という証です!! ほらここに、グラン家の紋章が彫られていますもの!!」
アンが手に掲げるペンダントには確かにグラン家の紋章が彫られていた。
ベアトリスが何かを言うまでもなく、ダニエルがそのペンダントをひょいと掴み上げてまじまじと見つめる。
「これは我が家が卸しているオリーブオイルの瓶の蓋だな。我が家の紋章の上にオリーブの実のマークがあるだろう? 加工してペンダントにしているが蓋で間違いない」
ダニエルの言葉にようやくアンは反論をやめ、大粒の涙をこぼした。
「そ、そんなぁ……。ダニエル様のために一生懸命働いたのに……」
アンはあかぎれの手でしゃくりあげながら泣いた。
「もしかしてあなた、その偽者ダニエル様にお金をあげていたの?」
ベアトリスが尋ねるとアンは唇を噛みしめながらこくりと頷いた。
「私は酒場のウェイトレスをやっているんです。ダニエル様……あ、え……と、偽ダニエル様は、私の勤め先の常連さんだったんです。私が質の悪いお客さんに絡まれているとき助けてくれたのがきっかけで仲良くなりました。お金が足りなくて家がつぶれそうって言うので、花売りと掃除婦、洗濯婦の仕事もやってお金を工面したんですよ……」
大きな目がさらに潤む。
顔を覆う彼女の指はとても痛々しく、その仕事が過酷であることを示していた。
黙っていられなくなったメアリーが口を開いた。
「あなたは別に婚約者でもなんでもないわけでしょ? 恩人だからってそこまでする必要あるの?」
「必要がないのは分かっています。でも、家がつぶれると家族がばらばらになってしまいます。私は彼にそんな思いをさせたくなかったんです……」
アンは声を震わせた。
それ以上は語らなかったが、アンはきっとこの場にいる誰よりも家族の大事さを知っているのかもしれない。
ベアトリスは隣に手を伸ばし、アンの亜麻色の髪を撫でた。
「話はわかりましたわ。ところで、わたくしはその偽者に報復しようと思います。あなたはどうしますか?」
ベアトリスの言葉にアンはがばっと起き上がる。
「報復というか、お金返して欲しいです!!!」
泣きながら鼻息荒くアンは言った。
「素晴らしい意気だわ。偽者が分かり次第知らせますわね」
アンは深く頭を下げた。
「ありがとうございます。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。お借りしたドレス、洗濯してお返しします」
「まあおほほ。特に思い入れのあるものではありませんから、差し上げますわよ」
ベアトリスが言うとアンは再び深くお辞儀した。
「生まれて初めてこんな素敵なドレスが着られました。ありがとうございます。本物のダニエル様も申し訳ありませんでした」
「……」
ダニエルは首を横に振った。
無口な彼らしいしぐさである。
「家まで送るわ。一緒に馬車で行きましょう」
ベアトリスが言うとアンはびっくりしていたが、心細かったのだろう。嬉しそうな笑顔を見せた。
ベアトリスとメアリー、そしてアンの三人で馬車に乗りこむはずだったのだが、ダニエルが小走りに近寄って自分も行くと言い出したのだ。
「別に構いませんけど、お仕事は大丈夫ですの?」
ベアトリスが尋ねるとダニエルは頷いた。
席順はアンとメアリーが隣同士、ダニエルとベアトリスが隣同士になった。なんとなく気まずいながらも、すぐ隣にダニエルがいるということにベアトリスは胸が高鳴った。赤くなる顔を見られたくなくてベアトリスはずっと窓の外を見ていた。