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呼応  作者: 師走
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9

「ねぇ、そこのお姉さん。少しお話ししませんか」

夜の商店街で出会った背の高い女性へ、前に回り込むようにしながら話しかけると、彼女は垂れた髪を掻き上げつつ気怠げにこちらを見た


ハッとするような美人だった


上向きに反り返った睫毛が意地らしく伸びている

その内側には、深い茶黒の双眸がこちらに視線を注いでいた


頬はややこけて細い顎に至るまでスラリと滑っていた

服から匂う強い芳香剤の香りは脳内を激しく掻き乱すほどで

真っ赤に光る口紅は官能的にそこのみ浮き上がって見え、私はもう少しでそこへ飛びつきそうだった


遠くで見えた時よりもよほど綺麗な顔立ちだったので、どぎまぎしていると、彼女は物も言わず私の脇をすり抜けてさっさと歩き出していた


やはり、これほどまでに美人ともなると、相当ナンパもされているだろうし、場数を踏んでいるのだろうなぁ


毅然とした拒絶の仕方に対して私はそう思いつつ、けれどもこのまま逃がすには惜しくて追いかけた


「お姉さんお綺麗ですね。これ冗談じゃないですよ。マジでそう思います」

カツカツと鳴るハイヒールの音は規則正しく、私に言い寄られてもそのリズムは一向崩れなかった


私はぴたりと彼女の横について歩き、笑いかけながら取り止めもない話を思いつく限り言った

昨今はここらもひっそりしましたね、2年前なんかもっと人がいたはずなんですけれどね、ぼちぼちこれから増えるんでしょうね、その時が危ないんだけどなぁ。


その女性はもう目も合わせてくれなかった

普通ならとっくに心がくじけてもおかしくはないが、私はここで諦めようとは思わなかった

とにかく興味を持ってもらうためなら、あらゆる手を尽くそうと既に決意していたのだ


「僕ね、実は刑事やってるんですよ。見てくれはこんな軽々しい男ですけどもね」

服の裏側に留めてある胸章をちらりと見せて私は切り出した


夜遊びをしている中で、自分の職業を語るのはそのままリスクである

こういう業務上の秘密を漏らした時に感じる微細な痛みは、けれど他者からしてみると思いがけない刺激となって気を引くことができるものだ


だが、この女性に限っては私のそんな告白も全く意に介さないようで、何処か目的の場所へ進み続けている

そこかしこにある居酒屋へ寄るでもなく、また人を待っているのでもなさそうだった

つまり、ツレがいないことは、彼女がそれを言い訳にしないことからもほとんどはっきりしていた


この様子からして、仕事終わりに酒でも引っかけに廻ろうとしていたところを、私に絡まれて帰ろうとしているのだろう

罪悪感がないでもないが、その美貌が悪い、と私は自分に言い聞かせたいくらいに彼女に惹かれていた


「あなた、今まで刑事なんて人間に会ったことがありますか?胡散臭い連中ですよ。何せ人の言うことはまず疑ってかからなきゃいけないんですからねえ」


彼女は私をひたすら無視しているが、だからと言って話を遮ることもしなかった

小さな耳たぶについた銀のぶどうに似た形のピアスは私に向けて光っている

白々しい表情を取り繕っていても、実は私を気にしているのかもしれない、と楽観的に思った


私は不意に威勢よく昨日の取り調べの様子について話をした

それはつまりこのような出来事だ


¥¥

私は部屋の中であっちを歩き、こっちを歩きした

そして立ち止まって、椅子に縛り付けられている青年へ

「君は昨晩8時ごろにあさひスーパーの前にいただろう?」と訊いた

「そのようですね」と彼は応えた

返答を思いがけず早くにもらったことに満足して私は鼻息を漏らし、またしばし部屋を歩き回った


「……そしてその時、向こうから来る一人の中年女性に出逢ったんだね?」

「そのようですね」

「彼女の顔はこんなだったろう」


ポケットから取り出した写真をぺろりと青年の前に掲げてみせると、彼はすぐに頷いた


「彼女は夕飯の買い出しに出かけていたんだ。袋の中には卵やらニンジンやらが入っていたろう?」

「…そのようですね」

「君とは面識がなかったんじゃないか?」

「そのようですね」

「ふうむ」


私は首を傾げて考え込んでいた

それは、遠い昔に置き去りにしてきたはずの明るい思い出を今更引っ張ってくるような苦労を伴って、じんじんと頭に響いてくるタイプの思考である


「君は…、嫉妬したんだね。多分」

私はやっと口を開いた


「向こうからやってきた一介の主婦に、家庭的な暖かさでも見出したんだろう。いやはや、君の暮らし振りは貧相至極なものらしいからねえ」

「そのようですね」


今度こそ、私はしっかり両足を止めた

一旦の結論はついたのだ


「で、君はガムシャラに彼女を突き飛ばしたわけだ」

「そのようですね」

「よほどひどく押し倒したんだよ?卵が全部潰れていたんだ。12個も!」

「そのようですね」


青年は俯いてただ私の質問に同意していた

しかし実際彼は私のことなど頭になかったのかもしれない

あまりに同じ言葉を反芻するもので、唾液が唇を滑り、糸を静かに引いて膝へ垂れた


「そしてまた、君はそこで止まれなかったんだね。一度手をつけてしまったんで、それで自分でパニックを起こして彼女を痛めつけたのだ」

「………」


私はじっと青年の顔を見て待っていた

やがて彼がぽつりと「そのようですね」と寝言のように呟いたのを聞いてから、頷いて話を続けた


「殴ったのさ。凶器もないから」

「そのようですね」


「しかし、あんなに顔をベロベロにしてしまう必要があったかな」

斜め上を向いてため息をつく

何かが違えば何かが変わっていたろうという無責任な願望を抱きながら


すると、突然青年は椅子をガタガタと激しく揺らせた


「そのようですね、そのようですね!そのようですね!そのようですね!!!」

絶叫しながら踏ん張り、縛られた椅子ごと前屈みになって立った

それからうさぎ跳びでもするかのようにドアへ向かって前進を始めた


が、すぐにバランスを崩し、前のめりに倒れた

手が使えないので身を守ることができず、青年は顔を強く床へ打ちすえてしまった


鈍い音がする

電球は真っ白に部屋全体を照らしていた

無機質で画一的な箱形の空間へ、そのドアはひび割れたように存在している

それにはしっかり鍵が掛かっていて、銀色のドアノブをたとえ引いたところで、微動だにしないだろう


呻きながら青年は顔を上げた

左の鼻から血が流れていた

唇も切ったらしく、ペッと紅の混じった唾を吐く


それでもなお、這いつくばって進もうとしていた

私はその様子を呆気にとられて眺めていた

¥¥


「どう思います?こんなことがあったんですよ」

いつしかアーケード街は途切れて、車通りの多い道路沿いの道になっていた

横断歩道で今しがた赤色に変わった信号を前にして立ちつくす


止まっていた車がブルブルとエンジンを鳴らして発進をしていく

運転者は皆冷たく前を向いて、こちらに顔を向けることはない

ライトも、斜め前方までを照らしているが、真横にいる私にまでは光を届けない


後ろから足音が迫ってこない

歩行者は私たち以外いないようだった


そして私は、しばし黙ってその取り調べの流れを再び初めから思い浮かべていた


「あなた、昨日もそれについて話してたけど、全然中身が違うじゃないの」

突然発されたその言葉で、私は現実に引き戻された


「え、えっ?」

「昨日と話が違うって言ってるの」

彼女は前を向いたまま繰り返した


「あの、今まで僕、あなたとお会いしたことありましたっけ」

慌てた口調で聞くと、はぁ、と彼女はため息をついて「これで何度目だと思ってるの」と言った


ぐわん、と頭を揺らされたように感じた

どういうことだろうか。今まで私はこの女性と何度も会っていたとは。


彼女の横顔を見つめて、これと同じ顔の人を知っていたかと記憶の引き出しを探ってみたが、一向に当たらなかった

というより、こんな美人と以前に知り合っていたら、忘れるわけがないじゃないか!


その時私は、これが私から逃げるための口実に過ぎなかったことに気づいた

いつの間にか私は暗い路面へ目を落として周りをよく見ていなかったのだ


急いで顔を上げ、彼女の姿を探した

だが、思いがけず彼女は私の横から全く動いておらず、むしろ狼狽している私を観察していた


「そ、それは本当のことですか」

ますます混乱しながら私が聞くと


彼女は「当たり前じゃない」と言い、

続けて「昨日あなたが言っていたのは、そんな突拍子のない話じゃなくて、黙秘ばっかりしている青年が、『君の暮らし振りは貧相だからね』と皮肉っぽくあなたに言われた時にだけ、『そのようですね』って笑いながら返事をしたってことだったけど」と解説した


私は唖然とした

そのような覚えは一切なかった


青に変わった信号が、点滅してまた赤に染まる

ひっきりなしに行き来する車たちは流れが止まって、後ろのランプが一気に赤々とする

彼女は肩のあたりで提げていた鞄を、重そうに揺らして持ち直した


「どういうことだろう、僕は……、全くそんな覚えがない…」

正直に私が呟くと、彼女はさらっと「さぁ、忘れたんじゃない」と言った


「そんなことはない!君が、…あなたが嘘をついているんじゃないか?」

そうとしか考えられなかった

何しろ私は、その取り調べの情景さえありありと浮かべられるのだから


彼女は少し口を歪めた

そして穏やかな口調で「あなたは自分の中でなくなった記憶を、勝手に想像して補ってるだけだと思う。試しにその、取り調べ相手の青年の顔について思い出してみたら」と言った


なんだ、そんな簡単なこと。彼は、彼は……


青年の輪郭が見える

髪の毛、鼻筋、着ている青と黒の縞の服。

だが、彼の具体的な表情はぼんやりしていた


「いや、違う!ちょっと待って!」

私は誰にともなく叫んだ


一瞬、イメージが結びつきかけたように思えた

だが、それまでのことで、またその顔はのっぺりした肌色に変わる


なぜだ、なぜだ…、割れた卵、あの主婦!青年の鼻血!!


さまざまな情報が錯綜した

そのどれでもいい、私の記憶を呼び覚ましてくれるのであれば………っ


私は体を固めて、ピクリとも動けなかった

それは、全てのその情報が、文字でしか頭に浮かんでこないことを悟ったからだ


私はこう思った、彼はそう言った、彼はそういうふうに動いた。

それまでだったのだ


どんなに必死になっても、『青年』という字だけが嘲笑うように頭に浮かぶだけだった


「そんな…、馬鹿な……」

うなだれると、彼女は「でしょ?」と言った


「私が昨日聞いたところでは、その青年は目がぱっちりした、短髪の子らしいけどね。それ以上のことは言ってなかったと思う。あ、あと緑のジャージを着てたんだっけ?」

「………」


彼女が嘘をついているとは考えられなかった

事実、私は昨日のことについて何一つ思い出せていないのだ

今までは、思い出せている気がしていただけだった……


けれど。


「でも、私が、そんな…、一日前の記憶すらなくすような人間だったのなら、どうして自分が刑事だって分かるんだ!どうしてこうやって喋ることができる?いつから私は記憶を失うことになったんだ?私は……、そんな病気になっていたならば、もっと早くに多くのことで支障が出て、それに気がついてたんじゃないのか?!紙にでも書いて、その病気のことだけは忘れずにいるのが筋だろう!違うかい?!」

錯乱したまま怒鳴り散らすのを、彼女は薄く微笑んで見つめていた


「いや、おかしい…。私は、だって今まで、だってそう、今まで上手く生きてきてるんだ。そうだよ、そうだ、その説明がつかないじゃないか……」

「だって、それだけじゃないんだもの」


髪を掻きむしっていた私は、そう言われてぼんやりと頭を起こした

彼女は、どこか楽しげに、また憂鬱に、私を哀れんでいるような笑顔を保っていた


「それだけじゃない、とは……?」

一言一句を確かめるようにゆっくり聞くと、彼女はほっと短く息をした


「それはね、あなたがそんな体質に変わっているのも、そしてそれを私が知っているのも、全部創られたことだからよ…」

「創られた、こと?」


意味が分からない、というふうに私は首を振った

すると彼女は、私の顔の真ん中に、すっと人差し指を伸ばして、それから斜め後ろの夜空を指した


「………?」

私はそれを目で追ったが、そこにはいつもの真っ暗な空が、ビルとビルの狭間で星もなく広がっているだけだった


「…あそこにね、いるの」

ぽつんと、彼女が口にした


「いる?……………何が?」

「ワタシが」

「……………」


何と言い返してよいやら分からずに、私はただ口を半ば開いて空を見続けた


「……なんでもできるのよ。ワタシは…」

「なん…、でも?」

「そ」


彼女は確信に満ちた言い方でそう言った


すると、それを証明するかのごとく、私に髪が引き上げられるような違和感が走った

知らず知らずのうちにえずいて、腹がゴキュゴキュとうねった

そしてまた、体がみるみるうちに枯れた木のようなやつれた茶色を帯び出して、指先から粉に変わって崩れ出した


「あ、あの、これ…」

引きつる声で言いながら彼女の方を見ると、彼女は静かにただ私の方を見ているばかりだった

私は彼女へ腕を伸ばしかけたが、とうとう脚が消失して、体全体が横へ倒れて路面と衝突し、一気に散らばった



「………。」


体だったはずのその粉が湯気を立ててなくなっていくのを、彼女は最後まで見届けていた


ブゥン、とそばを抜ける車の音が、いやに耳についた

運転している人々は、やはり前しか見ないので、刑事が一人この世からいなくなったところで、それに気がつくこともなく、各々の家へ帰っていく


すっかり何も見えなくなってから、彼女はもう一度、ワタシがいるであろう夜空を眺めた

それから試すように「ねぇ、あの人を消したんだもの。どうせ私のことも同じようにするんでしょう?」と言う


対してワタシは「さぁどうだかな」と含み笑いをした

「君はさも世界のことわりを理解したように思っているかもしれないが、それを考え得た時点で私が気まぐれに君を動かして、真理の一端に触れさせただけなんだからね。それで…。そうだな……」


彼女はがっくりと膝をついた

抗いようのない力に押しつぶされたのだった

そしてそのまま膝が腹へくっつき、顔もへそへ向かってじりじり曲がりだし、ついには首がバキリと折れた

口からカヒュッという音が漏れ出る


そんなふうにして、彼女は体の中心に向かって圧縮され、圧縮され……

そして一匹の魚になった


魚となった彼女は、まるでこの世界全部を恐れるように、密かに尾を揺らめかせて空中を頼りなく泳いで行った











































☆☆☆

そうしてまた、ワタシは手を止めて考えるのだ

ワタシを操ってこんな物語を書かせている「わたし」は、一体どんな顔をしたヤツなのだろうかと……


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