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差し込んでくる窓の光が
顔を照らしてくるようじゃないか
僕はつい今しがた断片的な夢を観ていたはずだったのに
大きな腕に抱き起こされるように
上体を布団から脱して、目をこすった
窓の遠くは青々とした海がある
朝日を照り返して波がうねっている
伸びとあくびを同時に行って
しばらくぼんやりする
部屋中が薄明かりに包まれ
勉強机にはやりかけのノートが置いてある
そのそばには頭蓋骨がある
ぽう、と汽笛が鳴るので再び窓を眺める
昨夜のうちにカーテンを閉め切っておいたほうがよかったかしら
白い薄いカーテンに、緑の分厚いカーテンを、二つ重ねて。
でも、それでも意味をなさなかったかもしれない
黒い煙を吐き出しながら大きな貨物船が出発する
すぐに彼方へ到達して、戯れに翔んでいるカモメと並ぶくらい小さくなるだろう
それから見えなくなって別の陸地へ向かうのだろうけど
詳しいことは僕は知りえない
水平線にまで続く海に負けじと輝く眼下の港街
白い壁、赤や黄色や紫の屋根、教会ののっぽな十字架
僕の住むこの家だって街を形作る一つの要素だ
住居としての意味以外に何も持たない家だけど、街の一端としての役割はちゃんと担っている
街は、さして重要でない物たちに彩られている
我慢できずにデジタル時計の表示する時間を盗み見る
時間に囚われなくても十分に快適に過ごせそうな日には
なるべくそれを見ないようにしている
時間は等しく世界を区切っているくせに
それを一度目に入れてしまうと、焦ったりもっとのんびりしたり
こっちの方からスピードを変えてやろうとしてしまう
ところで今は9時32分。
やっぱり心の隅の方で焦った
どうやら光はずいぶん長らく僕の顔を撫ぜていたらしいな
そう考えながら螺旋状の階段を降りる
足許がまだおぼつかないので
手すりを頼る
寝ぐせが額の上をひょこひょこと動く
目を細めて鼻をすする
体はこれからの活動に向けて準備をしている
「あら、やっと起きたのね。ご飯は冷蔵庫にしまっちゃったわよ。冷たかったらレンジでチンして温め直しなさい」
目や口が窪んだ母は、つくづくはにわに似ている
いつものように、朝の連続ドラマの再放送を観ていた
僕は曖昧に返事をして、洗面所へ行く
高い音を鳴らして蛇口をひねる
顔に冷えた水をかければかけるほど
頬が火照っていくのが分かる
まつげにくっついて取れなくなっている目くそをもぎって排水溝へ流す
そのまつげも一緒に抜けた
冷蔵庫には果たして、焼いた食パンに卵焼きを乗せたものと、レタスやトマトのサラダが一つの皿に収まって平たく置かれてあった
温め直すほどのものではないだろう、と思って
ラップを剥ぎ取り、パンにかじりつく
黒い焦げ目がパリパリと割れて
中のふっくらした生地を口に含む
水っ気が少なくてどろりとした唾がそれにまとわりつく
こんな時には牛乳しかないぞ、と口裏で呟く
だがしかし、できる限りそれを先延ばしにして、サラダで代用しようと努める
つい先ほど行った冷蔵庫へまた近づくのが億劫だった
まるで、さっきの僕の行動に不備があって、訂正しなければいけないみたいだ
しかし、そんな些末な諸問題は別として
僕は一種の幸福感を感じていた
目を開けてからずっと、あるいは目を閉じていた時からかもしれないが
ほんのりとした幸せがどことはなしに溢れているのに気がついていた
それはカラッとした淡い磯の香りが
空気をわざわざ入れ替えなくたって
もう一生払拭できそうもないくらい
家中に深く根ざしているように
気づいてしまえば途切れる間もなく
細く長く続いている性質として
だけど、そんな幸福を見て嫉妬した何かが
裏から恐ろしい陰気を投げつけたように
僕は別のある辛い事実にも手を伸ばしかけていた
まだしっかりと掴むことはできないだろう
それでも、幸福と同じように
そいつは絶対に立ち消えたりなんかしないで、僕を追い回すに違いない
トマトの液汁が歯と歯の間を抜けていく
車の駆け抜けるタイヤの音が近くに聞こえた
朝のドラマはエンディングに入っているんだけど
母は手にしたリモコンをふらふら上下させるばっかりで電源を落とすことを迷っている
これからのことを考えて気を紛らわせようと僕は決意した
そのために、ついに椅子から立って牛乳をくみに行った
視線をなるべく一つに集中させないで、食べているものと、外に落ちてあるはずの様々な宝物のことを想像して、
不意に泣きそうになる
どんなに遠ざかろうとしても、無意識のうちに欲してしまうものがある
それが結局のところ、不幸という名前であるのを分かっていても、どうしようもない
僕はこれからずっとそれを求め続けるんだろう
既にそれが不幸なのかもしれない
そしていつかきっととめどなく知るんだ
僕らのいるこの世界が
ただの夢幻でしかなくって
いずれぱっと消えちゃうってことを
トン・トン・トン
ツゥ・ツゥ・ツゥ
トン・トン・トン
トン・トン・トン
ツゥ・ツゥ・ツゥ
トン・トン・トン…
唯一覚えているモールス符号を
こっそりと宙へ打つふりをする