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呼応  作者: 師走
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6


夜においては、世界は多面体であるその姿を顕著に現して

子供の安らかに眠る貸家の三階へ月光を投げかけ

他方は、居酒屋の喧騒に任せて

あるいは泥棒たちのささやきを黙認し

また連日のダンスパーティの、閉ざされた会場を包み込む


パーティは会員制である

夜にたゆたう巨大な建物は無機質で、時に冷ややかな威圧すら感じさせるが

内側の狂乱の様をひとたび目にすれば

もはや恐れをなしたり、何か高尚な場所であると錯覚したりはしないだろう

いかにもそこへ入っていく人々は

肩身を狭そうにして、ある人は熱帯夜でさえ分厚いコートを着込んだりして

こそこそとしているのだが

あの断音扉をブスリと開け、吸い込まれるや否や

今までかぶっていた猫の仮面は放り捨て

誰彼構わず親しく挨拶をしつつ、カタカタ足裏を打ち鳴らして踊りだすのだ

実際、無差別に陽気な集団なのである


今夜はその集団の中へ、見慣れぬある男が混じっている

もっとも、パーティに参加する人間はいつの日にも変動しているから

知らない人物がふっと湧き出ていたとしても、それは全く不思議がられるほどのことではない

しかし彼はどうも独り、不自然に浮いているようであった

使われることはなかろうと思いつつ主催者が置いたはずの白机ーーその机への大衆の無関心さの表れとして、指で擦るだけで痕つくほどの埃が挙げられるーーの前へ立って

上品なグラスに半分ほど注がれたワインを見つめている

……正確に言えば、紅のワインに映り込む、自分の表情を見つめているらしい


後から会場入りした者たちが背中から声をかけても、ちらりと目線をくれてうなずくだけである

ただし、その一瞬に見せる眼球の中には

自信のような、狂気のような、つまりこのパーティに相応しい光が潜んでいる

場違いな憂鬱さを身にまとった人物ではないのだ

それが男の存在をますます異様なものにしている


周囲ではもう人々が舞っている

彼らはしかし、意識を少しだけ男の方へ向けている

男の体の中で、ちりちりとくすぶり続けている可能性を気にかける

それでも誰も誘いには行かない

きっと待ち人でもいるのだろう、ここではただ立ちつくして待つ必要もないのに、と思っているのだ


事実、彼は人を待っていた

自身と睨み合いをしながら、誰かが来るのを待っていたのだ

そしてその相手は、とうとう現れた

扉が重々しく開かれ、ひょっこり顔を覗かせた女は

周りを確認しながら慎重に会場に入り、勝手に閉まる仕様のこの扉でさえも、ことさら注意深く扱っていた

強張った表情からしても、新参者であるに違いない


このパーティに新参者が来ることは極めて特別なことであった

数年前、管理上の問題から会員をこれから増やさない旨が通達されていたからだ

すると、この女はそれ以前に登録をしていたのか、それとも何か隠れた手続きを踏んで認められたのだろう

ともかく、これで男が自分を抑えるようにして待ち続けた理由は判明した


女は忍び足に一歩ずつ進んで、やがて机にいる男に気がつき、近寄った

男は依然俯いている

女は背中をつついて自分の到着を知らせようとしたが、それはすんでのところで思いとどまり

机の反対へ移動し、男と向き合って立った


すると、彼はやっと顔を起こした

ワインはあれから全く減っていない

実に映し鏡としてこそ、その液体は買われたのである

彼女は何やら言いながら手を合わせた

約束の時刻に遅れたのを詫びたのか、もしくは遅れはしないまでも彼を待たせたという事実に対して、形式的に謝ったのかもしれない


彼も一言か二言、返答をした

そしてそれきり二人は黙ってしまった

彼らを除いて、全ての人はますますヒートアップしていっているというのに

動きもせず、じっとしている


ステージの裾にいる演奏家たちが奏でるジャズのメロディーが流れていく

それを二人で静かに聴いていた

途方に暮れているのではない

私は、時を待っているのだ


トランペットの独奏が始まる

私は彼の指先を握った

今ならばきっと受け入れてもらえると思った

なにしろ私は、澄むような口紅を細く塗って

眉毛も自然に剃り上げられているし

爪先は輝くように光り、肌は時計のように美しく

ドレスだって広がった裾に空気が孕まれて淡く浮き立つほどだったのだから


これほど完全な瞬間は、生まれてこのかた一度だって経験しなかった

だからこそ、普段では絶対に動けなかったはずの私の体は

誘われるようにその指を握ったのだ

引導するように白い机から解き放して

ワイングラスが横転し中身が溢れるのにも捕われず

硬い音を立てつけるハイヒールでさえ、遠慮したふうに静まって

円い電灯光で囲われた、板張りのホールへ踊り出る


周りの人々が怪訝な顔を向ける

いつもであれば顔と顔とがぶつかってでさえ気にせぬような奴らなのに

私に圧倒されて、蟻の子のように避けてくれる

必死に彼が私に歩調を合わせた

そして期待した眼でこちらを見ている


ああ、ああ!!

今の私は自由なのだ

開放された、完全な境地

クラゲめくドレスは私を空翔ぶように見せているだろう

激しいステップからは、バチバチした閃光が爆ぜているだろう


足を伸ばす。手を振り回す。何かを叫ぶ。


もう、誰の声も、音楽も聴こえなくなっていた

廻る世界は既に線となって溶け込み

万物はさして深い意味を持たず

ただ、自分という視点のみがここに残り

際限なくエネルギーを発している


そして彼は実に巧みに私に同化していた

ほとんど暴れているほどの私に足を引っ掛けもせず

紅潮した顔でエスコートを試みている

パリッと装ったタキシードは似合っているし

呼吸のリズムも揃い、それらは私をますます立派にさせた


私は宇宙をひしひしと感じていた

勢いは増すばかりで衰えを知らない

熱いマグマが私の中を脈々と走り

一息に、外に向けて噴出していた

私を私と縛っていた細い線すらほどけていって

ただ全体で爆発を繰り返した


……………

……………

……………

……………

……………。



男は床に仰向けに倒れた状態で意識を戻した

女も男に重なるように倒れていた

ぼんやりした頭で見回すと、そこら中に倒れ込んでいる人々がいた

台風が過ぎ去った後のようである


ふと、男の頬に熱い何かが伝った

それは涙であった


重さに耐えきれなくなったように、顔を滑り落ち、着ているドレスに染み込んでいく


もう朝日が昇り出している、その外に想いを馳せる余力もなく

しかしとめどなく泣いていた

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