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三ヶ月前、家でチャイムが鳴らされた
私は怠惰に机へ足を載せ、焼いたばかりのトーストをほふりつつ新聞を眺め、寝ているのか起きているのかわからない心地でいたのだが、「はい」とやや不明瞭な返事をして、欠けたトーストを皿に戻し、新聞も机にしっかり開いて置き、足を床へ下ろして玄関へ向かった
扉を開けてみるとスーツ姿の男が立っていて、「すみません。私、特別販売員の飯田と申しますが」と頭を下げた
私はその男のこちらへぴんと伸ばされた背中をじっと見た
スーツはシワひとつなく、ひたすら黒い色をしていた
彼は長らくのお辞儀によって、あたかも私が心を許したかのようにぴょこんと顔を上げ、気の良い表情で「では早速説明を始めさせていただきたいんですが、あなた、幸せって何かご存知ですか」と言う
「知りません、要りませんよ、そんなもの」
私は彼が何を提示するか知らないまま断った
遠くの空でぴかりと稲光が走ったのが、彼の背中越しに見えた
「いやいや話を最後まで聞いてくださいよ。これは、誰もが幸福になれる…」
ガラガラと扉を閉め、鍵を掛けた
半透明ガラスの向こうで、漠然と体の輪郭を滲ませた販売員は、それでもまだ「今ご契約いただけますと十日間無料でご利用いただけますよ!」と声を張り上げていた
そういった経緯、その三ヶ月前のいきさつを、今玄関先でこの男を見た瞬間に、すぐに思い出したのである
「お久しぶりです、飯田です」
「他をあたってください」
彼は首を横に振り、「今日はとても素晴らしいものをご用意しました」とヒソヒソ囁いた
「…あなたにも、嫌いな人、迷惑がっている人がいるでしょう?そのような人を、不幸にしてみませんか」
「いや、いいです」
以前と同様に扉を閉めてしまおうとしたが、飯田は足を差し入れてそれを阻んでいた
悪趣味なやつだな、とため息をつくと、彼はお構いなしに「これは、誰でも不幸にできるシロモノですよ」と続ける
私はいらだって語気を強めた
「ならあなただ!あなたを不幸にする!さあ、お引き取りください」
遥か彼方では雨が降っていた
黒い雨雲から、水の線が数本走っていた
けれどもあの夕立はまだここへ到達するまでに時間がかかるようで、玄関の内には目を細めたいほどに眩しい夏の光が、コンクリートに弾かれて拡がっている
飯田はしばらくきょとんと首を傾げていたが、やがて意味を解したらしく、「ああ、ああ!私を不幸に」と言った
そして一歩後ろに引いて、すっと胸を張るが早いか、ズボンのポケットから長い刃物を取り出して、柄を両手で包み込んで自分の体へ突き立てた
鮮血は刃を伝って彼の手に到達し、ぽたりぽたりと滴った
円状に、あの美しいスーツの色が一層濃くなっていく
土砂降りの予兆として、耳鳴りがキンと鳴り響く
私はげんなりしつつ「私が不幸にする、という話だったのに、あなたが自傷したって意味がないじゃないですか。あなたはただ帰りさえすれば良かったんだ。それに、もし死ぬにしても、あなたは不幸ではなさそうだ」と言った
満足げな顔をしていた販売員はそれを指摘されると、「しまったな」と呟き、今度はおよそ人間とは呼べないほど血の気の引いた、どす黒い皮膚をして、目一杯苦悶の表情を作って見せた
ばきり、と体が二つに折れて背中から崩れ落ち、白く尖った骨が飛び出した
体はミイラのようにからからに乾燥し、腐乱臭を求めてやってきた蝿たちが飛び回る
目は窪み、髪は抜け、けれどもスーツだけは依然として輝くように整って着付けられていた
私は鼻をつまみながら呆れて右手をひらひらさせ、「だから、私でなくって自分で行動してどうするんです、そんなのただのあなたの勝手なんですよ。あなたは帰るだけで十分なんです」と言った
すると、彼の体は煙立つように浮き上がって、足先から順繰りに再構築されていった
それが頭頂部まで終わると、彼は「理解しました、なるほど、そういうことですか」と答え、やたら細かくうなずいた
一陣の風がうねって、近所中の家の屋根をがたがた揺らせた
私はもういいだろうと扉を引こうとした
だが、どういうわけか手に力が入らなかった
それどころか、息の吸い方をついぞ忘れて、はっと手を首にやったのだが、もはや遅かった
まるで自分で望んだみたいに、抵抗なく前のめりに転んでのたうち回る
「私としては、せっかくの取引先のお客様が、契約前に死んでしまうと、とっても不幸に感じますねえ」
販売員の声は少し震えていた
私が必死に顔をもたげて彼を見ると、彼は目尻を耳より下へ垂らして、唇の端は反対に額近くまで、その目尻の線と交差させて伸ばし、肩をくつくつ震わせて笑っていた