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お母さん、ここは暑いねと言った
そりゃ、あっちと比べればねと笑われた
海に行きたいなとねだってみると、少し黙って時期が時期だからと言う
今だからこそ人だってそんなにいないよと言うと、はい、じゃあもう少し日が落ちてから、少しだけね、私は車から出ないよと言った
それで車は後に走った
お母さんは、人に近づかないようにと何度も聞かせた
背は低いが横にだだっ広い家々が物珍しい
田んぼの稲は淡緑色の草をひるがえらせる
故郷のくせに別天地であるから、懐かしくもなかった
明るい日差しは外を覆い、車の中はむしろ薄暗い
意味もなくお母さんの座っている運転席の椅子をがたがたさせると、こら、と叱られる
持ち込んでいたソーダのアイスはすっかりなくなって、ハズレのアイス棒は真っ二つに折れてティッシュにくるまっている
談笑するうちに、開いた窓から磯臭い匂いが紛れ込んできて
私は着替えとバスタオルの入ったナイロン袋を抱き寄せた
右手にはやっと見覚えのある港町が続いていて
左手は砂浜を隠すようにコンクリートで固められた堤が伸びる
『開門厳禁』と所々に赤字で書かれてある
しばらく行くと、その堤が突然ぽっかり口を開いて黒々した水面が姿を現した
車は停まり、お母さんは辺りをきょろきょろと観察して誰もいないみたい、と言った
確かにそこには誰もいなかった
ビーチパラソルが一つや二つありそうなものだったが、砂浜はがらんとしていて釣り人すら見えなかった
じゃ行ってらっしゃい、という声を後ろに聞きつつ、静かに外へ降り立つと生温い風がじわじわと足元を抜けていった
潮はかなり引いているらしく、湿って変色した砂の部分が大きく広がっていた
流木や船の浮きが周りに散らかっていて、目を少し凝らすと茶色い海ガラスがあった
上半身は既に裸だったが、ズボンや靴や靴下はここで脱ぎ去り、水泳パンツに替えた
砂浜をずっと向こうから、果ては永遠に遠くまで歩いていった人と犬の足跡が並んでいる
波が打ち寄せたり帰っていったりする音が耳を包んだ
海に向かって駆けだすと砂が後ろにぱっぱっと跳ねて、その部分はえぐられたようにへこんだ
水温は思ったよりも冷たく、弱い電気が足裏から心臓まで送られるように感じた
泡立った透明の塩水はせわしなく私の足首を撫でまわす
後ろを見ると車の窓からお母さんがこっちに笑いかけている
何度か水を蹴り上げて水しぶきを飛ばし、手指の先をそろりと浸けて
最後は思い切って体を放り出した
ひんやりした水が瞬くうちに二の腕へ鳥肌を起こし、ピンと立った体毛を洗う
腕を立ててワニ歩きをしながらそこらをぐるぐる巡り、さらには仰向けにラッコ浮きの姿勢を作ってぷかぷか浮いた
空を見上げると、途端に落ち着いた気持ちになって動けなくなった
波にまかせて、瞬きもせずにいた
今自分は海に食われているのだという気持ちが出てきた
だから自分では何もできず浮かんでいるのだ
ただ、それは明らかに自分が作り出した虚妄であって、実際海へ飛び込んだのは私自身だったし、泳ごうと思えばいつでも脚を動かせば済む話だったので、この考えは無論本気で信じているわけではなかった
波が私の体を前後に揺すって、しばらくするとそれは穏やかになり、この冷たさを除けば、ただ平坦な地に寝転んでいるだけなように思えた
ふう、ふう、と思いついたふうに呼吸をする
塩水が入って既に充血しているであろう両眼が熱を帯びるのを意識する
「それでいいから、さっさとやりなさいよ」
「はーい」
世界が揺らぐような大声のやりとりが空から聞こえてきて、虚をつかれた私は一瞬溺れかけた
次に、宙へ巨大な手が出現し、上から迫ってきた
周囲は一気に影めいて、私のはるか頭上でその手は海に着水し、そこを激しく引っ掻いた
たちまちのうちに渦が出来上がり、海の水はことごとくそちらへ吸い込まれていったので、私は巻き込まれては敵わない、逃げようともがいた
が、それは不要な心配であった
流れに呑まれるのを覚悟したまさにその瞬間、私は体が薄く伸ばされるような感覚を覚え、ひらひらと波の移動で手や頭が寸断されはしたが、やがて大人しく騒動が終わると、それらは元へ戻ったからである
ほっとして、私は浮かんでいた
だがすぐに、今度は別な不安に襲われて、ついにそのラッコ浮きを中止し、体を立てて四方を見た
遥か後方に、ゴマ粒ほどの大きさの車が見えた
あそこでお母さんは、私が遊び疲れて「楽しかったあ」と言いながら帰ってくるのを待っているのだろうなと思った
空はほとんど青紫に染まっていて、その中に燃えるような赤色が混じっている
海の流れは何の音沙汰なく、だが今もなお少しずつ私を沖へ押しやっているらしかった