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僕が住んでいるところは、汚いところでしょうと、少年は薄く自慢するように私に言い寄る、そういう集落があったとする。
私はそれに対して、いやいやさほどでもないよ、それよりも私はね、と言って、一呼吸置いて考える。そしてやっぱり何も言わない。
シオカラトンボが暑さに焼かれて地に落ちて、血管みたいな脈を羽根に通したまま少しずつ呻いているのが見える。小さな蟻がそのトンボの体のそばに近寄り、また急いで離れる。
「僕は長男ですけど」
少年は唇を尖らして、私に言う。私は少し困ったように頷く。
それから、しばらく雲の流れしか見ない。
私が行く先々に、山があり、川があり、街があり、人がいた。
それらの環境や、人々は、侵入者である私を、どうにか取り込もうとして、優しかった。しかし体内にできた膿は、いずれは外に出なくてはならないから。
「昨日の月を見ましたか?」
痛いほど澄み切った沢が私にささやく。
黙っていると、「昨日の月は綺麗でした」とまた言った。
それにしても、この脂っこい、粘性のある、重ったるい雰囲気をいかにせん!私はもう既にそれに酔ってしまって……、すっかり酔ってしまって、吐きそうだ。
沢はもう語らない。代わりに少年が「僕の秘密基地はまだ先です。ここじゃありません」と私を導こうとする。
私は何かを間違えていた。だからいつも何かを正そうとしている。しかしそんなことで修復できる類の、小さな誤差ではないのだ、多分。例えば、根本はたった3°違っていただけの二本の直線が、延長していくとどんどん開きが大きくなっていくみたいに。私の過ちも、もうずいぶん膨らんで、膨らんで、返済できない。
陽炎めいた谷を越え、camelの煙臭い街を抜ける。浮浪者と見間違うような、みすぼらしい姿の老人が、私を蔑んだ目で見つめていた。それに、少年はもうこちらを振り返らないのだ。
陽は傾きかけている。私は、歩く以外にすべきことがない。
遠からず両親が死ぬ。そうすれば、私も死のう。
地域の、きっちりと区画された、集合墓地でなくて、できれば無縁の、誰に思い起こされることもない、そういう墓に、入りたい。
「ごめんなさい」
少年は、街の大きな通りを過ぎると、謝った。口元は笑っていたけれど、目にはいっぱいに涙を浮かべていた。私は許しもせず、頷いた。
そして、乾き切った喉を潤すための水を、あるはずもないのに、求めて手を伸ばした。伸ばした手は、果たして何も掴めず、空を切って、だらりと垂れた。
「僕も自分が嫌いです」
少年は言い訳のつもりで、早口に告げる。電柱にスプレーで相合傘が描かれていて、傘の右にも左にも、人名が書かれていないのが、悲しい。
そして、秘密基地というのは、埃っぽい、粗末な、ありふれた、忘れ去られた、小さな、小屋の中なのだ。
少年は、そういう秘密を、私だけに開示して、自分を美しく見せようとしていた。私はその健気さが、うとましくって、目を伏せ、いよいよ沈黙を深くした。
「あなたが憎んでいるのは、何なのです」
答え合わせをするための解答案を、少年は欲しがっているのだ、と私は思った。けれども、私に何が憎めようか?正義すら、溶けたアイスクリームのように、心許なくって、手にすることができない私が、どうして憎悪を燃やせるだろう。
少年は、汗の粒を乗せた鼻をこちらに突き出して、薄暗い中で体育座りをしている。そうして私は、この少年を愛し、懐かしんでいる。過ぎていく一瞬一瞬が、私の体に突き刺さって、どうしようもなく疲弊させる。
(綺麗事を口にするくらいなら、黙っていなさい。)
明くる日、私はその集落を離れて、できるだけ遠くへ行くために、急いでいた。
なぜだか、大勢の人を殺したような、せいせいとした達成感が、私の背中を突き動かすのだ。この達成感は、数時間程度で腐敗する、ナマモノではあるのだが、私はこれがないと、とてもじゃないが、やっていけない。
めちゃくちゃに、スピードを出して車がまっすぐ伸びる道路を滑っていく。
みんな弱いのだ。
私の一歩一歩は、不真面目で、嘘つきだけれど、それはあの車と、そう変わらない程度にだ。
ぐるぐると、回る風車が、遠くに霞んで見えている。




