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これまでの経験の統合を図って
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ふらり、と窓枠に腰掛ける、
その私の髪は風に沿ってはためく。
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発情したオス猫の声が団地中に繰り返し冴え渡る
向こうの向こうの夕日は、ビルの背後へ落ち込みながら震えている
…あたかも日常的な不安を抱えたサラリーマンのように。
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口笛を吹くと、キザったく思える
掠れた息を、密かに吐いて、ふと、泣き出したいような気になる
泣くと一層キザったいだろう、と考えながら、口笛をやめる
やはり涙は出ない。
¿
昔の事を思い出すことは、郷愁に浸ることと同義だ
反対に未来を思い浮かべることは、それはただ、実現しようもない虚妄をうらうら頭に巡らせるだけのこと
けれど、私は切ないほど、「今」という奴に思い知らされていて、
そこから逃げ出すための方法を手当たり次第試して行く
どの方法も、効果はさほど持続しない。
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母は私に「生きていて」と言った
生きていて、と確かに言われた
つまり、宙ぶらりな身体であったとしても、私はまだ……、仮に、生きているのだし、
しかも、それは危ぶまれる状態にあってなお、生き続ける事を、耐え続ける事を、期待されている
他ならぬ母親から。(ああ、彼女は幼き私がクレヨンで壁へ落書きした絵を、やはり苦労して拭い去っていたのだ。)
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私の目は霞んでいる、とっくに見えなくなっている
少し離れた場所で起こった出来事は、どれほどそれが強烈なことであったにしても、
ぼやけた視界の中で、淡い水彩絵の具を垂らし込んだ程度に収まってしまう
そして、私の肌は、固く錆びついて、あまつさえ茶けた皺が刻まれている
地表と空との間に横たわる空気の厚みを、もう感じることはできない
手に取れるもの、知りうるもの、それら全てが、偽物のような気がしてならない
右腕を伸ばして、大事なものを掴もうとしようにも、これではあんまりインチキ臭い。
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しかし、私は苦しんでいるのだろうか?
私は助けを欲しているだろうか?
嘘で塗りたくられた部屋の中にいて、どうして私自身だけ正直に居られるというのか
胸の内側でぬめりを帯びているこの怪我は、やっぱり自演の産物だし
喉の奥よりまだ底深くからぐらぐら絞り出される呻き声も、ただの道化だ
針小棒大、なんでもないことで、大袈裟に怖がって見せる、この、欺瞞的な態度
同情を誘おうったって無駄だ、無駄である、けれどもやめられない浅ましさ
一等悲惨なのは、自ら発する嘘に辟易している自分、この自分さえ演技でないかと疑う無限のサイクルに満ちた現状そのものだ。
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今日も細い糸のような耳鳴りが差し迫ってきて、私がそれと気がつくや、耳鳴りは嬉しそうにすり寄って急にボリュームを上げる
沈黙を好かない私に与えられた旧友は、いつもみすぼらしい格好をしている
破れかぶれのレインコートを寒々と着込んで、気の向くままに鼓膜を引き絞る
時間が経てば、耳鳴りは二重奏になり、また三重奏にまでなる
あまりのうるささに、私は耳に両手を押し付けたり離したりする
この耳鳴りは、さざ波のようだ
音の大きさが柔軟に変化して、押し寄せては少し引いて行く
なんだか、私が狂う限界を見極められているような気がする
私の耳は、もはや彼の専有物となって、私の身体から切り離され、持ち去られる。
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きりり、と胃の辺りを縛りつけられたような感触を覚える
さて、一種独特な形式であることは承知しているが、これが私の空腹である
腹が空くことは、腹が痛むことによって通知される
身体を運用するエネルギーは常に消耗し続けているのに、それを無視する鈍い私への警告なのだ
こんな時は決まって、へそ辺りを軽く押すだけでぐにゃりと凹む
人間失格の冒頭の、自分は、空腹という事を知りませんでした。を思い出す
そうしてこの腹痛は、放っておけばいずれ鎮まる
そうかい、これほど伝えても聞き入れてくれないかい、と諦めて、
しん、としてしまう
胃にまで呆れ返られているようで、少し嬉しい。
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わざわざ這いつくばって、無限に伸びる一本の地割れを覗いた、とするならば、
そんな行動を取らせた動機は…好奇心に違いない
どこまでも縦に貫くそれを見て、せっかく好奇心を満たしたというのに、どうしてこわばった表情をする必要があるだろうか?
真っ暗な深みが、そこにはあって、私はそれを望んだままに見てしまったのだ
だからこそ私は、これまでに生きてきた人々が、総じて死んで行くことを考えると、底知れぬ安心感に撃たれる
闇をせり上がってくる、煙ったいくらいの線香の匂いと産声とが、奇妙に調和している
決して私はそこに涅槃を見出すのではない、けれど私は涅槃を信じている
地割れがいつまでも閉じてしまわないのをいいことに、露出された永遠を信じる
だが、ふと顔を上げた時、私が受けねばならない印象は何であろうか
脆弱な生が、絶対の死の上に放置されている………から、
「生きていて」と鼓舞するように呻く。
¿
小学生が自転車を乗り回して遊んでいるのを見て恐れ
ピアノが静かな休日を奏で始めたのを知って恐れ
父の帰宅を喜ぶことを恐れ
晩御飯の用意が済んだことを告げられるのを恐れ
そして、誰も何も言わぬ虚空をなお恐れた
私の身を守る術は全くないに等しく、いやむしろ、恐怖することは趣味であるとさえ思った
うわべで取り繕う優しさがあるなら、表面上の恐怖もまたあるはずなのだ
私は怖がることを良しとして、何を見ても、そこへ化け物の影を読み取った
そしていつしか小学生は帰り、ピアノは鳴り止み、父は出勤し、私は晩御飯を食べ終わって
誰も何も言わぬ虚空だけが沈殿していた
無音の鼓動に耐えながら、遺児のような心持ちで、私は次の恐怖を待たねばならなかった
飽くことなく、待ち続けていた。
¿
ぽつ、ぽつ、と薄青い空へ星が浮き出てくる
皮膚の内側に潜んでいたニキビが、急に膨れ上がって、白い膿を現すように、耐え難い感じで浮き出てくる
〈——夜は近い〉
その印象と呼応するように、顎骨を押し下げるようにして大玉のあくびが転がり出る
目尻から涙がにじむ
急激に冷え込んできた風が体を正面から抱き込むように通り過ぎる
涙はそれでもうほとんど乾いてしまった
私はそのわずかな涙痕に人差し指を這わせる
向かい手に、真っ白い蛍光灯の明かりが、各々の家を照らしているのが見える
一人の女が、頭を心持ち下げながら窓辺を横切った
薄茶色の服を着ていた
私はため息をつく
月はまだ出ない。




